優しい世界

御子柴善之の『カント哲学の核心』という本があって、私は、今、日本で読めるカント入門としては、一番いいと思っているが、それ『プロレゴメナ』に基いて、かなり丁寧に説明をされているということで、この難解なカントの文章を、かなり分析されている。
そして、この本を読んでいても感じたことではあるが、日本ではカントは大きく勘違いをされている、という印象を受ける。それは、カントの哲学が、数学における、ブラウワーの直観主義的数学に比較されるように、カントはあくまでも

  • 人間にとっての哲学

を目指したのであって、それは

  • 神の哲学

ではなかった、ということなのではないだろうか。そのことは、理性の評価に関係している。カントは理性の自己運動によって、なんらかの誤謬推理を行いかねないと注意をしながら、他方において、それを「統整的理念」という言葉を使って、

  • ある場合においては

積極的に容認する、といった姿勢を示す。
このことは、ようするにカントの行う「人間の哲学」は、ある種の

  • 間違いを含む

ことをいとわない、と言っているのと変わらない。ようするに、カント哲学はその結果において、なにかを間違えていたという事態そのものを、それほど重大視していない、ということなのだ!
このことは、多くの人たちに、大きな驚きをもって聞かれる。カントは絶対的な理性による、完璧な体系を作ったのではなかったか? だったらなぜ、そこから演繹される「完璧な何か」を、あくまでも追及する

  • 完全知

を自らの自負のもとに目指さなかったのか?

さて、私たちは、超越論的理念として、心理学的理念(魂)、宇宙論的理念(世界)、神学的理念(神)が体系的に導出されえたことを見てきた。私たちがこれらの理念を客観的に規定できないことはすでに明らかだが、それを考えることには意義があると、カントは指摘する。私たちは心理学的理念において、経験によって規定できない「魂」を考える。これによって経験的認識に制限があることを自覚することで、私たちは唯物論から解放される。なぜなら、唯物論だけでは自然を説明できず、むしろ自然の説明には「私は考える」という統覚の自発的なはたらきが必要だからである。そもそも、統覚の自発性は唯物論では説明できないのである。次に、宇宙論的理念によって、私たちは可能な自然認識えは世界をとらえ切ることができないことを知る。自然認識にはつねに制限があるからである。これによって私たちは、自然はそれえだけで十分であるとする(したがって、自由を認めない)自然主義から解放される。さらに、神学的理念によって私たちは、第一に、すべては偶然であり他の何ものかに依存していると考えるタイプの宿命論から解放される。同時に、神学的理念が理念に過ぎないことを踏まえることで、すべてを第一原因としての神による結果と考えるタイプの宿命論からも解放される。

このように、超越論的理念は、私たちに積極的に何かを教えるためではないにせよ、それでも、唯物論自然主義、宿命論という、厚かましくも理性の領野を狭める主張を廃棄し、それによって思弁の領野の外に道徳的理念のための余地を作ることに役立つのである。そして、このことが、あの自然素質をなにほどか説明するだろうと、私には思われる。(Ak363、中公180、岩波237)。

この引用文における、「唯物論自然主義、宿命論」を廃棄することによって道徳的諸理念のための余地を確保うるという主張は、『純粋理性批判』第二版への序文における有名な一文、「私は、信仰のために場所を得るために、知を廃棄しなければならなかった」(BXXX)に相当する。
御子柴善之『カント哲学の核心』)
カント哲学の核心―『プロレゴーメナ』から読み解く (NHKブックス No.1252)

こうやって考えると、カントはあくまで「神の哲学」としてあった、伝統的な哲学の伝統を踏襲することなく、「人間の哲学」としての、間違いを含む哲学を容認することによって、むしろ、それによって

  • 道徳の場所

を確保した、という方にこそ重心があるように思われる。
大事なことは、人間は神じゃないんだから、完璧な知の体系は手に入れられないんだけれど、だったら、なんで哲学なんてやっているんだ、という話になる。どうせ、完璧じゃない、間違いを必然的に含む、そんなものにかかわることに、なんの意味があるのか?
しかし、おそらく、カントに言わせれば話は逆なのだ。
哲学なんて、どうでもいい。まあ、どんなものだっていい。もしも

  • 道徳的

な何かが実現されているなら。
まあ、人間生きていて、これ以外は、どうでもいいのだ。
例えば、以下は柄谷による、仏教論ということで、めずらしく柄谷が仏教について言及している場面であるが、言っていることは、ブッダの姿勢において、カントの批判哲学と、とても似ている、ということであろう。

仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとして見る。しかし、それが何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者の実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、仏陀は、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。
柄谷行人「仏教とファシズム」)
批評空間 (第2期第18号)

ようするに、学問が正しいとか間違っているとか、そんな神学論争よりも、はるかに

  • 倫理的

な、人々がどうやって生きているかの方だ大事なんだ、と言っているわけ。だから、カントは純粋理性批判によって、その足場を固めたことによって、本丸である、実践理性批判を書いたのであって、もともと書きたかったのはこっちだ、ということなのだ。
まあ、考えてみてほしい。
どんなにこの世の真実が、科学によって、実証的に発見されようと、戦争で、第三次世界大戦が起こって、核兵器が大量に使われれば、一瞬で人類は滅びる。そうやって、滅びた後で、なにが正しいのか間違っているのかとか言ったって遅いわけである。
というか、そもそもストア哲学にしても、人が考えるということは、こういうことだったのだ。これを根底から反転させたのが、おそらくニーチェなのだろう。
ニーチェは、こういった「優しい世界」を、

  • エリートを生きにくくする

という意味で「悪」と考えた。弱者が群をなして、強者を弱くするという意味で、人間の優しさを本質的な「悪」につなげた。オリンピックの選手でも、優れた人が、その優れた能力を、のびのびと発揮することを

  • 言祝ぐ

ことが「善」であって、弱者が弱いがゆえに滅びることは、「進化論的必然」として、今度はニーチェ

  • エリートが弱者を嘲笑する

こと自体を、「自然本来である」とか、「美しい」姿であるとか、あるべき人間の姿だとか、礼讃始めた。
しかし、ね。
そもそも、強者であり、エリートは、それそのもの、その存在が「強い」のだから、勝手に生き残るんだよね。弱者がそれに対して抵抗するのは当たり前で、つまり、弱者は「あがいて」いるんだ。
つまり、ニーチェ主義は、ある種の

  • 自然=本来あるべき何か=本質

のようなものを考えているのであって、例えば、学校受験で成績の悪かった奴が「生きている」ということ自体を「不道徳」だと言っていること、なんでこいつらは自殺しないんだ、と言っているのと変わらないんだよね。
ようするに、ニーチェ主義が根本的に間違っているのは、たとえエリートがどうあるべきなんていうことを言っても、

  • 人間が生き残る

ことが実現しなければ、全ての人間が死んでるんだから、意味ないよね、っていうことであって、そして、事実として、過去から人間は弱者としてみんなで助け合ってきたから、今も、生きているのであって、その事実は変わらない、ということなわけでしょう。アイロニカルに言えば、エリートは弱者が助けてくれなくても生きていけると思っているんじゃなくて、弱者がエリートを助けるのが

  • 当たり前

と思っているだけで、みんななんらかの「優しい世界」を前提に生きていることには変わらないわけであるw
そういう意味で、上記のようにカントやブッダ(や柄谷)が、その「優しい実践」をを当たり前のように語ることは少しも不思議じゃない、ということなのであろう...。