論語に
- 巧言令色鮮仁(こうげんれいしょくすくなしじん)
という言葉があるが、私たちは、どんなに勉強ができて、頭の良い人でも、やたらと自分の演説に酔って、一人で話し続けて、他人の話を聞かない人を
- 警戒
する傾向がある。それは、結局のところ、人というものは
- もしも自分が「間違った」ことを話してしまうことで、他人を傷つけてしまうのではないか?
と相手を一人の人格として、「畏れ」るものだと考えているからで、そう考えるなら、そんなに軽率にペチャクチャと話をできないものだ、と考えているからだ。人が何かを話すときは、その人は、その話しかけている相手を、だまくらかそうとしている時であり、相手に
- 魔術
をかけようとしている時であり、だから相手に話しかけることに「動機」があるから、やたらと艶言(れいげん)を尽して、幻惑させている、というわけである。
しかし、そのことは、その人がまったく話さない、ということを意味しているわけではない。なにか、「必要」なことがあれば、まさに「仁」を備えた人格者として、滔々と語るわけだが、ようするに、その場合においても、簡にして要を得ているわけで、つまりは、要点を押えた、簡潔なものである、というわけである。
そこで、儒教においては、「徳」のある人格者は、別に学がなくても、つまり普段は体育会系のような人であっても、いや、そうであるからこそ、むしろ、寡黙で、朴訥で素朴であることが、一つの
- 有徳な人
として、賞賛されたりわけだ。
さて。
他方において、私たちはよく「偽善者」という言葉を使って、他人を批判する。この場合、ここでの「偽善」という、他者批判のスタイルは、典型的には
を意味していると考えてもよいわけで(なぜハイデガーの場合は「隠れ」ているかというと、ナチスとの関係で、通俗的な意味でさえ、露骨に評判が悪いからw)、ようするに
- お前は<自然>じゃない
と「キレて」いるわけである。
しかし、そうだろうか?
つまり、「偽善」であることは、そこまで「キレら」れなけれはいけないことなのであろうか? 偽善の反対は、「正直」ではない。偽善の反対は
- 露悪
である。ようするに、「巧言令色鮮仁」なのだ。露悪は、「鮮仁」なのであって、ようするに、なんでも「しゃべればいい」ってわけではない!
相手を「偽善者」と罵(ののし)ることは、相手を、ちょうど「巧言令色鮮仁」の反対だと吊るし上げていることと同値になる(つまり、「巧言令色」は、こういう「儒教の説教」のような、「綺麗事」を嫌うわけであるw)。ようするに「偽善者」は、ホンネで語っていない、なにかを隠そうとしている、自分の全てをさらけ出してぶつかろとしない、といったように、つまりは相手の
- 本質
において、ダメ出しをしている。しかし、こういった「本質主義」は、結局のところ、なにか、どこかに本質なるものが「ある」と言っている時点で、そもそも、この世界の「あり方」を大きく捉えそこなっているのだと言わざるをえないだろう。
ところで、BUMP OF CHICKEN の曲で、この「偽善」がテーマになってある曲がある。
大丈夫じゃなくて 当然の社会
貧乏クジ引いたわけじゃないんだよ
優しさの真似事のエゴでも
出会えたら 無くさないように
(BUMP OF CHICKEN「透明飛行船」)
優しさの真似事は優しさ
(BUMP OF CHICKEN「透明飛行船」)
ホンネ主義者は、偽善者の「善意」を
- 馬鹿
にする。しかし、そんなことを言ったら、カントの言っていることは全て「偽善」であろう(まあ、だからニーチェはカントを嘲笑の対象としたわけだが)。偽善者の「偽善」が、不器用な凡才が、なんとか絞り出した、なんとか回りをとりつくろった、なんとも不恰好な格好悪い、田舎者のイモっぽい、ださい、あかぬけていない、とにかく、
- ダメ
なものであるとして、だからといって、そういった「真似事」の優しさも、バカがつくくらいに徹底したなら、それはやっぱり本当の「優しさ」なのだ。というか、「優しさ」はそういう形にしかない。
この私たちの
- 大丈夫じゃなくて、当然の社会
においては、なにもかもが自分の思うがままに回るわけではない。しかし、だからといって、そんなことは「たいしたことじゃない」のであって、そんなことは「当然」なのだ。
「大丈夫じゃない」ことにおいては、他者は不透過な存在としてしかありえなく、なんとも頼りなく思われるとしたとしても、その「作りもの」のような、「ぶきっちょ」な相手からもたらされる
- (ホンネ主義者の言うところの)優しさの真似事のエゴ
は、たとえそれが真似事だったとしても、少なくとも「優しさ」であろうとしたことは確かなのであって、その意味においては、やっぱりそれも「優しさ」なのだ...。