一体、「悪魔」とは誰のことなのか?

川崎登戸事件は、事件発生当時こそは、むしろ不必要なまでに、激しく、岩崎隆一容疑者(51)を非難する報道が連日のように行われていた(そこには、ネット上での「死ぬなら、ひとりで死ね」の大合唱も、その一つと数えられる)。だが、最近は、とんと報道もされなくなった。
なぜか?
その答えを考える上で、その境目に起きた、ネット上での「炎上」案件は重要だろう。
一つは、「死ぬなら、ひとりで死ね」に同調した、立川志らくという人による、犯人に対する「悪魔」呼ばわりがあり、もう一つは、松本人志によるテレビでの、「不良品」発言があった。

学校に行こうとしていた子供の命を奪った悪魔に対し、子供を巻き込むな!ひとりで死んでくれ!の言葉は普通の人間の感情だ。この怒りをどこにぶつければいい!この言葉が次の悪魔を産むから言うな?被害者の前で言えるのか。何故悪魔の立場になって考えないといけないんだ?でもそれが真実なら謝ります
@shiraku666 2019/05/29 06:30

問題になったのは、6月2日放送『ワイドナショー』(フジテレビ系)での松本のこんな発言だった。
「僕は人間が生まれてくるなかでどうしても不良品っていうのは何万個に一個(あると思う)。これは絶対に僕はしょうがないと思うんですよね。それを、何十万個、何百万個にひとつぐらいに減らすことはできるのかな?っていう、みんなの努力で。まあ、正直、こういう人たちはいますから絶対数、もうその人たち同士でやりあってほしいっすけどね」
川崎殺傷事件「不良品」発言こそ松本人志の本質だ! 過去にも同じ発言、社会や弱者への決定的な想像力の欠如|LITERA/リテラ

実は、松本は過去にも同様の発言をしている。2017年に、神奈川県座間市のアパートの一室から男女9人の切断された遺体が発見され、殺人や死体遺棄などの疑いで男が逮捕された事件を扱ったときである。
この事件を扱った17年11月5日放送『ワイドナショー』でも松本は「残念ながら教育とか、育て方とかを超えた存在。人間を工場で例えるなら、何千、何万個に1個出て来る不良品なんでしょうね。そいつがたまたま座間に住んでいた」と発言している。
川崎殺傷事件「不良品」発言こそ松本人志の本質だ! 過去にも同じ発言、社会や弱者への決定的な想像力の欠如|LITERA/リテラ

この二人は、ある意味で

わけであるが、彼らは、逆に、世間に「阿(おもね)った」「媚びた」わけである。
そうであるのに、なぜ、この二人の思い通りに、世間は泳がなかったのだろうか?
それは、もちろん、彼らの言う「悪魔」「不良品」が

  • 非人権的(または、優性思想的)

と受けとられたからであるであるわけだが、もっと直截に、世間は容疑者が犯行の後に

  • 自殺

をしていることに、非常に敏感に反応したんですね。
ようするに、この「二人」は、このことの重大な意味について、まったく分かっていないんですねw
ところで、この事件は「子ども」に対する殺人事件だったわけで、こういった

  • 家族

の問題に非常に敏感に反応される、いつもの東浩紀先生も、この事件の発生時においては、いつもの通りに、敏感に反応しておられた。

ところで川崎の児童襲撃事件だけど、もしこれがランダムな通り魔ではなく、特定の学校のスクールバス待ち児童を狙った犯行だとすれば、教育関係者や保護者に与える衝撃はきわめて大きいのではないか。動機の解明がきわめて重要。
@hazuma 2019/05/27 19:35

ここで、「動機の解明」と言っているところがポイントで、ようするに、こういった事件が起きるたびに、東先生は、マスコミで積極的に発言をされて、いつもの

  • 世代論

として、例えば「おたく」が原因なら、「おたく」問題として、いろいろの蘊蓄を話されてきた、つまり、彼の言論人としての

  • 飯のタネ

として、使い倒してきたわけであるがw、ところが、一日経って、犯人が

  • 自殺

をしている、という事実を知るやいなや、急に、「トーンダウン」をさせてしまっている。

川崎登戸事件、おそろしく凄惨な事件なのに動機不明のまま犯人が自殺し深読みの可能性ももないということで怒りのやり場に困った人々が、コメンテイターを叩いたり電話で証言した市民を叩いたりブログ記事を叩いたりしているようだけど、なにもかも不毛なのでやめたほうがいいと思う。
@hazuma 2019/05/28 20:29

このように、もはや、この問題について、まるで

  • 話してはいけない

とすら言っているかのような、脅迫的な態度までちらつかせるようになっているわけで、どこか「異常」な雰囲気を思わせるわけである。
さて。これを、どう考えたらいいのだろうか?
おそらく、この事件が、東先生が考える、『観光客の哲学』で問題にしたような、

  • テロリスト問題

のフレームに収まっていない、ということを敏感に察知して、この議論をすることが「危険」と判断をされたのではないだろうか。

ぼくがここで念頭に置いているのは、ホームグロウン・テロリストやローンウルフと呼ばれる、先進国の内部で、組織的な背景がなく孤独に犯罪を準備する新しいタイプのテロリストたちである。彼らはイデオロギーをもたない。標的も政治家や経済要人に限らない。彼らはむしろ、この二一世紀の世界で幸せに生きる一般大衆、それ自体を攻撃する。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

そんな彼らの動機については、「まじめ」に考察すればするほど空回りしてしまう。彼らの行為は現実にひとを殺し、ときに自殺までしているのだから、「まじめ」と言うほかない。ひとの死ほど「まじめ」なことはない。しかしその動機をたどると、とても「まじめ」とは思えない浅薄さに出会うのだ。
東浩紀『観光客の哲学』)
ゲンロン0 観光客の哲学

面白いのは、今回の事件では、「自殺」だから、動機の解明が

  • できない

と言っておきながら、この『観光客の哲学』では、自殺をしているのに(または、警察に射殺をされているのに)、東先生はまるで当たり前のように「動機の解明」をしている(つまりは、彼らの「ふまじめ」さ、という解明をしている)というところに特徴があるだろう。ようするに、ダブスタなわけだw
そして、もう一つ重要なことは、『観光客の哲学』は上記のような、近年の若者テロリスト問題の

  • 解決方法

として、

  • 家族

という概念を後半では、ほぼ無条件で「礼讃」をしている、というところにある。ようするに、家族は東先生にとっては、この「若者テロリスト問題」に対抗する、

  • 最後の希望

として選ばれた概念なのであって、私たち未来を生きる人間にとっての、最後に託された<希望>として、言わば未来を託されているわけである。
ところが、である。今回の事件は、いろいろ分かってくばくるほど、むしろこの「家族」があったからこそ引き起こされた、極めて「家族的な犯罪」であったのではないか、ということが分かってきている。

岩崎容疑者は最も身近にいた伯父や伯母、または実家に帰ってくるいとこやその家族を巻き添えにするということは考えなかったのであろうか。
自分だけ公立の小学校に行かされた、(散髪代がかからないように)理髪店で短髪にされた等、親戚内で差別的扱いをされたことに恨みを持っていたとするならば、伯父伯母や自分が欲しかったであろう環境を得ていたいとこに対して殺意を持ち刃を向けたとしても不思議はない。
だが、岩崎容疑者はそうはしなかった。もちろん自分が生き残った時のスポンサーがいなくなることは避けたいといった計算もあったかもしれないが、もっと根深い闇があるとも言えるのではないか。
つまり、岩崎容疑者の行為によって、いとこやその家族は血縁をもつ、もしくは親戚というだけで一生責め苦を背負わなければならなくなる。その理不尽こそが幼児期から自分が背負ってきたもの。誰も一緒に持ってくれなかったではないか。
ほら、その重みを感じてみろ。
それは自分の人生を家の中に押し込めた者への最大の仕返しであると同時に、どこかでその体験を通じて、自分を理解してもらいたいとでも言っているかのようだ。圧倒的な孤独感の先にすら残る、最後の「つながりを求めた行為」とも思える。
伯父や伯母、いとこにしても岩崎容疑者が家族の一員との意識はなかったのだと思う。むしろ家族に侵入してきた異物であり、なんで自分たちがこの子どもと一緒にいなければならないのかと、被害者意識を持っていたのかもしれない。
【川崎事件】岩崎容疑者はなぜ伯父夫妻を襲わなかったのか(井戸 まさえ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

容疑者の伯父や伯母やいとこにとって、容疑者は

  • 異物

だったというわけであるだけでなく、

  • なんで自分たちがこの子どもと一緒にいなければならないのか

といったような

  • 被害者意識

すらあったというわけであって、むしろここにはこの「家族」という概念に、あまりにも縛られていたがために、このような不幸がもたらされてしまった、家族概念の

  • 弊害

を考えさせられる構造になってしまっているわけで、いつものように「家族が答え」と言えない東先生は、できるだけ、この問題に言及をしたくないのであろうw
大事なポイントは家族の愛は、まさに、その家族の

において、

  • 差別

されるのだ! このことをまったく分かっていないというところに、東先生という、(今さらのように、まるで日本会議のように、家族概念を礼讃するといった)「反動主義者」の本質的な欠陥であり、危険性があると言わざるをえないだろう。
そして、もう一つ重要なポイントが、この事件にはある。

こうした「離婚」にまつわる厄介ごとを回避する一つの方策として、離婚後も氏を婚姻中の氏を使用することができる「婚氏俗称」を含む民法改正が昭和51年に行われた。
それまでは離婚すると旧姓に戻る=復氏するしかなかったため、仕事や社会的活動を行う場合には旧姓に戻さなければならなかった。
改正が浮上する昭和51年の時点では婚姻時には98.8%は女性が夫の氏となっていたため、女性が離婚した場合、氏が再び変わり好むと好まざると世間に離婚したことがわかってしまうのだ。
母と同氏にすると子どもも氏が変わるので、学校等で「いじめ」の対象となり社会問題として捉えられるようになる。
【川崎事件】岩崎容疑者はなぜ伯父夫妻を襲わなかったのか(井戸 まさえ) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

ようするに、この事件の容疑者は、子どもの頃に、かなり本格的な

  • いじめ

を受けていた、ということが、むしろ今だからこそ、さまざまなマスコミの取材によって、多くの情報が集まってきて、その

  • 実体

が現れ始めている。

川崎の犯人の同級生が取材受けて「彼はクラス内でいつもトラブルになってた。自分こそ正義だと思って おり、クラスメイトから『孤児、親なし』と言い返されるが気にしていなかった」と答える姿が放送されてて「あぁ、こいつらが犯人の邪悪さのかなりの部分を作り出したんだな」としか思わなかった。
@Toku_No1 2019/05/30 17:54

分かっているのだろうか? 松本人志。お前によって「不良品」というレッテルを貼られた性質は、お前のような連中によって、さんざん、子どもの頃に、お前が自称する、まさに「いじり」という「いじめ」によって

  • 生まれている

のであるとするなら、むしろ容疑者の「欠陥品」的な性質はお前らのような連中に「からま」れてから生まれた、と考える方が自然なわけだ。だとするなら、この場合の、「不良品」としての

  • 生まれつき

なるものは、果して「どっち」のことを言っていることになるんでしょうかねw
分かっているのだろうか? 立川志らく。お前が「悪魔」と呼んだ人間は自殺をした。その原因の一端には、どう考えても、ここまで悪質な「いじめ」体験がないわけがない。そうだとするなら、なぜ、子どもの頃に、彼にこういった「いじめ」をした連中が

  • 悪魔

でない理由があろうか? 立川志らくよ。この容疑者を、さんざん「いじめ」続けた、彼の同級生たちは、彼は死んだのに、

  • 今も、のうのうとこの日本で生きている

わけですよ。分かります? 一方で、容疑者は自殺した。他方で、彼らは今も、のうのうと生きている。普通、悪魔って、さんざん悪をはたらいて、他人を死に追いやることによって

  • 自分だけ最後まで生き残る

連中のことを言うんじゃなかったですかね。さて。一体、どっちが「悪魔」なんですかねw 恐しいですね,人間ってw
言うまでもないが、子どもとは

  • 家族

という概念に内包される存在である。しかし、他方において、子どもこそ最も悪質な

  • いじめ

であり、

を行う存在でもある。むしろ、家族という「概念」そのものが、子どもに「いじめ」であり「悪」を行わさせている、といった側面があると言ってもいい。
そして、そうであるからこそ、だからこそ、この事件を多くの国民は、どうしても

  • 他人事

だと思えないからこそ、まさに一瞬にして、世間の風向きは変わり、だれもこの話題をしなくなったのだ...。

後記:
私たちが「いじめ」られる理由には、私たちが「弱者」だから、といった側面がある。つまり、弱いから。このことは、なぜ、電車などでの痴漢行為が、いつまでも止むことがないのかを説明している。痴漢をする男は大抵、どこか「へたれ」で、変態というくらいに、男同士の喧嘩だったら必ず負けるような奴なわけだ。つまり、彼らは自分より弱い、女性や子どもだから、痴漢という「暴力」をふるうわけである。
同じことが今回の事件についても言えるであろう。なぜこういった「暴走」が容疑者が「いじめ」られていた、子どもの頃に起きなくて、今起きるのかといえば、子どもの頃は、彼は弱かったから、ということになる。もちろん、大人になっても弱いだろうが、相対的に子どもに対しては、圧倒的な強者になっている。そして、弱いから反撃できなかった「恨み」は、その自制が単に弱かったからだけなのだから、弱くなくなれば当然、この自制はなくなるし、弱さゆえの自制に過ぎないのだから、その恨みはいつまでもなくならない。しかも、「家族」概念の価値を強調すればするほと、自分をいじめた親世代にとっての唯一無二の価値が襲われるわけであるから、容疑者の「復讐」感情を満足させる。
つまり、この社会が不必要に家族の価値をわめけばわめくほど、容疑者にとっての子どもを襲うことの「必然性」を高めてしまっている側面は否めないだろう。