八木雄二『神の三位一体が人権を生んだ』

私たちが産まれて、生きていく過程において、基本的に世界とは、身近な人間関係のことを言っていると考えるべきである。自分が住んでいる家には、父親と母親がいて、他の兄弟がいて、基本的に彼らは、自分が実際に、相手に干渉する関係にある。具体的には、相手の背中を触ると、一定の人肌の感触がある、といった形である。そして、これと同じような系列に、例えば、隣の家のおじさんは、ときどき我が家にお茶しに来ていて、部屋の扉が壊れていたら、直してくれる、といったような、ほとんど肌感覚に近いような、感触をともなった関係となっている。
ところが、国家はどうだろう。私は、この日本に住んでいる、ほとんどの人を知らない。実際に知らない。もちろん、統計をとれば、日本の人口は何人とか出てきて、実際にそれだけの人が住んでいるのだろうけれど、私は具体的に彼らが、どういうものなのかは、まったく知らないわけである。
同じような考察を、さらに海外にも向けてみよう。言うまでもなく、日本の外には、黒人の国もあれば、白人の国もあるわけであるが、事情は同じである。
私たちはこういった「知らない」人について、

  • 何かを言う

という行為が、一体、何を意味しているのかが、よく分からないわけである。上記で検討した、身近な人たちについては、そういった具体的な働きかけは、なんらかのリアクションとなって、自分が認識するわけで、いちいちが具体的に判断できる。他方、そうでない地球の裏側の人に「言及」するということが、具体的に何を言っているのかがよく分からない。

同じ個物を知っている者どうしならば、「ほら、あのときの、あれ」と言って、ある意味(ことばでそれを特別に指定することで)、「個」を他者に思い起こさせることができるが、それはあらかじめその個物自体の直接経験(知覚経験)が相手にある場合のみである。

同じことが国家においても言える。隣に住んでいる人には、こうしたらいいんじゃないのか、といったことをなんとなくではあれ、言うことができたとして、見ず知らずの人を同じ国に住んでいるというだけで、その人が「どうあるべき」なんていうことを言えるだろうか?
しかし、である。
これは、言えなければならないわけである。それが「人権」である。

ところが「人権」は、近代以降、哲学という広い分野で論じられることがほとんどなかった。にもかかわらず、いつのまにかヨーロッパでは常識になっていた。

このことは重要なポイントである。哲学は古代ギリシアアリストテレスの頃からずっと、

  • 反人権

なのだ! 哲学者はニーチェを代表として、必死になって、いかに人権が無意味な概念であるかを語ってきた。それは、上記の文脈でも分かるように、哲学とは

  • 身近な人間関係

についての「真実」を語る学問だったのだから、必然的に「人権」の非存在を自明視してきたのだ。

もともと奴隷制を正当化していたのはアリストテレスである。奴隷は善でも立派なものでもありえないから、家畜同様、主人の道具とみなしてよい、と彼は主張した(アリストテレス政治学』第一巻)。中世においてアリストテレスは哲学の一大権威であったから、これに対する反論はなかなか主張されなかった。

私はこういう意味において、現代は

  • 哲学の終焉

の時代だと考えている。現代においては、自分を「哲学者」だと自称することは、自分は差別主義者であると、自分は反人権主義者であると自称することと変わらない行為であるとの認識が人々に浸透して、今では、自らを哲学者と自称することは、たんに恥ずかしいことであるだけでなく、

  • 非倫理的

な野蛮な行為であると理解されるようになった。
結局のところ、哲学者は「人権」を哲学できなかった。彼らが哲学をやればやるほど、アリストテレスに戻り、

  • 差別

を正当化する、エリート主義に到達せざるをえなかった。このことは、哲学には、なんらかの瑕疵がある、ということを意味している。しかし、結局のところ、哲学は現代に至るまで、この問題になんらかの解決を与えられなかったのだ。
しかし、だとするなら、そもそもこの「人権」といった概念は、どういったところから現れたものであると考えたらいいのだろうか?

スコトゥスは、自然法によれば人間はだれでも「自由なもの」として生まれていると指摘し、アリストテレスに反して「人の自由を奪う奴隷化は悪である」と結論する。さらに彼は、自由の根拠は人がもつ意志と、神の正義にあると論じる。つまり理性的に自覚された欲求と、神に対する誠実さである。後者は正しい信仰と言い換えてもよい。正しい信仰とは、神に対して「まっすぐな心」を意味する。そしてこの信仰心は、神からの愛(霊的な愛)を受けとる。
つまりスコトゥス神学において「自由」とは、「欲するか欲しないか」あるいは「何を欲するか」という人間の意志能力がもつ選択的自由のみでなく、「信仰を通じて神(無限の善、正義、愛の根拠をもつもの)から正義の霊性を受けとること」も意味する。後者からは、「自由」が神の正義であることが結論される。それゆえ「自由」と「自由によって行為する個人」は、神学的に「正義」として主張されるのである。

掲題の本においては、「人権」はキリスト教神学から産まれた、という立場を主張している。このことは、上記で最初に述べたことにも関係していて、ようするに

  • 概念

の「普遍性」を議論するということが何を意味しているのか、に関係している。人間も精霊も神も、

  • 神の一部

という意味では、「同じ」である。しかし、人間と精霊と神は「違う」。この、ここで「違う」と言っているのが、なんのことなのか、といったことについて、キリスト教神学はよく

  • ペルソナ

という言葉を使ってきた。人間は全員、神の一部という意味では「同じ」でありながら、そのペルソナ(=語源的には、仮面と言うらしいが)においては「違う」と考える。
しかし、そう「用語的」には、思弁的に言ってみたところで、結局、同じなのか、違うのか、どっちなのかは、よく分からないわけで、この混乱が、普遍論争の中世での混乱と、ほとんど同じ事態をさし示している、ということになるであろう。
しかし、いずれにしろこの「人権」という概念が、後期スコラ哲学のドゥンス・スコトゥスにその萌芽が見られるとして、言ってみればそれは、明らかに

に起源がある、ということは注意しなければならない。
こういった文脈において、私は上記で

  • 哲学の終焉

について論じた。しかし、なぜそのような結論に至らざるをえなかったのかは、掲題の本では、それを、プラトンの描くソクラテスの「にせもの」性において、示している。
古代ギリシアプラトンの哲学の著作は、同じくアリストテレスの哲学の著作と同様、大量に現代に残っている。そのプラトンは、自らの哲学の著作スタイルとして

  • 対話編

という独特の形式を用いた。そして、その場合の「主人公」としてプラトンが選んだのが、ソクラテスというわけである。
ところが、である。
そもそも、プラトンピタゴラス派である。彼は、本質的には、ソクラテスに興味などなかった。彼の終生のライフワークは、ピタゴラス派の

  • 教義

について考えることであった。ただ、プラトンの仕事において、一つだけ例外がある。それが、『ソクラテスの弁明』と呼ばれる、彼の著作である。プラトンはそもそも、ソクラテスをよく知らなかった。ただ、プラトンソクラテスの死刑の場にいた、目撃者ではあった。そして、プラトンはその抜群の記憶力で、ソクラテスの言ったことをほぼ「そのまま」文章に残した。それが、『ソクラテスの弁明』である。
しかし、これ以外のプラトンの著作は、そういったルポルタージュではない。登場するソクラテスは、完全なる、ピタゴラス宗教教団の教祖「そのもの」に変えられ、まったく、生前のソクラテスを思わせる面影はなくなっている。

ところが、プラトンの他の作品を読んでいるうちに、わたしはこの説明に矛盾を覚えた。知らないと知ることによって、知らないままでいることを「恥」と感じ、「恥」と感じることによって知らないことを知ろうとする(つまり知を愛求する)とプラトンは考えている。この
プラトンの説明の論理がわたしにはどうしても腑に落ちなかった。

そもそも「それを知らないと知れば、それを知ろうとする思いが本物になる」というのは、人間が生きるうえでの一般原則として「正しい」のだろうか。もし正しいとすれば、たとえば「自分はじっさいに人を殺したことがない。だから人を殺すということを本当には知らない。だから現実に人を殺して、それがどういうことか知りたい」という考えにも一面の真理があるとせねばならない。これを正当とすれば、「人を殺してみたいから」というのでじっさいに行動をはじめる人間は、無知を自覚して知を追求する哲学的な人間であろう。このように考えて人を殺した事件は現実にも起きている。
概念を日常から解き放ち、純粋に、あるいは、単純に、ことばの論理を探るプラトンの論理では、「人を殺してみたい」「子どもをいじめたい」という歪んだ欲望と「知らないがゆえに知りたいと思う」という論理が結合し、「現実に人を殺してみる」とか「現実に子どもをいじめている」ということを実行したとき、はたして悪だと否定できるのだろうか。知らないことを実体験で知ろうと試みているだけではないか。
それに人はじっさいに体験しなければ、それを知る(体験する)ことができないのはたしかである。だとすれば、「知らないことを理由に知ることが求められる」という知の愛求の論理は、悪の正当化に荷担する原理になってしまう。そもそも知らないのだから、それが善であるか悪であるかも知らないはずであり、善か悪かわからないことを実行しても悪と断定できないということになりかねないのである。

現代の自称、哲学者は、みんなソクラテスが大好きで、彼ら自身も

を自称する(というか、そうでなかったら「哲学」の定義がさっぱり分からなくなるわけでw)。しかし、彼らの言うソクラテスとは、あくまで「プラトン」のソクラテスのことを言っているわけで、事実、彼らはプラトン全集を買って、隅から隅まで、しらみつぶしに眺めているわけで、ようするに彼らが好きなのは、

なのだw
なぜ哲学は終焉しなければならないのか? それは、オウム真理教事件以前以後という形で、完全に世界は変わってしまったのだ。
現代の自称、哲学者は、すべからく、どこか

  • 麻原

に似ている(そういえば、東浩紀先生も、ゲンロン友の会という「オウム教団」を作って、彼らファンクラブの「信者」たちに、自分の著書の礼賛ツイートを、まさにお布施そのものといった感じで、つぶやかせているわけでw、どれもこれも礼賛ツイート。気持ち悪い、お世辞の連発で、聞いてる周りが恥かしくなる。まあ、「教祖」になるって、そういうことなんでしょうw)。
しかし、である。
もしも、プラトンの描くソクラテスが、まったくの「偽物」「ばったもん」だとするなら、本当のソクラテスはどんな人だった、ということになるのだろうか?

国政にたずさわって善美であるためには、国政にたずさわるために必要な知識を身につけておかねばならない。しかし、それは人間の能力を超えていて不可能である。ところで、できないことをできると思うのは、知らないことを知っていると思うことである。ソクラテスによれば、それは誤りであり悪である。それゆえソクラテスの結論は、「自分の善美を守るためには、国政とかかわらないことが必要である」ということになる。

つまり、まったくの反対なわけである。このことは、古代ギリシアにおける、本当のソクラテスの後継者たち。犬儒派ストア派を思い出させる。
ソクラテスは「哲学(=知の愛求)」なんて主張していない。ソクラテスはそれとまったく逆に、「不可知論」を主張しているわけで、そういう意味では、カントの「理性の越権行為」は、真のソクラテスの継承者なわけである。
私たちは「知らない」ことを、あたかも「知っている」かのように語ってはならない。それは、まさに「現代思想」や「ポストモダン」の連中が、ろくに数学を知らないくせに、ゲーデル不完全性定理がどうのこうのと語った、あの醜い

  • はったり

にこそ、全ての、ソクラテスの言う「悪」が凝縮されている。すべての悪は「はったり」によって起きる。
分かるだろうか? ソクラテス

  • 反哲学

なのだ。むしろ、度を超えて、知識を求めたり、蒐集すること自体をフェチッシュにのめりこんだりしてはならないと言っているわけで、むしろ、ソクラテスの言っていることは

  • 倫理

なのだ。ソクラテスは人間に無理なことを背伸びをして、無理矢理やろうとしてはならない、と言っているわけで、そういう意味で、自分を抑制して、厳しく律せなければならないと言っているわけで、そういう意味でも

  • 反欲望

でもあるわけである。
また、ソクラテスが、国政に関わることに抑制的であったのは、そもそも国家に対して、懐疑的だったから、ということになる。人間に国家を運営できるのか? ソクラテスに言わせれば、それは不可能ということになる。できないということは、最初から、国家の役割の拡大に否定的ということにもなる。私たちは、国家に過大な期待を求めてはならない。そもそも国家は不可能の産物なのだから、できるだけ人々の生活を邪魔しないように、その役割を小さくしなければならない。ソクラテスが国家をこのように嫌悪することの裏返しは、自分の身の周りの人間関係を大切にしろ、ということを意味している。そして、そういう延長にしか、人間社会の倫理的な可能性はありえない、という考えなのであって、そういう意味では、もう一度、最初の話に戻っている、と言うこともできるのかもしれない...。