伊藤計劃の遺作となった『ハーモニー』は、後半、奇妙な展開を見せる。それは、人類が
- 意識
がなくなる、と言うのだ。主人公のトァンは、「意識のない」世界を目指すミァハに抵抗して話は進むのだが、最終的には、この世界は「意識のない」世界になる。
ところが、である。
そうしたところで、なにが起きたか? 実は、作者自身が
- 何も変わらなかった
と言っているのだ。少くとも「表面上」は。人々は以前と変わらず生活をしている。じゃあ、あんなにトァンが戦い、抵抗したのはなんだったのだろう?
しかし、私なりによく考えてみたら、これは
- WW2での大日本帝国の敗戦
のアナロジーなんじゃないのか、と思ったのだ。もしもこのアメリカとの戦いに「負け」れば、天皇制は廃止され、
- 日本は<終わる>
と考えられていだ。だから、みんな自らの死を賭けて戦った。そして、実際に日本はアメリカに負けた。天皇も「人間宣言」をして、少なくとも、戦前の
- 意味
からは解放された。
さて。何が変わったのだろう? あれほど、戦争に負ければ<全て>が終わる、と言っていたのに、人々は戦後も、まったく同じように生活を続けた。そこで失くなったのは
- 戦前の皇国思想
だけであった。つまり、どういうことか? 戦中にアメリカに負ければ、
- 世界が終わる
という意味は、「皇国思想」が終わる、という意味だったのだ。このことは驚くべきことである。ある宗教の「信仰」が終わることが、この
- 世界
の終末と「同値」で語られることを、どう考えたらいいのか。少なくとも、多くの当時の日本人はそう信じていたわけである。
私がここでこんなことを書いているのは、言うまでもなく、アニメ「結城友奈は勇者である」を意識している。そのアニメの未来世界では、
- 神樹様
と呼ばれる神を、人々は信仰している。そして、彼女たちが戦う「勇者システム」も、その神樹様の力が提供してくれるものと説明される。しかし、アニメ「勇者の章」において、神樹様の
- 死
が予言される。そして、これを唯一回避できる方法が、主人公の結城友奈が、神樹様と「結婚」(「神婚」と呼ばれている)をした場合とされているが、そのことは、イコール結城友奈が「自殺」することを意味していた。最終的に、結城友奈はこの「結婚」を拒否するわけだが、それは彼女が
- この世界がなくなくならないために、自分が命を捧げなければならないなら、自分は自殺を拒否して、最後までこの「システム」に、みんなと「抵抗」する
という明確な
- 「人身御供」思想、「人柱」思想の<拒否>
を貫徹するわけである。
しかし、である。
その後に何が起きたか? まったく、伊藤計劃の遺作の『ハーモニー』と同じで
- なにも起きなかった
のだ! いや。おそらくは、この言い方は正しくない。まさに、
- 戦前の人たちにとっての、「戦後」の日本社会
のようになったのだ! そこにおいて起きたのは、
- ある「イデオロギー」の終わり
であって、つまりは、ある
- 世界の意味の終わり
が起きたのだ。人々はそういった戦前の心の「支え」はなくなった。じゃあ、生きていけなくなったかというと、そうではない。今も私たちは、「民主主義」なんかいって、いろいろとうまくいかないこともあるけど、必死にあがいて、前に進んでいる。
このことは、完全に、ニーチェが言った意味での
- 神の死
- その後
とはなんなのかを彼は別に分かっていたわけではない。しかし、こうして私たちは「神の死」の後も生きている。これがなんなのかは分からないが...。