ホモ・リメンバリング

有名な、プラトンパラドックスはこうだ。人間は知っていることしか知らない。その意味は、もしもそれを知らないなら、それを知ることはできないから。
そこから彼の「イデア論」が生まれていると言ってもいい。
このパラドックスは本質的である。それはこれをどのように反論したらいいのかが、現在に至るまで、定説化していないからだ。
そこから、現代の「プラトン主義者」つまり、「イデア論」賛成派が、しぶとく続いている、と考えることができる。世界には

があり、それを考えることが「哲学」だ、といったような。こういった系統の思想家の代表として、ヘーゲルであり、ハイデガーを考えることができるだろう。彼らに共通した特徴は、その彼らの思想を彼らに強いているのが

であることだ、と言うことができる。彼らはその信仰において、自らの「プラトン主義(=イデア主義)」を捨てることができないのだ(彼らの「共通の敵」が、カントであることは言うまでもない)。
しかし、である。
ここで考え方を変えてみようではないか。私たちは「ある意味」において、本当に知っていることしか知っていないのではいか。つまり、私たちは

  • 思い出す

わけである。ライトノベル聖剣使いの禁呪詠唱』の主人公の灰村諸葉(はいむらもろは)は、自らの必殺技を出すときの掛け声が

  • 思い...出した!

だたわけだがw、このラノベでのその意味は仏教における、「輪廻転生」 の前提の下に描かれていた。しかし、そんなに

に遡る必要はないわけである。私たちは、

  • 誰一人として

産まれたばかりの赤ん坊の頃の記憶をもっていない。このことは、よく考えたら不思議である。しかし、もっと不思議なことはその産まれたばかりの赤ん坊は

  • 社会生活

を行っている、という端的な事実である。
そもそも、産まれたばかりの赤ん坊は

  • 泳げる

わけで、実際に全ての赤ん坊を産まれるやいなや水の中に入れたら、水を得た魚のように、きゃっきゃ、きゃっきゃと、笑みさえ浮べて泳ぎ始めるわけで、それは

  • 一人残らず

そうなわけでw、習ってないのになんで泳げるのかとか、世の中にはいっぱい泳げなくて、小学校の学校の水泳の授業で泳げなくて困った人がたくさんいるのになんなんだそれは、と言っても、なんのことはない。端的に、

  • 母親のお腹の中で毎日泳いでいたから

と言うしかないわけでw、むしろ泳げないと思う方が、おかしいのだ。
ことほど左様に、子どもはすでに産まれた時点で、さまざまな「生きる術」をもっている。このことは、人間以外の哺乳類を考えてみれば分かりやすいわけで、みんな、産まれるやいなや、野生社会の中で、スタコラと歩き始め、生活しているわけでw、それと

  • 同じ

ことが、端的に人間にも見出せる、という、端的な事実を私はここまで、周りくどく言ってきたに過ぎないわけで、私たちはある意味で、産まれてきたときにはすでに「すべて」をもっているのだ。もしもプラトンの言う「知っている」の意味がそういうことなら、私たちは「全て」をその赤ん坊時代の自らの「社会生活」を、その直観において「思い出す」ことを意味しているなら、プランのパラドックスは「パラドックスではなくなる」と考えることもできるのであろう。いや、もっと言えば、仏教における

  • 悟り

とは、きっと、こういうことを言うのだろう...。