愛着形成の哲学

アニメ「ソードアートオンライン」は、今はアリシゼーション編の後半に入っているが、この原作のラノベは、基本的には以下の構造になっている。

まあ、勧善懲悪ってことで、キリトとアスナが、サイコパスの敵を「最後」には倒すってわけだ。
しかし、簡単に倒れてもらっては「おもしろくない」わけで、ギリギリまで、危ういところまで、追い込まれる。さらに、その「シリーズ」内では、確かに、その敵はやられるのだが、その最後はどこまでも曖昧だ。というのは、後のシリーズで、「やっぱり生きていた」っていうことで、怨念をもって「復讐」に燃えていた方が、「敵」のハクが上がるわけだ。
つまり、ヒーローのキリトとアスナの「愛」が最大化するように、サイコパスの敵は必然的に「極大化」されているわけで、つまりは、こういったサイコパスの存在が、「作品構造」が要求する形になっているわけである。
映画「ジョーカー」の主人公は、なぜ彼が、サイコパスの悪になったのかを描いたわけだが、結局はSAOも、この側面を描かないわけにはいかないところに追い込まれる。
一般に、日本のアニメが描いてきたものには、大きく二つあると思われる。一つがこの「サイコパスの敵」だ。そしてこれが、90年代の、世紀末において、こういった存在が「今の世界の閉塞感を打ち破る」ものとして注目された。こういった「反ヒューマニズム」を、ニーチェ的な、反語的な形で礼賛する主張が注目された。西尾維新の零崎人識や、映画「悪の経典」のハスミンに代表されるような。なぜこのような、ニーチェ的な、反語的な「反ヒューマニズム」が現れてきたのか? 上記のSAOを考えてみてほしい。キリトとアスナの愛は、そもそも、最初から「サイコパスの敵」の存在があったことが大きいわけである。彼等が鬼畜であればあるほど、そのコントラストとして、二人の愛が「重要」であるかのように見える。逆に平和すぎると、この愛も「マンネリ化」して「だれる」のだw
そう考えるとむしろ、「サイコパスの敵」こそが、この愛の存在の証明のようになっているんじゃないか。もっと言えば、これはこれで重要なんじゃないか、と思えてくる。
さて、もう一つのアニメが描いてきたものが、「愛着形成」である。
この分かりやすい例として、アニメ「天体のメソッド」があると思われる。
このアニメの中で、主人公たち、少年少女は、円盤が正体の、ノエルという少女と知り合うようになる。そして、作品では、何度も何度も、この少年少女たちとノエルとの愛着形成が描かれている。

いじめや不登校、成績不振、人間関係……。子どもの学校生活の問題について、多くの親はなぜこんな事になったのかと、友人関係や学校など、どこか自身(養育者)と子どもの関わり方とは関係のない場所から原因を見つけようとします。
ところが、これらの問題に共通してあげられている原因として、「幼少期の愛着形成」があります。
愛着とは、「特定の対象に対する特別な情緒的な結びつき」のことで、その基盤は幼少期に形成されると言われています。
いじめ加害者になってしまう子の3つの共通点 | PRESIDENT WOMAN | “女性リーダーをつくる”

親(養育者)と子どもの愛着形成は、生後間もなくからスタートしています。子どもから発せられる信号(泣いたり笑ったり不安そうだったりという感情の表れ)に対して、敏感に察知し、それに応えてあげることが愛着形成の重要な過程です。
多くの研究が、幼少期の子どもが親に助けを求めた時に、親がどれくらいそれを受け入れてあげることができているか、情動的な観点から、親がどのくらい子どもに対して対応してあげられているかによって、子どもの愛着形成に大きな差が出てくると報告しています。愛着の形成に重要なのは、「どのくらい子どもの感情的な変化について敏感に察知し、対応してあげられるか」であり、子どもと関わる時間の長さそのものではありません。
例えば、ひと昔前は、“抱き癖がつく”という理由で、泣いている赤ちゃんをすぐに抱っこしない方が良い、とされていました。現在は、赤ちゃんの頃から沢山抱きしめて安心させてあげましょう、という考え方が主流になっています。
いじめ加害者になってしまう子の3つの共通点 | PRESIDENT WOMAN | “女性リーダーをつくる”

この記事は、幼少の頃の愛着形成が十分でないと、子どもの「いじめ」などの「サイコパス」的な傾向を帯びてしまう、という、ある意味で、「育ちが性格を作っている」という、「決定論」となっているわけで、教育学的には問題含みな主張なわけであるが、しかし、ある観点から考えてみると、とても興味深いことを言っているように聞こえる。
なぜ、「サイコパスな敵」が、反語的に「評価」になるのかについては、そこに

への過大な評価が関係している。もしもあらゆる「犯罪」が、生得的なものなら、その人に「責任」をもとめることができなくなる。レイプも「しょうがない」となるし、あらゆる能力差別は「正しい(生まれつき)」ということになる。
もっと言えば、彼らは「貴族」を復活させたいのだ。身分こそ、富裕層の「地位」を安定させる。
遺伝子決定論とは、物理主義のことだと言ってもいい。すべてを物理法則で説明できる(決定されている)という考えで、だから「能力」は決定されているんだから、学力差別は「しょうがない」となる。
もっと言うと、こういった主張をしている人は「エリート」なのだ。つまり、学校の能力テストで、優秀な成績をおさめて、高学歴の大学に入った人たちだ。しかし、彼らが評価されたのは、ただの「成績」であって、彼らがサイコパスかどうかは判断されていない。ということは、そもそも、こういった高学歴者の多くがサイコパスなんじゃないのか、という疑いがあるわけです。ということはどういうことか? つまり彼ら高学歴者たちの、「自己保身」的行動は、必然として、

になるわけです。
考えてみれば分かるが、クラスの落ちこぼれたちに目もくれずw、一心不乱に勉強をしていた事実が、そもそも、サイコパスなわけでしょw
まっとうな、優しい心があれば、そういった落ちこぼれの勉強を見てやろうとするんじゃないですかね。
ではなぜ彼らはそうしないのか? というか、彼らはそうしない「理由」をでっちあげる。それが「生得論」なわけです。あいつは、生まれつき頭が悪いんだから、こういった連中を、早く退学にすべきだ。そして、自分たち、成績優秀者にお金をもっと国家は、つぎこめ。
なぜこうなってしまうのか? それは、まず高学歴大学への進学が、あくまで、ペーパーテストで行われていることに関係する。つまり、サイコパスはペーパーテストが得意なのだ。ところが、社会的な高い地位の職につけるのは、高学歴大学出身なのだから、必然的に、サイコパスが社会の中枢を占めてしまう。
少し議論が脇道にそれたが、私が言いたかったのは、この愛着形成が

  • 生得論

と完全に相性が悪い、というところなのだ。上記の、高学歴エリートは、自分の才能は

  • 遺伝子による

と言いたい。だから、自分と落ちこぼれの差別は「正当化される」と言いたい。ところが、この愛着形成論は、

  • 人間の重要な特性

を、そういった側面に見ていない。大事なこと、つまり、私たちが「社会性」をもてるようになることには、大きく

  • 幼少の頃に、自分を育ててくれている大人が、どこまで細かく観察して、どこまで「気づかい」をしてくれたか

が重要だと言う。つまり、こういった「環境」によって、幼少の子どもは、今の自分が置かれている状況に

  • 安心感

をもつようになる。それによって、その安心感を土台として、その上に、

  • より高度なレベルの社会的ゲーム

が成立し、こういった「経験」が、大きくなり、社会に出たときの、その人の「人格」を大きく決定する。
つまり、私たちが幼少から大人になる間に、こういった「信頼=安心」できる環境が存在していることによって、始めて、この社会の基盤となっているような、より高度な「ゲーム」を学習できる、という関係になっている。
こういった視点の、もう一つ大事なポイントは、これが

  • 家族礼賛論

に対する、明確な否定になっていることだ。つまり、家族とは

  • 遺伝子上の父
  • 遺伝子上の母

に「神秘的な子育て的な価値」を見出すという考えで、遺伝子上の親と子「だから」、子どもが「ちゃんと」育つ、と言いたいわけで、つまりは、

であることが分かるであろう。しかし、この愛着形成論は、子どもの健全な育成において、

  • 何が大事なのか?

を、その「愛着形成」に見ているという点において、ペーパーテスト礼賛論(生得論)と決定的に対立している。
つまり、どういうことか? まず、この「愛着形成」は、そもそも遺伝子上の家族でなければならない、という必然性を否定しているわけです。だれでもいいんです。とにかく、この「愛着形成」さえ与えられれば。そして、第二に、たとえ遺伝子上の親でも、たとえば、そいつが「サイコパス」だったりすることによって、まともに、子どもに「愛着形成」ができない場合がありうる、ということです。
つまり、このことから、必然的に

  • 国家は、「公共サービス」として、幼児教育(愛着形成)を日本中の全ての子どもに提供しなければならない

ということを意味するわけです。もちろん、こう言うと、「遺伝子上の親子の方が、その<生得的>な相性のよさ」から、より「うまく」、愛着形成ができるんじゃないか、と言いたくなるかもしれない。
しかし、それが、そもそものポイントを外している。なぜなら、大事なのはその

  • 方法

だからです。教育学は「方法」に関係している。そういった「方法」が確立するから、「うまくいっている」とかそうでないとかを判断できる。また、あなたは学校の先生が

  • 生徒が自分の遺伝子上の子どもじゃないから「手を抜いている」

と考えるだろうか? もしも教師が手を抜いているとしたら、それは、「給料が安い」などの別の理由なわけであろう。少なくとも、どんな教師も

  • 生徒にちゃんと「教えよう」

とはしているわけであって、そうでなければ、逆に、教師職を「解雇」されるだけだ。
しかしそれでも、あなたは「やっぱり、遺伝子上の親子の方が、子育てはうまくいく」と言いたがるかもしれない。そして、その根拠として、「進化論」を証拠として提示して。つまり、進化論という「科学的根拠」があるんだから、やっぱり、遺伝子上の親子は無上の価値があるんだ、と。
でも、ちょっと考えてみてほしい。もしも、遺伝子という、なんらかの生得的な関係があるからといって、なんで

  • 子育て

を遺伝子上の親がやらなければならない、になるの? それを私は「神秘主義」と呼んでいるのであって、大事なことは

  • 愛着形成の「方法」

なのであって、この「方法」がもしも確立できないと言っているなら、それこそ、教育学の

  • 敗北

なわけでしょw やっぱり、遺伝子上の親が育てた方がいいって、当たり前だけど

  • 比較的、うまく子育てができる遺伝子上の親

が何人かはいるっていう「だけ」で、

  • すべての遺伝子上の親が子育てが「うまい」

って、完全な神秘主義じゃないか。まあ、こう考えれば、私の言っていることを理解してもらえるんじゃないだろうか...。