「利益」志向型プログラミング

ソフトウェア開発のプログラミング技法として、「オブジェクト志向型プログラミング」というのがある。これと同じような考えで、

  • 利益志向型

といった思考スタイルについて考えてみたい。
ある、株取引の億万長者が、未来社会の予測をしていたときに、

  • どういう社会になるべき(道徳的、理想的)
  • 現実にはどうなる(法則的、科学的未来予測的)

といったふうに、その言説を分析できるだろう。しかし、実際にはこうではなく

  • 自分の株の予測に有利なように、世論を誘導する

という態度で行動し、発言していると解釈すると、多くのことが説明可能なことがある。つまり、

がここにはある。すべての人間は、なんらかの自らの「利益」に相反した形で発言することは不可能なのではないか、という考えである。
企業のトップが、自らの企業の不利益になることを言うはずがない。まずは、私たちはここから考え始める。
そしてこれは、「評論家の可能性の否定」でもある。もしも自らが、評論家であること語るなら、それなりのさまざまな「利益相反」からのデタッチメントを実践しないと、説得力がない。
こういった観点から、大学の学者や研究者という存在がいるわけで、つまりは、彼らの「研究」そのものに、公的に、賃金を払うことで、

  • 経済的な心配をせずに、自らの研究に「専念」できる

環境を提供することを目的としている。
ここで、カントの三批判書を考えてみたい。純粋理性批判と、実践理性批判。つまり、カントには

  • 理論と実践の「区別」

があうわけで、それは、大きくは、カントの場合は、「自由のアンチノミー」に関係して、導入される形になっていたわけだ。そして、カントの『啓蒙とは何か』では、カントは「論文として発表する<学者>」としての市民の「パブリック」性について議論とした。つまり、カントは実践以外の「理論」という人間の側面を肯定している。
ダーウィンの進化論は、「すべては適応である」という主張である。つまり進化論は、人間が「真理を探究する」行為が、実際に真理に近づいているかどうかを「必要としていない」。その行為がなんであれ、「適応する」としか言っていない。これは、カントでいえば、「理論」の真理性は必要条件ではなく、あくまで、「すべては実践である」という立場だ、と考えられる。
カントはなぜ実践以外に「理論」の「場所」を確保したのか? それは、『啓蒙とは何か』の

  • 論文を発表する<学者>としええの市民のパブリック性

に関係している、と考えられる。
ここまで、議論してきたことは、

という考えである。つまり、例外なく

  • 一切はプライベート

ということだ。だとするなら、カントの言っている「パブリック」、つまり、

  • 市民が「学者」として論文を発表すること

がどういうことなのかが問題となる。
当たり前だが、ここでカントが言っているのは「大学教授」という学歴とか身分ではない。これは、すべての国民が、なんらかの「発言」をおおやけにするときの、なんらかの態度を言っている。カントはそれを「論文」と言っているわけだあ、もちろん、ブログ記事だろうが、そえは、あてはまる。
上記までの文脈を考えるなら、こういった「論文」が、なんらかの

となるのであれば、それはこの「論文」の条件を満たさないだろう。ということは、カントは、いわゆる「評論家」のような人たちには、一定の経済活動からのデタッチメントを要求しているように思われる。
この話は、現代の用語でいうところの

のことを言っていると考えることができる。つまり、ある側面についての、なんらかの評論を「パブリック」に行おうとする人は、まず、その側面の利益関係との、一定の距離を置くことなしには、倫理的に許されない。つまり、こういった

  • 倫理規範

を守ることなしには、言論活動の「健全性=パブリックネス」は保てない、ということだ...。
(もし、そのような場所があるとするなら、それは

  • 超越的

な場所が「ある」と言っているように聞こえる。しかし、カント哲学においては、注意深く、そういった「超越的」なものが排除されているのだから、こういったものを、なんだ、と考えればいいのだろうか? おそらくこれは、カント哲学における「形而上学」の扱いに似ているのかもしれない。カントは一方において、「批判哲学」と言われるように、既存の「形而上学」を批判する形式をもちながら、他方においては、それは、既存の「形而上学」の形式によってしか記述されなかったのだから、その微妙な「(絶えず<移動>し続ける)場所」からのものであることが関係しているのかもしれない...。)