中道裕大『放課後さいころ倶楽部』

子どもは「楽しい」から「遊び」をする。かくれんぼ、かんけり、など。
しかしその「遊び」の実体は、驚くべきほど、大人になり社会人になってから行う、会社での「仕事」に似ている。
ゲームは「楽しい」から子どもは、自分からやりたくなり、実際に行う。仕事は、問題なくタスクをこなせば、お金がもらえるから行う。こういった差異はあいながら、実際に行っている行為は驚くほどに似ている。
つまり、大人が仕事を行う「能力」は、そういた子どもの頃から行っている「遊び」の体験から、そのタスクを行うこと「能力」を自分がもっていることへの「自信」が関係して行われるのであって、この二つ無関係ではない。
進化論、功利主義。こういったものとそれが似ているのは、

  • 最適化

をその理論の中心にしていることで、功利主義は「善」に大する最適計算であったし、進化論では、自らの生活環境に大する行動規範の「生き残り易さ」の、「行動」に大する最適計算となっているわけで、ゲームが基本的に数学における

  • 最適理論

の延長にあることと、上記での大人の仕事の類似性は一貫している。
ゲームで、どんな戦略を採用するかは、その「勝利」の

  • 確率

の最大化のことと考えられるわけで、その何が最大なのかを、「どういった手持ちの情報」で見積るのかが、数学における「最適理論」に含まれる、理論体系となっていることを、よく理解する必要がある。
掲題のマンガは、今放送されているアニメの原作であるが、私は今、第8巻の最初の方まで読んでいる。これは、ドイツを中心にさかんに開発されている、ボードゲーム(アナログ・ゲーム)を中心とした話だが、基本的にテレビゲームも変わらない、普遍的な問題がとりあげられている。
例えば、ゲームを「制作」する側を考えてみよう。そうした場合、最初はなんらかの「アイデア」から始まるだろう。ゲームとは、大人の仕事と違って、なんらかの

  • 結果

が、この社会に対応してあるものではない。つまり、あくまで結果は「抽象的」なものだ。しかし、その制作過程は基本的に

  • 数学の定理

を作るのと変わらない。実際に、多くの数学の定理は、こういった「ゲーム」の形で構成されていることがよくある。ゲームが「楽しい」とは、なんらかの意味で

  • その「答え」が微妙で、判断が難しい

ということが大きく関係している。そして、そのことは数学の定理における

  • 今まで「証明」されていない、新しい「定理」

として示されているもの、という私たちの印象と決して無縁ではない。そのゲームが「おもしろい」と思うということは、そこに

  • 興味深い、数学の「定理」がある

ということとは、一対一の関係なのだ。
ゲームは「抽象的」であり、それは数学も変わらない。しかし、それを逆に言えば、ゲームは

  • 人生

だ、と言うこともできる。単純であるからこそ、この世界の「真理」が示される。私たちを「興奮」させ、「熱中」させることは、それがなんらかの意味での

  • 世界の「真理」

を内包しているからであって、だからこそ私たちはそこに

  • 人生の意味

を、かすかに眺め見るわけである...。