萱野稔人『リベラリズムの終わり』

リベラルとは、リベラリズムを主張する人々の行動のことなのだそうだ。では、リベラリズムとは何か、ということになるが、リベラリズム

  • 自由

を実現しよう、と言っているのらしい。しかし、それはたんに「自由」と言ってもしょうがない。つまり、自由は

  • 別の言葉

で言い換えられる。

リベラリズムの最良の部分とはいったい何だろうか。
それはフェアネス(公平さ、公正さ)を重視する点である。
なぜ自由を重視するリベラリズムから「フェアネスの重視」ということがでてくるのかというと、それは、「自分の自由を認めてもらいたければ、他の人にも同じように自由を認めなくてはならない」ということをリベラリズムが要請するからである。

しかし、これは変だろう。なぜなら、もしも自由と「公平」が同じ意味なら、わざわざこの二つの言葉を分ける必要がないからだ。
私たちが「生きる」ということは、日々の活動において、なんらかの「判断」をする、ということである。つまり、「それ」は自由か、そうでないか、と。しかし、ここでの「それ」とは、他人にとっての「それ(自由)」ではない。あくまでも、私たちが判断しているのは、自分にとっての「それ(自由)」なのだ。
というか、である。本質的に考察を深めてみれば、そもそも、他人のことなんて、分からないわけであろう。かろうじて、自分のことはなんとか判断している状態なのに、なんで他人のことまで判断できると考えるのか?
私が、ある瞬間に「自由だ」と考えるのは、その自分の状態の、その一瞬前との「差分」において、受け取られる。というか、私たちは、こういった判断を考え続けなければ生きていけない。それは、そういった「自由」であるということと、

  • 自分で自分を「生かさせる」

こととが深く繋がっているからであろう。つまり、その一瞬前からの「苦痛からの解放」を指して、それを「自由」と呼んでいるのであって、それ以上の具体的な意味なんてないのだ。
しかし、私がここで言いたかったのは、そういうことではない。例えば、上記の引用では

リベラリズムの最良の部分とはいったい何だろうか。
それはフェアネス(公平さ、公正さ)を重視する点である。

とあった。しかし、ね。普通に考えてみてほしい。「公平さ、公正さ」って、普通は

  • 富の均等配分

のことだよね。この前の、『教育格差』って本が何度も強調していたように、幼い頃からの自分の「教育環境」が学業の成功に大きな相関となっている。
この本は、前半では、アメリカで同性婚が認められるようになってきたのに、なんで一夫多婦制が認められないんだ、フェアじゃないじゃないか、って「キレる」話だと思ってきたら、そんなことを言ったら、インセスト・タブーはどうなんだって話になって、最後は進化論的な「真理」がある、だから、リベラリズムは間違っている、みたいな話に落ち着いてるんだけど、そもそも私に言わせれば、リベラリズム

  • 矛盾

しているのは、上記の

リベラリズムの最良の部分とはいったい何だろうか。
それはフェアネス(公平さ、公正さ)を重視する点である。

がなぜ、

  • 富の均等配分

まで実現しなくていいと思えるのかに、根源的な「欺瞞」「詐欺」があると思っているわけで、まあ、そういう意味では私はリベラルではなく、

  • 左翼

なんですよね。

生活保護の財源にせよ、社会保障の財源にせよ、すべて国民の負担によって成り立っている。たとえ「金持ちからもっと税金をとればいい」と主張したところで、国民をあざむくという点は変わらない。金持ちになればなるほどその人数は減るので、金持ちにさらに課税したところで、実際には税収全体の増加はそれほど見込めないからである。

この萱野って、頭おかしんじゃない? ウォール街のデモだって、

  • 99%の数えるほどのお金持ち vs 1%のほとんど全ての国民

だったことも、もう忘れたのか? もう、人前に出てきて、なんか語るなよw ゴミ屑。
ようするにさ。リベラルとは、アメリカとソ連

  • 冷戦

の時代に生まれた、著しくイデオロギー的な概念であって、まともな学術的な定義に耐えられない概念なんでしょw だから、頭の悪い奴ばっかりが、こういったネオリベ的な議論を繰り返してる...。

リベラリズムの終わり その限界と未来 (幻冬舎新書)

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