宮台社会学への「疑い」

さて。東浩紀先生が、朝日新聞社が発行しているアエラとかいう雑誌の連載記事で、HDD転売事件について、以下のようなコメントをしている。

この件では県庁の情報管理を批判する声もある。しかしそれはさすがに酷だろう。契約に不備があったとは思えないし、リース会社も破壊業者も大手だった。下請けの報告を鵜呑みにするのは危険との意見もあるが、そんなことをいったらどんな取引もできなくなる。盗難を許した管理体制の不備は問題とすべきだが、それにしても問題の業者が特別に稚拙という印象は受けない。
東浩紀「HDD転売事件に象徴される防ぎようのない『嘘』社会」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

すげーな、と思うわけである。もしも、IT関係で働いている人でこんなことを言っている人がいたら、袋叩きにあって、この業界から追放されているだろう。なぜなら、言うまでもなく、IT業界における個人情報流出事件が、過去から数えて、何度も何度も起こり、それに対し、どれだけの対策が行われてきたのかを思い出せば、絶対にこんな

  • 間抜け

なことは言えるはずがないからだ。
それにしても、この発言はどこか「奇妙」に思わないだろうか? というのは、東浩紀先生は

  • 県庁の情報管理

が「問題ない」と言っているのだ。つまり、

  • 国家は正しい

と言っているわけである。つまり、「御用学者」として、国家の側に立って、国家を「擁護」している。しかし、考えてもみてほしい。なんで、私たち市民が、「国家は間違っていない」なんて、国家の側に立って、「悪いのは全て、大衆だ」なんて、国家と一緒になって、市民を殴っているのだ?
そして、東先生は偉そうに、しまいには、こんなことまで言い始める。

事件の本質は、やばい社員がいたということに尽きている。
東浩紀「HDD転売事件に象徴される防ぎようのない『嘘』社会」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

しかし、この「構造」は、どこか何度も反復されてきた姿を見させられている印象を受けるわけである。

しかし問題はもっと手前にある。社会の原理は相互信頼である。信頼があるからこそ従業員も雇えるし取引もできる。今回の事件は素朴なだけにその原理を深く揺さぶっている。下請けや外注が約束を守らない、あるいは従業員が平気で嘘をつくという前提で、いかなるビジネスが可能だろうか。制度や技術で防げることには限界がある。人間がダメになったら社会もダメになるのだ。
日本はいまや、つねに他人の嘘を警戒し続けねばならない国になった。その点で今年を象徴する事件にも思えた。
東浩紀「HDD転売事件に象徴される防ぎようのない『嘘』社会」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東先生にとって、

  • 新しい時代のフェーズに入った

と言っているわけである。だから、国家は「しょうがない」なのだw まだ、未知の事象に最初に遭遇したんだから、とw しかし、である。このレトリック、何度も見させられ続けてきたよね。古くは、宮台先生による(まるで、酒鬼薔薇事件の犯人に代表させて、当時の若者を指して説明していた)、

  • 反社会的存在

が、まるで、ガンダムニュータイプでもあるかのように、「新しい時代」と共に誕生した、みたいに喧伝したわけである(上記の引用をよく読んでほしい。まったく、宮台先生の「反社会的存在」と瓜二つのことを言っているからw)。しかし、振り返ってみて、どうだったか? 別に、人間は変わっていない。宮台先生が、若者を「反社会的存在」と言ったのは、

  • 大衆は危険

ということを煽るためであった。大衆は危険なんだから、エリートは大衆から身を守らなければならない。宮台先生も、東先生も、昔から言っていることは、こればっかり。しかも、上記の東先生のように、まるで

  • 新しい世代(大衆)

が「反社会的存在」として、今すぐにでも「排除」しなければ、市民社会(という、自分たちエリートの富裕な財産)を守れない、と人々に恐怖を扇動する。
しかし、何度も言っているように、

  • 人間は変わらない

のだw そうでありながら、学者として、まさに時代の最先端を「知っている」知識人として、人々を扇動する「資格」がある存在だと証明するために(自分がマスコミや国家がちやほやすべき価値があることを証明しようとして)、彼らは、まるでそれが「新しい時代」の萌芽であるかのように、ことさらに、あげつらう。恐しいね。
さて。前々回から、映画「リチャード・ジュエル」について言及しているのだが、私としては、この映画がどうのこうのよりも、それに対する、宮台真司先生のコメントが、

  • 驚くべき

内容だったことに、こだわりたかったというのがある。
しかし、この映画のパンフレットを見ていて、「あれ?」と思ったわけである。というのは、ほとんど宮台先生の言っていたことと変わらないことを書いている記事があったからだ。

だがイーストウッドは、この定石を微妙にずらす。リチャードのいかがわしい側面や、灰色のキャラクターを見逃さず、そこを手堅く彫り込んでいく。
リチャードは、一種の問題児だった。いわゆる「セキュリティ・マニア」で、公権力が支給する制服に憧れ、世間の違法行為を取り締る仕事に就きたくてならない。さらにいえば、「自分はまっとうな人間である」という保証を、権力の側から取りつけたがっている。
ありがちだが、いびつなオブセッションだ。公権力を養父と勘ちがいした孤児の錯覚、と言い換えてもよいか。地元のピートモント大学で警備員の職を得たときなども、調子に乗って高速道路でトラックを停止させ、積荷検査をしたことがある。大学側は、彼をすぐさまクビにしてしまった。
(柴山幹郎「静かな呼吸と彫りの深い世界」)

宮台先生は、この引用での「いかがわしい側面」を

という言葉で表現したわけだが、対して、以下の記事では、少しニュアンスが違って説明されている。

もちろんリチャードという人間は不器用なほど善意のかたまりである。彼の行動の原動力は正義感と親切心。常に他者の安全と秩序に気を配る注意深さで、爆破事件から多くの人たちを救った。だが同時に彼にはかなりの "隙" がある。真面目さがエスカレートして大学の警備員の仕事をクビになった。幼い頃から権力に憧れ、「法執行官」を自称し、警察のコスプレに興じる趣味もあった。
(森直人「イノセントな怪優の誕生」)

つまり、こちらでは「不器用なほどの善意のかたまり」の

  • 真面目さがエスカレート

した側面があった、といった「まとめ」になっている。さて、どっちの分析が「正しい」のだろうね?

本作で監督・制作を務めるクリント・イーストウッドは、この、人を信じて疑わない善良な人物の悲劇に、映画化したいと思うほどの興味を抱いた。(中略)「私がリチャードの物語に興味を持ったのは、彼がどこにでもいる、ごく普通の人間だったからだ。彼は結局のところ起訴はされなかったが、それでもあらゆる意味で苦しめられた。あのときの世間には、一斉に彼を責めなければならないという雰囲気ができてしまったが、彼にはそれから逃げる力は何もなかったんだ。そして自分で自分を救う必要があるということに気づくには、彼は永い間、世間知らずで理想的すぎたんだよ」
「だからこそ、私はこの映画を作りたかった」とイーストウッドは続ける。「リチャードの名誉を挽回するためにね。だって、彼は普通の男なんだ。こともあろうに警官になりたいと願い、人々がよりよい生活を送れるよう献身的に働きたいと思っていた。そしてあんな英雄的な行動をとったら、そのために大きな犠牲を払う羽目に陥った。彼は世の中から見捨てられたんだ」
(「Production Notes」)

上記の柴山先生であり、宮台先生は、リチャード・ジュエルは

  • 問題児(=反社会的存在)

だと言っているわけであるw つまり、国家の彼に対する行為は、彼のこの「本質」を考えれば、

  • 合理的

だとして「理解」をしているw 対して、上記の森先生であり、イーストウッド自身のインタビューでは、リチャード・ジュエルは

  • 普通の男

ということが、何度も何度も強調されている。一見すると、彼のエキセントリックに回りから見える行動は、その

  • 不器用なほど善意のかたまり

の反対側からの側面としての、

  • 世間知らずで理想的すぎた

つまり、「行きすぎた」善意として解釈している。しかし、である。
これが、宮台先生には「気にくわない」わけであるw この大衆の「完全じゃなさ」は、彼には絶対に「許せない」

として解釈される。それは、宮台先生が「ネトウヨ」という表現を使い、何度も何度も「糞ウヨ」と呼ぶ態度から分かるように、宮台先生にとっては、彼と同じくらいの

  • 学歴

をもっていない人間は、全部「ゴミ屑」にしか見えない。そもそもの、「人間として、まともに扱ってもらえる地平に立っていない(=高学歴大学に入学していない)」という時点で、そもそも、最初から、

  • (まっとうな)人間扱い

をするつもりがない。宮台先生に言わせれば、「完全じゃない」という時点で

  • 国家が彼らを、あんなふうに扱いたくなるのも「しょうがない」よなあ

となるわけであるw ダメな大衆を、国家が雑に扱いたくなるのは、しょうがない。それは、大衆が「学歴がない」くせに

  • 民主主義

と称して、国家に介入しようとする態度が気に入らない。そんな「やれやれ」な毎日に耐えて、がんばっておられる、国家官僚の方々は

  • お仕事、ご苦労様です

というわけだ。
しかし、上記でイーストウッドも語っているように、この映画はイーストウッドによって、リチャード・ジュエルの

  • 名誉

を回復するために撮った、と言っているわけであろう。つまり、監督は、リチャード・ジュエルを一回たりとも「非難」なんかしていない。そうじゃない。こうやって、

  • 通時的

に、眺めれば、(たとえ、彼に少なからぬ欠点があったとしても)彼の今回の行動が、一点の曇りもなく「礼賛」されるべきものだったということを

  • 証明する「ため」

イーストウッドはこの映画を撮影したのであって、宮台の「大衆=反社会的存在」論が、まったくのトンチンカンであることが分かるであろう...。