ニーチェの思想:おわりに

なぜ、ニーチェショーペンハウアーはこのような隘路に追い込まれていったのか? それは、

  • 科学

に原因がある。つまり、なぜ道徳は存在しないのか? それは、

  • 道徳が物理学の教科書に載っていないから

と言うしない。
よく、子どもの頃にキリスト教徒だった人が大人になって、キリスト教徒を止めた場合に、似たような態度を示すことがある。そういった人に見られる傾向として、彼らはキリスト教の代わりに

  • 科学の教科書

を見出すわけである。つまり、これが「聖書の代わり」になっている。これは「撤退戦」なのだ。
(たしかに、その人はキリスト教はあきらめた。しかし、神への信仰を捨てたわけじゃない。そんなに簡単に人間は信仰を捨てられないのだ。)
実際、自然は「神が造ったもの」の証明である。自然を研究することは、神がこの世界をどのように造ったのかを調べることであり、そこに神の「痕跡」があることを示す。ということは、この自然を研究し続けることによって、

  • はるか未来

には、神の存在が証明されるのだ。しかし、そのためには人間が、はるか未来まで生き残らなければならない。そうでなければ、この証明は完成しない。
ということは、このことを逆から言えば、

  • 人間をはるか未来まで生き残らせるためなら「なにをやってもいい」

ということになる。ここから、「いじめ」も「弱者虐殺」も、あらゆる差別が「正当化」される。どんな「手段」を使っても、

  • 優秀

な人間の遺伝子を未来に残さなければならない。そのためなら、どんな「反道徳」も許される...。
これが、「ニーチェ」の思想である。ニーチェは、カントを否定した。そのことによって、彼はもはや「道徳」とは言えなくなってしまった。しかし、もしもカントだったら、こんな「おかしな」ことを言わなくてもいい、ということになる。彼の立場からしてみれば、どんな人間の行為も、その人間の

  • 意図

が「善い」のでなれば、それを「道徳的」に正当化することはできない。つまり、カントの立場からは、人間の生きる目的は、その

  • 善意志

にこそ「ある」ということになる。まあ、考えてみれば当たり前なのだ。どんな行為も、必ず「意図」がある。つまり、その意図には「善い」のか「悪い」のかがある。そして、当たり前だが、「善い」行為をやろうと思ったら、勉強もしなければならないし、いろいろと理性的に、合理的に考えなければならない。言われなくたって、その結果を完全に無視したまま、平気な顔をしていられるわけがないのだ。
カントは結局のところは、そういった人間の理性というか、合理性を信頼しているのだろう。なんだかんだで、人間はその「善意」さえあれば、いろいろ試行錯誤しながらでも、問題を解決していくんじゃないのか、と。私たちはニーチェのように、なんの意味もなく

  • 生き残る

ことに脅迫神経症のように、生い立てられて、弱者を見殺しにしてまで自分を追い詰めなくてもいい。カントなら、ただ、それぞれお互いが、自分で気付ける範囲の「善意」を大切に生きていけば、少なくとも

  • すぐ目の前の「目的」に悩まされることはない

という意味では、ずっと「シンプル」で、合理的で、矛盾なく聞こえる。
実際に、私たちは、カントやキリスト教が言うように、「利他的に他人を助けよう」と、ずっと今まで努力して生きてきて、こうして今に至るまで、人間は生きている。だったら、なんでそれを

  • 変え

ないといけないんだろねw ニーチェはそれが「間違って」いるから変えなければいけないと言いながら、それによって目指すべき先は私たちが上記の行動によって実現できてきた「生き残り続けること」と言っているんだけど、実際に今まで「うまくいってきた」ことを

  • 変え

ておきながら、なんでそれが成功すると思っているんだろうねw