大日康史・菅原民枝『パンデミック・シミュレーション』

今、ネット上では、この新型コロナに対して、

  • ああすればいい
  • こうすればいい

といった、さまざまな意見が飛びかっている。なるほど、「あなたはそう思った」のね、といった感想はもつが、その

  • 正当性

を「あなた」は、どうやって「証明」するのか、つまり、

をどう行うのか、というのが、「エビデンス」厨の主張だったはずだ。なぜポストモダンがあれだけ叩かれたのかと言えば、単純に彼らは「エビデンス」を軽視したからだ。彼らは、証明ではなく「ポエム」に逃げた。だから、軽蔑されたのだ。
しかし、である。
だとするなら、今回の新型コロナに対する「エビデンス」とはなんなのだろう? 言うまでもなく、「新型」と呼ばれているように、多くの性質がSARSなどから継承されているとしても、やはり

  • 始めて

であることは変わらないのだから、それに対する「エビデンス」とは語義矛盾ではないのか、と。
しかし、もしもその理屈が正しいなら、逆に、なぜ、今の日本政府にしても、都道府県の地方自治体にしても、ここまで「整然」とした法執行を行えているのかを説明できない。
つまり、ある勘違いがある。つまり、この事態は

  • 予測

されていた。それが、

である。これは確かに「新型インフルエンザ」が名前に入っているように、将来に予測されていた、新型インフルエンザのために作られた法律であったとしても、ここで「等」という言葉が入っているように、

  • その他の「新型ウイルス」

に対しても「応用」が可能なように、法制化されている、ということを理解しなくてはならない。
つまり、この「危機」は「予測されていた」ものである、という認識が必要だ。
しかし、ここで「予測」とはどういう意味なのか、について考えてみる必要がある。なぜ、法律があるのかは、なぜ「この法律でいいのか」についての裏付けがなければならない。つまり、「エビデンス」である。つまり、この法律は

  • 科学

に基づいて作られていなければならない。だとするなら、当たり前であるが

  • 「それ」を行った、さまざまな情報

が残っているはずなのだ。
そのように考えたとき、まさに、掲題の本は、この法律の「意味」を徹底して研究している、という意味で、今起きている、新型コロナウイルスの「大流行」に対する「政策」の意味を考えるのに必須の本だと思われる。
まず、そもそも、この「感染」を考える、とはどういうことだろうか?
それは、感染の「流行」が、どういった

  • グラフ

を描くのかを「予測」する、ということを意味する。しかし、それは静的であってはならない。状況は、時々刻々と変化する。情報も、次々と正確に増えていく。そういった中で、

  • 動的

に、事態を分析する「モデル」が必要だ、ということになる。

SIRモデルは、人口集団をS(susceptible:感受性者、つまり免疫がない状態)、I(infection:感染者)、R(recover:回復者、つまり免疫を獲得して健康を回復した状態)に大きく状態を分類して、それぞれの状態の人数を微分方程式の体系で表現するものです。死亡者を含めたり、感染の段階を細分化したり、潜伏期間などの考慮で複雑化しますふぁ、基本的には、図10の様な比較的単純な微分方程式で定式化されます。

  • (dI_t/dt) = β(S_t/N_t) - γI_t
  • (dS_t/dt) = β(S_t/N_t)I_t
  • (dR_t/dt) = γI_t

図10 SIRモデル

このモデルの最大の特徴は、対策の効果をモデルの中で表現できることです。たとえば、ある対策を実施して、その対策が感染性を低減させることに寄与したと考えられる場合には、パラメータ β が低下するという形で表現されます。それによって、流行期間や流行規模も変わっていきます。その点が静学的なモデルとの大きな違いです。

反面、SIRモデルでは、たとえば感染性は β という一つのパラメーターに集約されているために、何をすれば β をどの程度低下できるのかは事前には明らかではありません。

このSIRモデルについては、実際にこれを使ったグラフによる、今の東京の増加率の分析をネットで公開されている方を何人も見かけていることもあり、人口に膾炙してきた、と言えるのではないか。
ただ、上記にもあるように、このモデルは全てを「β(ベータ)」というパラメータに集約させてしまっているので、具体的に、どんな政策が、どういった効果を挙げたのかをモデル化するのには不向きだと言える。

現在、数理モデルの中心はibm[individual based model]です。このモデルは、近年の感染症モデルとして最もパワフルであり、新型インフルエンザ対策では広く用いられています。

これは、都市や国での、一人一人の行動をコンピューター上で表現しています。一人一人の、朝、学校や職場あるいは買い物で出掛け、夕方には自宅に戻るという行動パターンを再現しています。そのデータを用いて、コンピューター点シミュレーション上での人々の接触の過程で、感染症の拡がりを表現するものです。

ibmではもはやSIRモデルのように単純な数式で表すことはできません。いわばプログラム全体が一つのアルゴリズムとなっています。

このibmモデルは、もはや「数式化」という手段をあきらめている、というのが特徴だ。つまり、コンピュータ上で「実際の私たちの行動」をモデル化して、スーパーコンピュータのようなものを使って、強引にその動作をシミュレーションしてしまう、という手法だと言えるだろう。
しかし、たとえそうであったとしても、その「モデル」の登場人物たち(つまり、アクター)は、なんらかの「シンプル化」を行わなければならない。つまり、アメリカであれば、アメリカの事情に合わせた「シンプル化」がされ、実際にアメリカにおいては、それで十分だ、ということになる。
よって、それをそのまま日本にもってこようとすると、どうしても不都合に直面する。その一番分かりやすい例が「満員電車」である。

しかしながら、[ibm]モデルでは、生活様式、たとえば世帯構成や通勤・通学距離、あるいは学校や事業所のサイズなどは全国分布に合わせてはいるものの、仮想的でした。また、通勤・通学経路、あるいはそれ以外の行動パターンについては、複雑すぎるためにそもそもモデル上無視されています。いわば、家庭と学校あるいは職場内でのみ感染が拡がるモデルになっています。
ここで大事なことは、家庭と学校、職場のみのモデルでは、日本の都市特有の行動がモデルに組み入れられていないことです。それは、通勤・通学での多くの人が利用する「満員電車」です。

では、どうすればいいのか? それは、日本に合ったibmモデルを作ればいい、ということになる。その一つの方法として、ここでは

  • 逆引き

による、モデルの「抽出」のアイデアが紹介されている。

そこで、逆に本章では、実際の人の所在、移動のデータからモデルを構築したibmを紹介します。

日本には、実際の「所在」と「移動」を同時に示したデータが調査されています。これはパーソントリップ調査(以下、PTデータ)と呼ばれ、「人(パーソン)」の移動(トリップ)の調査です。どのような人が、いつ、何の目的で、どこから、どこへ、どのような交通手段で動いたかについて調査してあり、1日のすべての動きが把握されています。このデータは、あくまでも都市計画のために調査されたデータで、主に都市の望ましい交通体系のあり方が検討されています。このデータは、知り得る最も現実的な所在と移動の情報です。

さて。こういった理論的な側面については、これでいいだろう。では、本題の

が作られたとき、「どのようなことが想定されて、この法が作られていたのか」について、議論を始めよう。
まず、どのように感染が広がっていくのかを考えるなら、当たり前だが「外から」やってくる、というのは、一つの可能性だろう。しかし、当たり前だが、日本の入国管理においては、体調の悪そうな人には、法律に定められた「チェック」が行われる。つまり、ここで明かに問題があれば、日本には入れない。
では、それでも日本に病気が入ってくる場合とは、どういう場合か? 言うまでもない。「潜伏期」に、無症状の間に、日本にその人が入れた場合ということになる。

潜伏期とは、感染してから症状が出るまでのことです。潜伏期は、病原体によって異なっており、インフルエンザ以外の感染症は、たとえば、はしか(麻疹)では2週間、水ぼうそう水疱瘡)では2〜3週間とされています。その症状の出ない潜伏期の最後の日にはすでに弱い感染性が生じているとされています。つまり、症状が出る前にすでに他の人に感染させる可能性があるということです。

よく考えてみてほしい。新型ウイルスは、国家に甚大な被害を及ぼすことが分かっている。そして、新型コロナは、中国の春節には、武漢で流行が始まっていたことが知られていた。
だったら、なぜ日本は

  • 国境封鎖

を行わなかったのか? が疑問に思えないだろうか? 今、比較的新型コロナの押さえ込みに成功している、韓国や台湾や中国は、徹底して、これを行っている。
また、今の日本はかなり徹底した、国境封鎖をやっているわけだ。だったら、なぜもっと前からやれなかったのか?
大事なポイントは、今の法律では上記の「潜伏期」の人は容易に、日本に潜入できてしまう、というところであって、完全なウイルスの日本への侵入を水際でブロックする、という

  • 思想

が、この「新型インフルエンザ特措法」でも、真剣に想定されていない疑いがある、というこなのだ。
さて。次にこの法律が想定する状況は、実際に感染が市中に広まったときに、どのような施策を行うのか、ということになる。
よく言われて、少し前まで、さかんに議論されていたのが、感染症法第三十三条の「交通の制限又は遮断」であった。
しかし、この法律はよく考えてみると、例えば、東京で大流行が起きたときには、その効果は不十分なのだ。なぜなら、まず、東京23区くらいの範囲を指定することは可能だが、東京は関東圏なのであって、多くの人が周辺の県から出勤してくる。よって、23区をロックダウンすると、その人たちはどうしたらいいのかが分からないわけである。
では、この法律は無意味なのか、というとそうではない。つまり、

  • 田舎

では、十分に効力を発揮する可能性がある。
ということはどういうことか? つまり、今、問題となっているのは東京である。ところが、東京の問題を解決するには、上記の方法は有効ではない。だったら、どうしたらいいのか? それは、「新型インフルエンザ等特措法」では

  • 自粛要請

という施策が、重要な方法として記載されているのだ。

1. 新型インフルエンザの発生前の準備
(1)個人、家庭及び地域での対策
3)社会・経済活動に影響が出た場合への備え
新型インフルエンザが発生した場合、感染拡大を防止するために、1新型インフルエンザの患者やその同居者等の外出の自粛をはじめ、地域における人と人との接触機会を減らすための外出自粛、2学校、保育施設等(以下、「学校等」という。)の臨時休業、3企業の休業又は業務の縮小、4集会等の中止、延期等の呼びかけがなされることになる。
〇勤務先の企業や団体に対しては、不要不急の業務の縮小・停止が要請されるが、重要業務を継続する必要がある場合には事務所内での感染拡大を防止するために、時間差勤務、交代勤務、在宅勤務、自宅待機などの様々な対策が講じられることになる。

どうだろう。ほとんど、今の新型コロナで、政府や東京都が行っている政策

  • そのもの

であることが分かるであろう。つまり、そもそもこの事態は「想定されていた」のだ。このことの重要性をいくら強調してもし過ぎることはにないだろう。
掲題の本を読んでいて、確かに、まるで今の新型コロナの大流行時の行政対応を

  • 予言

しているかのように、まったく、そのままに対策が行われている、ということに驚かされる。しかし、他方において、そもそも今行われている行政の政策に対する

  • 私たちの違和感

が、すでに、この本で予言されているのだ。

「不要不急の外出は自粛する」とは薦められていますが、何が「不要不急」なのかは明確ではありません。

また、一つ大きな疑問を感じないだろうか?
つまり、すでに「法律」ができており、未来の「危機」が予言されていたのだから、なぜ

  • 企業

は、この法律に合わせた「危機対応」を行っていなかったのか、ということなのだ。企業は、今回の緊急事態宣言で

  • 慌てて

リモート作業といったような、自宅での仕事を可能にするインフラ整備を急ピッチで行っているわけだが、なにか変じゃないか? なぜなら、すでに法律があるのだ。だったら、なぜ企業は、この法律に基いて、

  • 対策

を行ってこなかったのだろう?
おそらく、ここが、今回の新型ウイルスの大流行についての、国家による

  • 経済保障

の議論において、欠けている視点なんじゃないだろうか。法律は、このように、企業に対して、すぐ目の前に迫っている新型ウイルスの大流行に対する

  • 対策

を行うことを求めていたわけで、つまりは、そういった事態が起きたとしても、「事業活動」を継続し、経済的損失をできるだけ最小限にする「アイデア」を実現させることを義務づけていた。だったら、今、実際にそういった事態が起きたからといって、3・11のときの東電のように

  • 想定外

と言って、国家に資金援助を求める、合理的な理由はないんじゃないのか?
うーん。
そういった視点で、この本を読んでみると、よく分かんなくなるんですよね。というのは、大企業に対しては、こういった「事前の対策」を求めてきたことが分かるわけだが、

  • そもそも、「経済封鎖」のようなことが行われてば、どうがんばったって「不況」のどん底に落ちることが分かりきっている「業態」

に対しては、

  • どうしてほしかったのか?

が曖昧なのだ。普通に考えるなら、そういった業態でも、「プランB」を用意してもらって、損益を最小にしてもらう努力をしてほしい、というのは分かるであろう。しかし、今回でも例えば、夜の街なんかは、そう簡単に対策を考えられない。
もちろん、こういった「都市封鎖」が比較的、短期間で終わるなら、こういった疑問は不要なのかもしれないが、あまりに長期に続いた場合は、そういった

  • ビジネス・モデル

の業態は、まったく別のスタイルに、転換しなければ「生きられない」ということを意味しているわけであろう。
この本では、例えば、政府が「ロックダウン」を行った場合と、行わなかった場合の

  • 経済的損失

損益分岐の比較といったことは行われている。それによって、例えば、感染率や致死率が低ければ、「ロックダウン」をしなくても軽度の損害で流行が終わるのだから、その方がいいとかの比較ができることは分かる。しかし、

  • 国家による、「自粛要請」に従ってくれたがゆえに、「大きな損失」を抱えた企業や個人に、国家は金銭的保証を行うべきなのか? 行うなら、どういった金額で行えばいいのか?

といった分析は記載されていない。
というか、この本を見ても、よく分からないのだ。そういうことについて、この本の著者の方々はどう考えていたのか、が。
うーん。
なぜ、その辺りに対する、「考慮」が欠けているのか? おそらく、この本の著者は「経済学者ではないから」ということになるのだろう。つまり、この本を書かれた人も、上記の法律を作られた人も、あくまでも「ウイルスの専門家」でしかなく、彼らが

  • 経済システムを止める

ことによって、何が起きるのかの専門家ではないから、ほとんどその辺りについては「空想」の範囲を超えないイメージしかもっていない、ということなのだろう。
そう考えると、今の「ウイルス学者たち」によって、国家の方針決定が完全に「握られている」状況は、危険なのかもしれない。私たちは、注意して今の状況を伺っている必要がある...。