小谷野敦『哲学嫌い』

掲題の本は、ようするに、「哲学」なるものを自称している

  • 文系

の人たちが世の中には一定数いて、それって「科学」となにが違うのか、っていう、素朴な疑問に関係しているんだと思うわけである。
私なんかは、大学で少し数学についてやって、卒業して、コンピュータ関係の仕事をしてきて、つまりは、「理系」として数学を考える、というのが当たり前のところで、つまりは、科学は

  • 数学で表現されたもの

なんだっていうくらいの感覚しかないわけで、いわゆる文系の人たちの、そういうウェットな感情って、よく分からないところがある。
科学とは、実験が分かりやすい例で、つまりは、「未来予知」である。ある実験をしたら、ある「予測した」結果になる。つまり、この

  • AならばB

の必然性をまとめたもの、というわけであるが、ここに文系の人たちの琴線に触れるトラップがあるみたいで、「世界はそんなふうになっているわけがない」「もしそうなら、なんで俺とお前は違っているんだ」「そんな数学の法則だけで、この世界が記述できるはずがない」といったような、いわゆる

  • 実存的

な悩みをつぶやかれる。これは、ハイデッガーの『存在と時間』にしてからがそうで、つまりは、科学に対立する「歴史」について言及しているんだ、というわけである。
科学は世界を記述する、というとき、その記述は、その科学を行っている「私たち」を、いったん括弧に入れて、たんにその「対象」の間に成立する諸法則を云々しているわけであるが、いったん、俯瞰的にこの状況を記述してみると、当たり前だが、この実験をしてる科学者としての私たちの「営み」というものがあって、なぜだか分からないけれど、そこで私たちは、そういった実験の結果を、シンプルかつスムーズなものとして受け入れている

  • 事実性

があるわけだが、「科学そのもの」は、こういった行為がなんなのかを説明しないわけである。
こういった状況を、柄谷行人は『探究1』において、ヴィトゲンシュタインなんかを例にして、「指示語」であり「固有名」の問題として整理した。
確かにそう考えてくると、いわゆる「科学」と称されている営みの「ナイーヴ」な点が気になってくるわけだが、逆に言ってしまえは、こういった

  • 感覚

って、つまりは「リテラシー」の問題だよな、っていうことになるわけで、つまり、そういったことはともかくとして、他方において

  • 科学を徹底する

ことには一定の意味がある、ということについては誰も反対していないわけで、少し拍子抜けする側面はあるのだ。
実際、こういった「哲学」を巡る状況においては、もっと言えば、「文系」を巡る状況においては、彼らがいくら

  • 科学では説明できない世界の側面がある

と言うことを繰り返したところで、他方における、科学の徹底の「有用性」について反論しているわけではないわけで、そうでありながら、じゃあ、その「科学以外」としての「哲学」ということで言ってみても、ほとんど「新しいネタ」って、もうずっと現れていないわけで、そろそろ

  • ネタぎれ

っていった消耗感が限りなくなっている。いつまでも同じことを言っているだけなら、しょうがないわけで、つまりはこれが

  • 学問の終わり

ということなのか。おそらく「哲学」の終わりは、

  • ジャーナリズム

という形で、代替されている。この状況に耐えられない人たちがいつまでも「哲学者」がどうのこうの、といったハッタリを続けている、ということなのだろう。
しかし、ある意味において、こういった「観念論」的な堂々巡りは、カントの批判哲学においてさえ、すでに

  • 完成

していたんじゃないのか、とすら言ってみたくなる側面があるわけであって、つまりは、この私たちが「観察」している「世界」を、「私」が産まれてから今まで、ずっと行われてきた「観察」行為が「生成」した「観察情報」そのものと、なぜ切り離して考えられるのか、っていうのは、少しも自明ではないわけで、こういった

はすでに、ここにおいて「完成」していたのを、あいも変わらず、文系学者たちは「反復」している、といった説明が最も妥当なのだろう。

厳密に議論すれば、これ自体はありうる立場である。ところが、この考え方はさまざまな歪んだ議論を生む。たとえば柄谷行人は『日本近代文学の起源』で「「内面」の発見」を書いているが、これもまた、内面はあとから発見されるという考え方だ。ところが、人は恋愛について教わらなければ恋愛を知らないだろう、となると、疑わしい議論になる。恋愛は性欲から発しているからである。

ヴィトゲンシュタインは「もし我々がライオンの言葉を話したとしても、我々はライオンのいうことがわからない」と言っている。有名な言葉で、柄谷も唐十郎シナリオのドラマに出演して大学教師としてこの言葉を言っていた。だが、これは間違いである。動物にも、悲しみや怒り、喜びといった感情はあり、群れのトップの座をめぐっての争いがあり、メスをめぐる争いがあり、アリのように戦争をすることもある。ヴィトゲンシュタインの時代には動物行動学が未開で、こんなおかしなことを言ったのだと考えるほかはない。つまり動物にも「内面」はあるのである。

まあ、これが、いわゆる、E・O・ウィルソンに代表されるような

  • 動物行動学

に、「人間」を「還元」しよう、というラディカリズムですよね。人間は動物だ。つまり、動物には、ある意味での「人間」が

  • 存在

する、というわけだ。そして、その間を橋渡しする概念が、

  • 性欲

である、と。性欲が「在る」ということは、それは「社会的構築物」ではない。しかし、そうした場合、ここで言っている「性欲」とは、何を言っていることを意味しているのだろう? 性欲と言った場合、おそらく、人間の体の中では、なんらかの

  • 化学反応

が起きていて、なんらかの化学物質が生成されているだろう。はて、それと、ここで言っている「性欲」や「内面」とは、

  • どういった関係

になっているのだろう? 同じことが、動物行動学における

  • 人間(に対して使われる表現)の、動物に対しての「適用(という比喩)」

が、具体的に何を意味しているのかが、よく分からないのだ。
動物行動学者が、いわゆる人間社会で見られる「性質」が、「動物」においても見られる、と言う場合、それは、当たり前だが

  • 比喩

である。つまり、厳密に言えば、それは「(数学などによって)形式化」できるものに過ぎない。だったら、そうすればいいのではないか? ここで疑われているのは、

  • (本来は人間に対してだけ使われてきた)言葉

には、さまざまな過去からの文脈に関係した、多くの「社会的かつ文化的な意味」がまとわりついているわけだが、大事なポイントは、だからといって、そういった側面が、その動物に対して見出されるわけではない、ということなわけであろう。
ここで「在る」のは「化学物質」である。だったら、この「化学物質」で、動物に対しても、人間に対しても、「説明」をすればいいのに、そうしない。あくまでも

  • (文系的な)用語

という「比喩」で何かを言った気分になっているところが気持ち悪い。
こういった「疑い」は著しくカント的だ、と言ってもいいだろう。カントの観念論は、そもそも、人間が生まれてからの「全生成情報」と、この「世界そのもの」とを

  • 区別

しない。というのは、それは原理的に区別「できない」ということに関係している。おそらく、こういった感覚に、文系の人たちは、どこかナイーブなんじゃないのか...。

哲学嫌い ポストモダンのインチキ

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