ローティは、ボスニア戦争の時の掲題の論文において、以下の「ムスリム人は人間ではない」というコメントにインスパイアされて、彼の持論を展開していく。
数カ月前のボスニアからの報告のなかで、デイヴィッド・リーフは次のように述べています。「セルビア人にとってムスリム人は人間ではない......地面に腹這いに並ばされて尋問を待つムスリム人の捕虜の列の上に、セルビア人護衛兵が小型のワゴン車を走らせ、つぎつぎに轢き殺していった。」
これに対して、ローティはこういった
- 人間ではない
という主張は、まったくの完全な「非合理的」ではない、と言います。そして、次のような例を挙げます。
私が教えている大学の創立者ジェファソン氏は、奴隷を所有することと、すべての人間が自明の理として奪うことができないある種の権利を創造主から授かっていると考えることとのあいだに、何らの矛盾を感じませんでした。
ローティはボスニア戦争における残虐な「民族浄化」の議論と、「過去の人」であるジェファソンの、黒人差別とを同列に議論を始めます。ここに、ローティにとっての議論の主題が
- 黒人問題(=アメリカ問題)
であることが分かるでしょう。
二番目の方法は、大人と子供の区別を持ち出すことです。無知で迷信深い人々は子供と同じだ、と私たちはいいます。彼らは適切な教育を施されてはじめて真の人間性を獲得します。もし彼らにそのような教育を消化吸収する能力がなさそうなら、それは私たちのような教育によって進歩しうる人間とは違う種類の人間だという証拠です。アメリカや南アフリカの白人の意識のなかでは黒人は子供と同じなのです。だから黒人男性はどんな年齢層でも「ボーイ」と呼ばれました。
- 奴らは人間ではない
と「言った」ことが問題なのでしょうか? 一方が他方を暴力によって残虐に扱うとき、相手を「人間じゃない」と仲間うちで言うことは、そもそも
- 言葉の慣用
として、十分にありうることに思われます(つまり、そうまでも言えるようになってないと、そんな残虐な行為にまでは及んでいないでしょうから)。しかし、そのこと(そう言ったこと)と、実際に相手を「人間じゃない」と
- 思っている
こととは、まったく次元が違う話なわけでしょう。
ところが、ローティは、そういった言葉がある文脈で「使われた」ことを、まさに
- 揚げ足をとる
形で、ここから、「いや、実は、昔、ジェファソンという人も似たようなことを言って、そして、アメリカにおける黒人差別も同様の慣習であってね...」と、アメリカにおける黒人差別問題を、この言葉の彼の解釈と
- 同列
の議論として語り始めます。
ローティは何がしたいのでしょう? それは言うまでもなく、彼自身を含んだ、アメリカの白人たちの
- 正当化
であることは自明なのではないでしょうか? ボスニア戦争を、とりあえず「白人同士」の殺し合いだとするなら、アメリカにおける白人による黒人への「同様の扱い」も、
- 同じなんだ
といって、ローティという「白人の当事者」を正当化している、という気持ち悪さがあるわけです。
彼は私たちが日常的に、回りの「仲間」だと思っている人以外の人を
- 差別
して生きていることは、「しょうがない」と考えます。いや、もっと正確に言うと、あまり褒められたことではないけれど、そういった傾向が人間にあるのなら、あまりそれを批判することは適当でない、と言っているわけである。
そういう意味で、ローティは、アメリカの白人社会が一貫して「黒人差別」をしてきたことを、あまりうるさく批判するのは正しくない、と言いたいのだ。彼の考えからすれば、そもそも、「古き良きアメリカ」として、アメリカ社会を相対的に「礼賛」することが話の前提なのですから、当然、そこでの自分たち白人が「誇りに思える」存在でなければそれが成立しないわけで、まずもって、ここを「なんとかしなければならない」という動機があるのだろう。
しかしね。
なんだろう。白人の当事者が自分たちの行動がいけないと怒られているのに、いやそれは「自然」な反応なんだから、そこで怒るのもどうかね、って因縁つけるのもどうなのかね。
言うまでもないけど、ボスニア戦争の当事者たちは、ジェファソンのように過去の人じゃない。現代のさまざまな、国際法を含めた、さまざまな世界中の言説を知っている
- 現代人
なわけであろう。そういった人が過去のジャファソンと同列に、「過去の白人が黒人を同等に扱わなかったのと同列に、自分たちもそうしているんだ」と考えている、というのも、どうかしてませんかね。
さて、ローティはそこから、
- プラトン
- カント
を、ボロクソに叩き始めますw なんのこと? と思うかもしれませんが、実際にそうなのですw つまり、なぜボスニア戦争の残虐があるのか、なぜアメリカの白人による黒人差別があるのか。つまり、
- なぜ今に至っても、そういった差別がなくならないのか?
は、プラトンやカントが言っていたことが「間違っていた」から、今だに差別はなくなってないんだ、と「過去の」哲学者の「努力が足りなかった」ことに
- 責任転換
を始めるわけである。プラトンやカントがこんな「嘘」ばっかりついていたら、今、自分たち白人が黒人を差別してたって「しょうがない」、ってわけw
まあ、普通の人はこう思うよね。なんで過去の人が関係あるの? って。
プラトンやカントの道徳理論が「間違って」いたから、こんなことになってしまった。これって、ようするに、今自分たちが間違った行動をしてしまっているのは、
- プラトンやカントのせい
だから「しょうがない」っていうことだよねw 今までの、白人による黒人の差別は、プラトンとカントのせいなんだから、今までの自分たちにはしょうがなかったんだから、この倫理的な責めを、アメリカの白人に負わせることはできないよね。よし「古き良きアメリカ」w。
よかったね、ローティ。アメリカの「古き良きアメリカ」が
- 証明
できてw
しょーがねーよなー。だって、プラトンとカントが間違えたんだぜ。そりゃあ、アメリカ人、全員が間違えてたって、そりゃあ、彼らに騙されてたんだったら、だれの責任も問えないよ。あーあ、アメリカの白人による黒人差別はしょうがない、しょうがない。
なんなんだろうね、この三文芝居w
まあ、いずれにしろ、ローティはプラトン、カントに対抗して、
- こうすればいい
という「処方箋」を出します。そりゃそうでも、なぜなら、今まではプラトン、カントのせいだったと「気付いて」しまったんですから、これからはちゃんとしないといけませんからねw
基礎づけ主義を乗りこえる最良の、そしてたぶん唯一の議論は私がすでに示唆したものです。つまりそうするほうがより効果的なのです。なぜならそうすることによって自分たちのエネルギーを感情の操作に、つまり感情教育(sentimental education)に注ぐことができるからです。その教育はさまざまな種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人たちをにせの人間と考える傾向に歯止めをかけることができるでしょう。
ローティは、どうすれば「あいつは人間じゃない」という差別をなくせるか、という議論において、その彼らが考えている「人間の範囲」を広げる、という目標を掲げます。では、それは、どうすれば達成できるのか?
このような種類の優しくて、裕福で、安泰で、他人を尊重する学生を世界の至るところで生み出すことこそ、啓蒙主義的ユートピアを達成するためにまさに必要なことであり、必要なすべてなのです。私たちがこのような若者を育てれば育てるほど、私たちの人権文化はより強く、よりグローバルになるでしょう。
つまり、「教育」という言葉を使っていますが、ようするに
- 子供
を、そういう「優しい」子供にすれば、すべてが解決する、と主張します。つまり、そういう「人間の範囲を広げ」る子供に、幼ない頃から、学校で
- 矯正
すればいい、と言っているわけです。
では、具体的には何を「矯正」するのか? それは道徳のように「なにをやってはダメ」とかを、心に刷り込む、ということではありません。ローティは、そういうプラトン、カント的道徳はダメだ、と言っていたのだから。
つまり、ローティはそれの代わりに、
- お前にとって、両親や子供たちって大事だろ?
という「相手がもっている自明性」から出発する、というわけです。
この感情の進歩とは、私たち自身と私たちとはかなり異なる人たちとの類似性のほうがさまざまな相違よりも大切だということに気づく能力が高まることです。それこそ私が「感情教育」と呼んできたものの結果なのです。ここでいう類似性とは、真の人間性を裏づける深い、真の自我を共有することではなく、両親や子供たちを大切にするというような、とても些細な、表面的な類似性のことなのです。おもしろいことにこの類似性は、人間と、多くの人間以外の動物とのあいだに隔てなく存在します。
ベイアーの忠告に従えば、道徳教育者の使命は、「なぜ私は道徳的でなければならないのか」という道徳的利己主義者の問いに答えることではなく、「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。
より妥当な答え方は、次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」
上記を見ると、そもそも私にはプラグマティストが何を言っているのか、よく分からないんですよね。ここで「感情」とか「物語」という言葉が何度も繰り返されているけれど、これって、ようするに
- お前は自分や自分の家族が差別されたら嫌だろ? だったら、同じように、他の人にもそういった家族がいるんだから、自分が差別されたくなかったら、相手にもその権利を認めなきゃ、つじつまが合わないよね?
っていう、立派な「論理=理性」だと思うんですけど? つまり、十分にこれは「理屈」なわけでしょう。つまり、「理性=計算」だよ。
ここでローティが言っているのは「感情」じゃなくて、
- お前は「自己利益」を計算しろ、そうすれば、相手を一定の範囲で「優しく」する方が合理的だ
と言っているに過ぎないんだよね。つまり、
- お前の「差別」はしょうがない。そうじゃなく、お前の自己利益の合理的な計算によって、場合によっては「他人に優しく」することで、かしこく生きようぜ。
という形によって、
- 人間の差別行為そのものを非難する態度を止めよう(アメリカの白人による黒人差別を非難するのを止めよう)!
って言っているだけにしか聞こえないんだよね。
つまり、論点のすりかえをローティはやっている。ローティは、それぞれの人が相手を「仲間」だと思えるように教育を変えていくべきだ、と言っておきながら、それの具体的な実現方法の話を始める代わりに、
- お前は一見すると功利主義者のように、自己利益にしか興味のない、残虐な奴のように振る舞っているけど、少なくとも、自分の家族だけには、ウェットな感情があるんだろ?
ていう、まあ、「最低限の人間性」にまで「後退」して、さあ、こっから始めよう、とかぬかしてるんだよね。いや、そのレベルの話は、もう分かったら、具体的に、社会システムとして、どういって社会を私たちが
- 許容
するのかの、合意形成をやれよ、っていう話なわけでしょ。
そりゃあ、お金持ちの白人が、黒人に優しくするようになる一つのアイデアとして、「相手の黒人にも、あんたと同じように、家族がいて、悲しんでる母親がいるんだよ」って言うのは、具体性があって効果はあるのだろうけど、どうせ貧しくなったら、そうできないんだろ? そう、ローティ自身が以下のように言ってんじゃんw
感情教育は十分に時間をとって、ゆったりとした気分で聞くゆとりのある人たちにしか効果がないのです。
まあ、マルクス主義的な分析ですよね。最初から、格差社会なんだから、貧しい人たちには、そんなことを気にしている余裕なんてない、ってわけ。
上記のローティが言っていることを「素直」に聞いて、どうすればいいか考えるなら、以下のようにまとめられるんじゃないでしょうかw
- アメリカの子供を全員、同じ学校に通わせる。そして、クラスの席の隣は必ず、白人と黒人のペアにする。そして、必ず、学校の行き帰りは、白人と黒人が「同じ割合」で、白人と黒人が互い違いに「隣あって」通学する。
- こういった「日常」を、子供の頃から過させることによって、白人も黒人も必ず、大人になっても、お互いが「仲間」である人がいるようにする。
- アメリカの人で、誰一人として「貧しい」家族がいないようにする。必ず、十分の教育費を国は支給して、誰でも行きたければ全員、大学まで行けるようにする。
- 高校も大学も、「学力」でクラス分けをしない。学力で進学先を決定しない。みんな「平等」に扱う。
まあ、こうなるんじゃないですかねw
しかし、ね。ここまで行っちゃうと、ローティ主義者の宮台真司先生や、東浩紀先生は乗れないんだよね。だって、彼らは
- エリート高校
に通ってたから東大に入れたと自認しているわけで、つまりは、エリート高校とかエリート男子校とか絶対擁護なわけでしょう。でもそんなエリート学校で、貧困層の子供とまったく関わらないで、セレブの子供どうしばかりが回りに友達になった、まさに、これこそローティが行っている
- 仲間以外
の差別の「自然化」を導いてしまいますねw(でも、絶対に宮台先生も東先生も、これを否定しない。つまり、彼らにとっての、ローティ主義者は、こういった
- 恣意的な「つまみぐい」
によって成立しているに過ぎないんだよねw)。
また、彼ら二人にとって、ローティが魅力的なのは、彼が「ブルジョア道徳」を語っているからなわけだ。つまり、
- 金持ちはどんどん金持ちに、貧乏人はどんどん貧乏に
という世界だから、宮台先生や東先生のような「セレブ」は、いい生活をできるし、十分な教育を受けられたわけだ。ところがそれが、マルクス主義者のように、「平等でなきゃダメ」ってなったら、彼らへの特権的な扱いがなくなるわけですから、それは飲めないし、そういったポピュリズムの動きに
- 恐怖
して、なんとかそれを避けるために、手練手管を駆使して、世論を操作しようと、日夜がんばっている、とw
しかし、ね。
ある意味で、今のアメリカはこういった方向になってきたんじゃないでしょうか? 実際に、今の BlackLivesMatter の運動においては、かなりの割合で
- 白人
の人たちがデモに参加している、と聞いています。つまり、多くの白人の方たちは、
- 子供の頃から「学校」で、黒人の子供と隣合って授業を受けて、お互いを「仲間」だと思っている
というわけでしょう...。
- 作者:ジョン・ロールズ,スティーヴン・ルークス,キャサリン・マッキノン,リチャード・ローティ,ジャン=フランソワ・リオタール,アグネス・ヘラー,ヤン・エルスター
- 発売日: 1998/11/20
- メディア: 単行本