渡航『やはり俺の青春ラブコは間違っている14』

まあ、このラノベについては、以前にも何回か言及をさせてもらっているわけだけれど、けっこう前に最終巻が出ていたわけだが、私はあまり、最終巻を読んでみよう、という気持ちになれなかった。それには、いろいろな理由があるのだろうが、正直、作者が何を言いたいのか、っていうのが分からなくなっていったし、それに対して、自分があまり興味がもてなくなっていった、ということなんだと思う。
ただ、今回アニメの続編で、雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)の母親と姉が、PTAの父兄代表みたいな役回りで、学校の乗り込んでくる場面を見ていて、一応、最後まで読んでおこうか、と思って読んでみたという次第となる。
そうして、最後まで読んだ感想としては、例えば、漫画だが、冬目景イエスタデイをうたって』に似ているな、と思った。つまり、おそらく作者は、作品の早い段階で、この作品の「終わり」のイメージはあったんだと思う。そして、そこにどうやってもっていくのか、というところで、

  • これだけの長い話数

を必要としたんだな、つまり、その最後のシーンを描くのに、それなりの「コンテクスト」を用意しなければ

  • 説得力

を与えられないんだろうな、といった努力が感じられるわけだ。
作品の構成を改めて整理してみると、比企谷八幡(ひきがやはちまん)という男の子の主人公が教室で

  • ぼっち

という枠組みから始まっている。つまり、完全に教室で「ハブられ」ていて、孤独な少年だった。ところで、ここに平塚静という美人で、まだ若い先生が「彼」に介入してくる。つまり、先生の

  • 深謀遠慮

という形で、比企谷と雪ノ下の「奉仕部」の結成という「なりゆき」になる(雪ノ下も、美人ではあるが、クラスでは敬して遠ざけられているという意味では、「ぼっち」ではあった)。まあ、そういう意味では「巻き込まれ系」だ。
作品はこの基本的な構造で始まる。後から、由比ヶ浜結依(ゆいがはまゆい)が奉仕部に加わって、三人での活動が始まるわけだが、ガハマさんは、そもそも

側の人間である。つまり、グループとしては、ヒッキーを「ハブって」いる側だ。ただ、過去のいろいろな経緯があって、ヒッキーに魅かれている、という関係になっている。
第14巻まで続くこの作品の基本的なスタイルは「問題解決型」となっていて、つまり、「推理小説」に構造が近い。もっと言えば、

と言っていいだろう。さまざまな難問にヒッキーが立ち向かうのだが、その「解決」は私たちが普通に考える解決とは違っている。つまり、どこか「功利主義的」なのだ。ある問題がある。それは一般的には、どう考えても解決できそうには見えない。ただし、例外がある、それは

  • (理不尽なまでに)比企谷が「犠牲」になれば、解決する

という「からくり」になっている。ヒッキーはそもそも、クラスの「ぼっち」である。みんなから邪魔にされている存在である。つまり、彼自身には、自分に対する

  • 保護欲求

が弱い。みんなから馬鹿にされているのは毎日のことであって、今回の件で結果として自分がどんなに、これ以上に馬鹿にされるような結果になろうと「たいしたことはない」という評価がある。つまり「それ」によって、誰かの「ピンチ」が助けられるのだったら、それでいいんじゃないのか、という見積りがある。
しかし、である。
こういった行動は、一般には「自己犠牲」と呼ばれる。つまり、それによって「他者の視線」が変わるのだ。つまり、作品が進むにつれて、クラスの雰囲気が変わってくる。彼はいつものようにクラスの「ぼっち」だが、誰もが彼に、一定の「リスペクト」をもって接するようになる。しかし、その感覚は「アンビバレント」だ。つまり、その彼の行動は普通に考えるなら

  • 馬鹿馬鹿しい

と言うしかない行動なのだ。だが、それが「なぜか」自分に対して行われたことに対して、どうしても一定の評価を与えざるをえない、といった関係になっている。
では、最終巻はどういった形で終わるのかということだが、これは典型的な「日常系」の終わり方を踏襲している。ようするに、この作品は「奉仕部」の放課後の部活活動を描いた「日常」なのだ。しかし、当たり前だが、この活動にも最後がある(そもそも、高校を卒業すれば終わりだ)。つまり、いつかはこの「日常」は終わる。しかし、もしもそうだとするなら、この活動はなんだったのか、という問題に向き合わなければならなくなる。
最終巻で、雪ノ下は比企谷に、奉仕部の解散を提案する。もともと、平塚先生が無理矢理始めさせた部活であったことを考えれば、平塚先生が来年度から転勤することが分かった時点で、彼らにはそれを続けなければならない理由はない。
しかし、それでいいのだろうか?
ここには、ある種の「モラトリアム」の問題がある。

「......あれしか、お前と関わる方法がなかった」
「は?」
雪ノ下が足を止め、ぱっと俺を振り返る。その表情は驚きに満ちていて、半端に開いた口からは今にも、意味が分からないという言葉が飛び出してきそうだ。
「部活がなくなると、もう接点がないからな。お前を引っ張り出す口実が他に思いつかなかったんだ」
「なんでそんなこと......」

つまり、作品は道徳問題ではなく、

  • 倫理問題

として、最終巻においてその「問いかけ」として終わっている。
私はそもそも、今の学校制度には問題があると思っている。その一つが、このクラス解散だ。ある一定の意味において、子供たちを集めておいて、いざ「進学」という段階で、この全ての関係は「チャラ」にされる。ここには、ある倫理的な瑕疵がある。なぜ、進学するからといって、子供たちの関係が終わらなければならないのか? それは、もともと今の教育制度が

  • 国家に奉仕する人材の育成

を目的にされているからで、個々の子供たちの「人間関係」に徹底して無慈悲に作られている、ということを意味する。
八幡は、自分と雪ノ下の関係は、この「奉仕部」がなくなれば終わる関係だと思っている。それは、二人がそもそも

  • 人づきあいが下手

だからだ。いや、だからこそ、平塚先生はこの二人に部活を始めさせた。つまり、最初からこの作品は

  • 二人の倫理的な問題

が「問題」だったのだ。
こう考えてくると、この作品において、平塚先生が非常に重要な役回りになっていることが分かるだろう。事実、この最終巻でも何度も登場する。しかし、彼女は本質的なところにおいては、デタッチメントを貫く。つまり、一定の「距離」をもって、子供たちと関わっている。そういう意味では、どこか不完全な終わり方のように感じなくもない。もちろん、由比ヶ浜の問題もなにか、しっくりしないものを感じている人も多いんじゃないか。
ただ、作品の「全体」として考えてみると、非常によく分かる構成にはなっている。確かに、作品の表面上はほとんど

  • 前面化

して描かれてはいないが、これは、そもそも、比企谷という

  • クラスで「ぼっち」な少年

が、同じく、

  • クラスで「ぼっち」な少女

のことを知り、(自分と同じような「境遇」に「苦しんで」いることに「共感」して)ずっと彼女を「心配」し続ける、とても「優しい少年」の話なのだ...。