ソクラテスはなぜ公務に関わらなかったのか?

ところで、ソクラテスは昔から、ある意味において、 評判が悪い。

ダイモーンの声が、わたしが市政にかかわる活動をすることに反対しているのです。それがわたしに反対するのも、まことにもっともなことだと、わたしには思えます。なぜなら、アテナイのみなさん、わたしがもしも市政に関わる活動に立ち向かっていたなら、とっくに殺されていて、あなた方のために、何もできなかったし、自分自身のためにもならなかったでしょう。ですから、それが反対するのは、もっともなことなのです。真実を語るわたしに腹を立てないでください。なぜなら、あなた方に対して、またほかの多数に対して、まったく正直に反対していたら、そして、市政において生じる多くの不正と不法を、あくまでも抑えようとすれば、人間だれであっても、安全ではいられないからです。正義のために戦って、なおかつ、もしも短い時間であっても安全でいようとすれば、私的個人としてはたらなかければならないのであて、公の仕事をするできではないのです。(31D-32A)

八木雄二ソクラテスとイエス』)
ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理

ソクラテスの若い頃、アテナイの市政に賢明で多大な指導力を発揮したのは、民主派のペリクレス(前四九五頃-前四二九)であった。そのペリクレスは、市民はだれでも国の経済を知り、政治に関心をもたなければならないと言っていた。
八木雄二ソクラテスとイエス』)
ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理

メレトスはそういう社会常識の立場(国を愛するものの立場)に立って、ソクラテスを起訴している。したがって、ソクラテスの言い分は現代に至るまで、大部分の人にとって「間違っている」と見られている。現代のギリシア哲学の研究者イシドア・F・ストーン、グレゴリー・ヴラストスと言った斯界の大御所も、ソクラテスの主張に腹を立てている。
八木雄二ソクラテスとイエス』)
ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理

つまり、ソクラテスは、ある意味において

  • 民主主義を否定

しているように読めなくもないからである。
このことを、どう考えたらいいだろうか?

個人の持つ不正と戦って、その不正を指摘することまでは、危険は少ないが、国家公共のこととなると、相手は多数が一団となった不正である。それと「戦う」ことは、多勢に無勢となるほかない。危険極まりない。本人たちは自分たちの正義を信じている。また自分たちの理解力、判断力を信じている。それが多数となれば、ソクラテスの活動について、いつ、どのような誤解が生じるともかぎらない。
八木雄二ソクラテスとイエス』)
ソクラテスとイエス: 隣人愛と神の論理

ソクラテスが行っていることは、人々が「知っている」と思っていることが、本当は「知ていない」ということを暴露することであった。しかし、政治的命題とは、なにをするのかに

  • コミットメント

するものであって、それを「なぜ」行うのかに拘泥するものではない。つまり、政治とは、ある種の「ゲーム」なのだ。このゲームによって、結果としての

  • 最大の幸福

を達成できるかが問われている。つまり、政治は「なにが正しいか」を争うゲームじゃない。そうじゃなく、

  • みんなで何を行うか?

についての「合意」を形成していくプロセスだ、ということになる。
ところが、ソクラテスが行っているのは、そういった一切の「大人の事情」に興味を示さない。彼の行っていることは

  • 正しいこと「だけ」を述べる

ゲームだ、ということになる。つまり、政治と相性がよくないのだ。
政治ゲームにおいて、「あなたの言うことは正しくない」と指摘することは、その人が「国家を滅亡に導こうとしている」と指摘しているのと等価なこととされ、侮辱を受けたと認識される。しかも、ソクラテスが指摘する内容は、

  • 国民全員が間違っている

と言っているのと変わらない。もしもこれが「感情」の多数決だとするなら、国民の全員がソクラテスに、いい印象をもっていないのだから、

  • 有罪

となる、というわけである。だとするなら、

  • この判断に関わらない

ということは合理的だ、ということになるだろう。しかし、こういった姿勢は、民主主義の本義に反する、ということになるのだろう。問題はなんだろう? ソクラテスは別に、

  • 無記名秘密投票

に参加しなかった、ということではないのだろう。この場合、投票者はなにが真実なのかについて意志表示をしなければならないわけではない。あくまでも、投票者は

  • その投票することによって、どんな「効果」が発生するのか?

を考えて、その人が考えるベターな選択を行えばいい、ということになる。ただし、例外がある。それは、そういった「政策」を公約として掲げる人、つまり、

  • 政治家

であり、それが「法律」となった場合に、その法律に従って行動する人、つまり、

  • 役人

である。つまり、彼らはソクラテスが言うような「真実ゲーム」が

  • できない

関係になっていることを理解しなければならない。つまり、どういうことか? ソクラテスは完全な意味において政治に参加することはできない。つまり、

  • 政治家や役人になれない

わけだが、まったく政治にコミットメントできないわけではない。つまり、「無記名秘密投票」という形では関わることができる。これをどう考えるか、ということになるだろう。
もともと政治的選択とは、「是是非非」ではない。つねに

  • 全体

において、よりベターな方向に向かうものを選択する「ゲーム」なのであって、それぞれの政策の内容的な「合理性」が問題となっているわけではない。どんなに「言っていること」が変でも、それによって「行っている」ことが、私たちに一定の満足をもたらすなら、そちらを選択することは往々にして行われるわけである。
こういった分類を、さて、現代の私たちの目からは、どのように映るだろうか?
ソクラテスが行っている行為は、現代では、ある種の「学者」の態度のように思われる。現代政治において、学者は知識がある。だから、学者は全員

  • 政治家になって「真実」政治を実現しなければならない

とはなっていない。それは、もしもそうなったら、「学者」という職業を担う人材がいなくなるからであるわけだが、古代ギリシア国家ではそうではなかった。上記のペリクレスの発言が示しているように、ほとんど「輪番」と変わらないようなペースで、多くの国民が、なんらかの国家の「役職」を実施することが当たり前の社会であった。
しかし、もしもそういった「知識」だけが、この世界の知識だとすると、私たちは間違いなく「間違って生きてしまう」わけである。つまり、間違っていると分かっているのに、その間違いを正せないままに、それを続けて滅びてしまう、ということである。ということは、どういうことか? 私たちに必要はのは、そうではない。

  • オールタナティブ

だ、ということになる。私たちは「政治的決定」を離れて、

  • なにが「正しい」のか

を考えることを可能にするコミュニケーションが「生きていく」ためには必要なのだ。そして、これは(ソクラテスが言っているように)逆についても言える。

  • なにが「正しくない」のか(なにかが「正しい」と言っていることが、本当に正しいのかが「分からない」)

と考えられるアジール空間が非常に重要だ、ということなのだ。そして、これが「学問」である。学問の世界では、そもそも、あらゆる主張は

  • 仮説

である。そして、これが「真実」に変わることは、未来の無限遠点までありえない。そしてその無限遠点は絶対に到達しないのだから、つまりは、絶対に真実は「分からない」ということなのだ。
科学は「帰納法」である。十回テストしたら、十回成功だった。だったら、これは、とりあえず「成功」ということにしよう、というのが科学である。そして、そういう命題を、列挙したものが科学なのであって、つまりはこれは「ゲーム」なのだ。しかし、こういった「ゲーム」を馬鹿にはできない。ソクラテスは、こういった「積み重ね」が、迂遠な形であれ、回り回って政治に影響を与える、と考えている。つまり、政治家たちも、決して否定できない主張に対しては、いずれは、それらを「考慮」したコミュニケーションを行わざるをえなくなり、そのことが、政治的命題の

  • 質(しつ)

を上げていうことになる...。