映画「鬼滅の刃」を見て

映画「鬼滅の刃」が記録的な大ヒットだ、と言うが、映画館で朝から深夜まで、そればっかりを上映していて、ほとんどが予約などで購入済みなら、そうなるよなあ、といった感じではある。例えば、「君の名は。」のような、口コミで一週間くらいかけて、人が押しかけていくような状況と比べると、少し作られた人気とも言いたくなる(そもそも、どこの映画館も、この映画ばっかりやっている、という状況は、この新型コロナの映画館不況とも関係しているのだろうか)。
私は原作の漫画を、ほとんど見ていないし、そもそも、週間少年ジャンプを見ていないわけで、ただ、近年のブームに注目してテレビアニメシリーズを見ているだけの知識で、今回の映画を見させてもらった手前もあって、それなりに楽しめた、というのが感想だ。
ただ、今回の映画の大ヒットは、この映画の出来がどうのこうのとは関係なく、そもそもの昨年から続いている、「鬼滅の刃」ブームの延長の現象として見るのが正しくて、そういう意味では、この映画そのものに、なにか語りたい話題があるわけではない。
そう思っていたら、以下のブログ記事が、はてなブックマークで紹介されていた。

「鬼滅の刃」に女性が熱狂する理由|小山晃弘|note

なぜ、「鬼滅の刃」はブームになったのか? それを、この記事では、

  • なぜ「女性の間で」ブームになったのか?

と読み替えている。その上で、この作品の主人公の少年には

  • 少年漫画が描いてきたような、「男の欲望」が描かれていない

というところに違和感がある、と言い始める。つまり、むしろこの特徴を、このブログの方は

  • 「悪い」側面

として指摘している、というわけであるw
まあ、ようするに、週間少年ジャンプが今まで描いてきた作品の、ほとんど全てが、そういった

  • (心理学、または、文学部といった「文系」が仮構してきた)男の欲望というものが「存在」する

という「仮説」のもとに描かれてきた、という関係にあるのであって、そもそも、こういった漫画雑誌の「前提」を受け入れられない人たちには、まったく、人生に

  • 関係のない

世界だ、というわけである。
つまり、もっと言えが、週間少年ジャンプとは

  • 男子校ノリ

なわけである。現代において、いかに男子校という存在が、非倫理的で、問題とされている時代に、今だにこういった、

  • 男子の女子に対する「遺伝子的な意味での」優越(=ある主の「優生学」)

を前提としているかのような作品を、まったくの無批判で作り続けている世界の、浮世離れを、「鬼滅の刃」という作品は批判しているのだろう。
(少し余談だが、歴史的に、DNAだとか遺伝子だとかに極端な「存在論」を関係させてきたのは、みんな「文系」の「哲学者」たちだw つまりは、それは「心理学」の「実在論」に関係して、遺伝子やDNAが語られてきた。もしも遺伝子やDNAが、決定的な、その人の「存在」を決定していなければ、そもそも「心理学」の学問としての「実在」が否定されてしまう。彼ら「文系」は、自らの行っている学問の「価値」を証明するために、どうしても、遺伝子やDNAが世界を「決定」してくれなければ困る、わけであるw)
なるほど。「鬼滅の刃」の原作の漫画の作者は、最近まで身元を隠していたそうであるが、今では、女性であることが分かっている。そういった視点で見れば、確かに、鬼たちの

  • 繊細なナイーヴさ

の描き方なんかを見ると、どこか女性の描いている作品といった印象を受けてくる。
しかし、である。
むしろ、そんなことより、はっきりとした特徴が、この作品のプロット自体に内包されている。主人公の少年、炭治郎(たんじろう)は、家族を鬼に斬殺されている。
まあ、そういう意味では、かなり

  • 虐殺現場

が描かれた作品という意味では、映倫だったら、かなりアダルトな作品として分類される作品だ、ということになる。そして、考えてみると、こういった主人公の家族が

  • 虐殺

される作品が、週間少年ジャンプには、ほとんどない、ということに気付くわけである。
どういうことか?
つまり、週間少年ジャンプは、そういった極限状況に置かれた少年の心を描いてこなかった、ということなのだ。つまり、上記で言っていた

  • (男の)欲望

は、そもそも、

  • 幸せな家庭

によって母親に守られていることを前提にしないと、まともに見れない「甘え」なわけである。
また、唯一生き残った、妹のねず子にしても、鬼化、つまり、

  • 病気

になっているわけで、正常な理性が、完全に戻っているわけではない。つまり、作品の構成は非常に単純だ。

  • 父親、母親、妹、弟を(鬼という)この社会に殺された長男の少年が、唯一生き残ったが(鬼化という、意識を失った)妹の<病気>を治すために「生き続ける」ことを選択する物語

なわけだ。ここで、日本中の子どもを含めた人たちは考えるわけであろう。もしも、家族が亡くなって、それでも自分は生き続けよう、と思えるか?
それに対して、この作品は直接的な答えを避けている。というのは、妹のねず子は鬼化しているわけだが、まだ、人間に戻すことをあきらめてないからだ。
つまり、この作品では、主人公の少年に、家族の死と向き合うことを直接には強いていない。その代わりに、とにかく、妹を生き残らせなければならない、という使命感が彼を、目の前の困難を生き残ろうとする意欲を与えている。
まあ、こういったシチュエーションは、私たちのだれにでも起こりうる、と考えることだってできるわけですよね。交通事故で、自動車が大破して、親が死ぬかもしれない。唯一生き残った自分と妹。でも、妹が病気で意識が戻らなかったら、その妹の病気を治すために、自分一人で生計を立てて、とにかく、

  • 生きて行こう

と「思える」のか? まあ、この作品は全ての人に、それを問うている、という意味では、メッセージは分かりやすいし、それを直接的なメッセージとして、真剣に受けとめている人が多い、ということなんでしょう...。

追記:
主人公の炭治郎(たんじろう)は、家族を鬼に虐殺されたわけだが、彼が欲望(つまり、感情)を持てないのは、それを持ったら、鬼に殺されるからだ。つまり、そういった

  • 男の欲望

として、「文系」で学問化(心理学化)されている「神話」は、安穏とした家族関係が保証されている子どもたちが「悩む」贅沢(ぜいたく)で、たんに今の時代が「平和」だから提供されているものに過ぎない。炭治郎は無感情なのではなく、感情をもったら「死ぬ」から持たない、だけにすぎないし、これは、ある意味での「比喩」なのだ...。