ロバート・ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』

ウィルフリド・セラーズの『経験論と心の哲学』において、本文の前に、リチャード・ローティが「はじめに」という論文を寄稿しており、また、本文の後に、掲題の著者が「読解のための手引き」という解説論文を寄稿している。
そこにおいて、ローティは以下のように書く。

われわれが今「分析的」と呼んでいる種類の哲学は経験論の一つの形態として出発した。
(リーチャード・ローティ「はじめに」『経験論と心の哲学』)
経験論と心の哲学

それはセラーズの企て----彼は自らの企てを分析哲学をヒュームの段階からカントの段階へと導くことであると記述した----全体のほとんどの側面をカバーしている。
(リーチャード・ローティ「はじめに」『経験論と心の哲学』)
経験論と心の哲学

ブランダムの仕事は有益な仕方で、分析哲学をそのカントの段階からヘーゲルの段階へと導く試み----セラーズの「ヘーゲル省察」という「経験論と心の哲学」のひねった記述と「かの直接性の偉大な敵」としてのヘーゲルへの言及が予示していた試み----として理解できる。
(リーチャード・ローティ「はじめに」『経験論と心の哲学』)
経験論と心の哲学

まあ、ローティが分かりやすいわけだ。彼は、ヒューム主義者として、ボコボコにカントを馬鹿にして、こき降ろすことで、

わけだw カントを糞味噌に言うと、分析哲学の世界では、みんなにチヤホヤされるw なぜなら、分析哲学がそもそも、経験論の延長と自己定義しているからだ。
しかし、である。
まあ、当たり前であるが、カントはそういった経験論を「批判」することで、彼の三批判書を作ったんだよねw つまり、さ。みんな、カントを<読む>ようになっちゃったんだよねw カントを馬鹿にするにも、カントを読まないとならない。そうすると、

  • なんだ、意外とカント。鋭いこと言っているじゃん。
  • むしろ、カントの言っていることの方が「正しく」ない?

ってなっていくんだよね。
なんなんだろうね、これ。
まず、セラーズは「所与の神話」と言った。この主な仮想敵は、「センス・データ理論」だった。つまり、経験論者たちは、まるで

  • 感覚与件 ... 例えば、「赤い」なにかを見た、といった感覚

が、

  • 純粋

な、<全ての知識の基礎データ>として、

  • 基礎づけの基礎

として使えるものであるかのように、前提にした。まあ、こういった「錦の御旗」を、まさに、前提として、カントを馬鹿にしたわけだよね。
つまり、さ。彼らの態度は、うさんくさかったわけだ。もっと言えば、「党派的」と言ってもいい。
もちろん、そのことはカントが変なことを言っていない、ということを意味しているわけじゃない。そうじゃなく、

  • カントを批判するなら、カントの言っていることを受けとめて、まずは、お前たち「自身」の身のふりかたを振り返るのが当たり前だろ

ってことなんだよね。つまり、学問としての「誠実さ」が、うさんくさいわけだ。
あのさ。
哲学って、高校の数学の「公式」の暗記みたいなものじゃないわけだよね。高校の数学のテストで、公式を適用して、答えが合っていて、先生に褒められて、大学に入学できたら、楽しいし、嬉しいよね。でも、哲学って、そういう、あんたの「自尊心」をホルホルするもんじゃないわけ。つまり、学校側が最初から「これが答えです」なんて、勝手に決めて、むしろどんなにそれが間違っていても、その通りにやれば正解、やらなければ不正解、なんていう馬鹿馬鹿しい

  • 教師に「おもねる」ゲーム

じゃないわけだよね。つまり、お前自身の実存がさらされるわけ。確かに、センス・データ理論で、これを

  • 所与の神話

にできたら、いっくらでもここから「知識」が増えるよね。でも、これが「うさんくさい」なら、これを前提にした全ての「知識」と呼んでいたものは、一瞬で「ゴミ屑」と変わるわけだ。でも、いいよ。お前は、それで、大学教授の座に、いすわり続けられるんだろうけど、つまり、そういう意味では、これは

  • 大学教授になるための「テクニック」

になり下がるわけだよねw

ここ四十年間のなかで確立されてきた、現代の哲学者たちにとってイマヌエル・カント(Immanuel Kant)の地位とは、ちょうどアルジャーノン・スウィンバーン(Algernon Swinburne)にとっての海のようなものであった。すなわち、私たち皆のいにしえの大母(グレートマザー)とみなされるようになってきた。

志向性の規範的次元をめぐって基礎的プラグマティズムを支持する代表的論法は、後期ウィトゲンシュタインを通じてよく知られている[無限]後退の論法である。その論法に隠伏する規範という観念を前提している。というのも、規則を適用するということは、それ自体が、正しくなされたり誤ってなされたりすることの可能な何かだからである。さらにその規範的評価が、何か他の規則を適用するという事柄(これをウィトゲンシュタインは「解釈[Deutung]」と呼んだ)としてしか理解できないならば、私たちは実りのない後退を始めてしまう。これもまたカントがすでに了解していた論点であり、この点はカントの、概念を(判断に対する)規則とみなすという革新的な規範的解釈の本質的部分を成している。

悟性(understanding)一般が規則の能力とみなされるならば、判断力(judgement)とは規則の下に包摂する能力となるだろう。つまり判断力とは、あるものが、与えられた規則にあてはまる事例(cases datae legis)であるか否かを判断する能力なのである。一般論理学は判断力に対するいかなる規則も含まないし、含みえない。[...]こうした規則の下にどうやって包摂することになるのか、つまり、どうやって規則に当てはまるものとそうでないものを区別することになるのかということについて、一般論理学が一般的指針を教授しようとしたとしても、それはただ、また別の規則によって可能になることでしかない。この別の規則が今度は、まさにそれは規則であるのだから、再び、判断力に指針を要求することになるのだ。そしてそれゆえ、悟性は指針を教授されて規則を身につけることができるけれども、判断力は、実践的に運用されるということだけが可能で、教授されるということが不可能な特殊な能力であるように思われる。
(カント『純粋理性批判』)

まあ、そうなんだよね。上記の引用で、ウィトゲンシュタインが挙げられているけど、彼は間違いなく、カントを読んでたよね。そして、ウィトゲンシュタイン分析哲学の生みの親みたいな位置付けだけど、なぜか、分析哲学者はカントを読まない。
そもそも、分析哲学で言う「言語論的転回」って、まんま

  • カントのカテゴリー概念

そのものなわけじゃないw カントが人間の悟性という能力を「カテゴリー」と定義している時点で、もう「言語論的転回」が言っていることと同値なことをカントが言っている、とどこも違わないんだよね。

概念適用によって引き受けることになる責任とは、課題に対する責任(task responsibility)、すなわち、何かをするぞ、というコミットメントである。理論的に言えば、人がコミットしていること、つまり、人がどの程度それをうまくするのかに関して評価を受けるようになることとは、その人が[自分の]もろもろの判断を統合し、独自の種類の統一性、つまりは統覚の総合的帰結を引き出すことによって、動的に生成して維持される。統覚作用を果たすこと、つまり、特に知性を伴うとされる種類の意識を持つことは、言説的な(つまりは概念的な)意識を持つことである。というのも、どの判断が他のどの判断を導く理由になるのか、あるいはどの判断が他のどの判断に反対する理由になるのか、という関係によって構築される統一体へと諸判断を統合することにこそ、統覚は存しているからだ。そして、判断同士の間のそれらの合理的関係は、人が判断を下す際に自らを縛る規則によって、つまりは概念によって、決定される。それぞれの新しい経験エピソードは先行しているコミットメント集合体の変形を要求するのである。新たな両立不可能性が現れることもありえ、これについては、先にあったコミットメントを却下したり修正したりすることによって批判的に対応しなければならない。[判断が]組み合わさることで生じる新たな帰結が後に続くこともありえ、こうした帰結についても承認か却下かがなされなければならない。全体が体系的に進化・発展してゆくそのプロセスは、典型的に合理的なものである。

まあさ。別に、カントがどうとか、難しいことを言わなくてもいいよ。自分のことを振り返ってみればいい。だれだって、みんな

  • 頭の中を整理して

毎日を生きているよね。これはやってもいい。これはやっちゃだめ。そして、それをベースに、周囲の人と話し合って生きてきている。お互いに、相手が「いつもと違う」ことを言ったり、始めたら、「どうしたの? なんか変だよ」って、注意し合っている。そうしたら、誤解されたと思って、「これこれこういうことなんだ」って、誤解を解こうと思って、その理由を説明して、相手も「あー、そういうことなんだ」って納得する、っていうことを、

  • ずっと

続けてるんじゃない? それをカントは「統覚」って言ってるわけ。
つまり、これは「実践」なんだ。私たちが毎日、回りの人と、「穏健に」過せているのは、こういった

  • コミットメント

をやってるからだよね。つまり「これはやっちゃダメ」「これはやってもいい」といったことを、ずっと回りの人と「約束」して、あなたが

  • ずっと

それを「守っている」からなんだ。そして、これをカントは「義務」と言った。こういった私たちが日常的に行っている規範的な実践は、意識していようがしていまいが、そもそも私たちの、上記の引用にもあったような

  • 判断力

を決定的に定めている側面があるし、そもそもそうじゃなきゃ、私たちは日常を生きられない。そういった意味で、これをカントが、ある種の

  • 人間の定義

として提示したことは、人間の一つの側面として、無視できない意味があった、ということなのでしょう...。