木島泰三『自由意志の向こう側』

掲題の本は、次のカントの問題に「答える」という形で、一見すると、議論が始まっているように思われる。

たとえばカントは『実践理性批判』のある箇所で、カント独自の「超越的哲学」を採用しない限り、決定論と道徳的責任との間に深刻な対立が生じる、という指摘を行っている。たとえば誰かが盗みを働いたとして、その行為は決定論の観点からは、自然法則からの必然的な帰結だと見なされるが、道徳律はそこで「盗みをはたらくべきではなかった」と判定する。ここでは同じ人間が「ある時点でおなじ見地から見て不可避的な自然必然性のもとにあるのに、それとおなじ時点で、おなじ行為について見て、まったく自由である」という矛盾した主張がなされているように見える、とカントは指摘する(『実践理性批判』、カント二〇〇〇年、二六二頁)。「盗みをしてはならなかった」という道徳律は「盗みをしないこともありえた」ことを前提しているが、決定論にしたがえば「盗みをしないことは不可能だった」ことになるのである。

なるほど。この本は、この一見すると矛盾しているように思われる問題について、なんらかの「答え」を与えてくれるんだな、と思って読んでみると、なぜか、その答えがない。

それゆえ道徳的責任の問題は、本書の冒頭で見たカントの議論を筆頭に、自由意志論争の重要な争点となってきた。そして現代でもこの問題は、両立論者と非両立論者の間で盛んな論争の的になっている。

ウォーラーの問題提起は、このような(あえて言えば)進化の負の遺産、およびそれと共犯関係にあるリバタリアン的自由意志の思想が、応報主義に支えられた刑罰制度や、道徳的責任を中心に据えた道徳体系などの、僕らが日々それによって生きている制度的、実践的なレベルに浸透していることを示すものであり、またそこから、それらとどう折り合いをつけ、変えられるところを変えていけるのか、という問いかけへと進むものである。この問題について、たとえばデネットのような折り合いの付け方を選ぶにせよ、ウォーラーの道を支持するにせよ、それは「自然主義の軟着陸」と呼ぶべき重要な課題への取り組みと見なせる。

つまり、今もずっと、この議論は行われていて、決着はついていない。ついていないけど、

という方向性は見えてきた、ということが言いたいようだ。ん? つまり、何が言いたいんだ? そう思わないだろうか。つまり、この本は、なんのために書かれたのか。何か、この問題に新しい視点を与えたい、と思って行われたのか、と考えるわけであるが、それがない。つまり、おそらくは掲題の著者自身が

  • 何か

を「整理」したい、といったような、彼なりの「論点整理」を目指して行われた、ということなのだろう。さて、この本を読んだ人は、そういったこの本を読んで、どんなふうに「新しい知識を得た」といった感想を持つことになるのでしょうかね。
ただ、この本には、幾つかの掲題の著者の「解釈」が書かれている。これらを振り返ることによって、掲題の著者が何を読者に

  • 印象づけ

したいのかが分かる。

彼らに人気のある見方の一つは、ミクロな世界での非決定論的な過程は、僕らが生活する世界の法則がおおむね決定論的であるという事実にほとんど影響を及ばないはずだ、という主張である。

本書もまた、この宇宙で因果的決定論が成り立っているとしても、因果的決定論プラス「量子的サイコロ投げ」がこの宇宙の真のあり方なのだとしても、どちらであっても自由意志問題に対して重大な違いは生じない、という立場をとる。

つまり、掲題の著者は、スピノザのような「決定論」の立場、つまり、「自由意志の不存在」の立場を標榜しながら、ここでの

は、量子力学の「確率論」と矛盾しないものとして解釈してもいいんではないか、と主張する。つまり、こういった「偶然」があることを認めたとしても、それが

  • (近代科学が証明してきたような)「自然法則」のルールを外れることはないのだから、そういう意味での「あるルール」を<外れられない>

という「意味」で、これは

  • (私たちが通常考えている)「自由意志」と矛盾している

という解釈になっている。
うーん。素朴な疑問として、もしもそうなら、

  • 決定論という「言葉」を使うのをやめたら?

とは思わなくはないよね。だって、「決定」はしていない、と言っているのだから。確率がある、と言っているのだから、語義が矛盾してますよね。なんで、「決定論」という言葉を使うのを止めないんだろうw
ようするに、掲題の著者は、「自由意志なんて嘘に決まってるじゃん」と言いたいわけである。ただ、分析哲学界隈では、今も議論が続いているから、まあ、そこを決めつけるところまでは、この本ではやらない、というに過ぎない。
つまり、限りなく「自由意志なんてないんだ(藁」て言いたいんだけど、言えない。けど、「その気持ちは察して」という感じなのだw
なぜそう、はっきりと言えないのか? それは、上記の「カント問題」についての、こういった「決定論者」の説明が、あんまり「すっきり」する感じのものが、今のところ提供されていない、と掲題の著者自身も、

  • さすがに感じている

から、と。そこで、この本では、「思想史」的な方向からアプローチすることで、なんかブレークスルーできるかな、って試してみた、って感じなんだろうか。
なるほど。まず、上記の議論での一つ目の疑問は、いわゆるニュートン力学で言うところの

  • 三体問題

についてはなぜ検討しないのかな、ってところだろうか。つまり、ニュートン力学連立方程式

  • 特殊な場合しか

「解けない」わけで、答えが決定しない。つまり、

  • <私たち>は決定できない

わけだけど、掲題の著者にとっては、あまりそこは気にならない、ということのようだ(なぜだろうねw)。まあ、これと同じような疑問だけど、掲題の著者は、量子力学における「確率」が「私たちの日常生活」(つまり、マクロなスケール)には、大きな影響を与えない、という解釈にコミットメントしているわけだけれど、普通に考えて、いろいろ影響しているだろうな、とは思うよね。だって、物理学の基本の原理なのだから。こんな基本のところで、「確率」だと言っているんだから、私たちの「ほとんど」の事象で、この確率は、なんらかの影響は与えているよね。ただ、掲題の著者はそう考えない。その理由はよく分からないけど、つまりは、

  • その<影響>は「小さい」

から、

という<解釈>をしている、っぽいんだよね。でも、これがどういう意味のことなのか(つまり、この場合の「決定」は、なにをもって、そういったイメージの言葉をこういったものに使うのが正しいと思っているのか)の説明はない。まあ、なんとなくそう思っている、程度のことなのかな。まあ、文系の人っぽい、というのかw
まあ、ここまでの文脈を見てきても気付かれると思うけれど、掲題の著者は、これが「カント問題」なのだ、と言っておきながら、

  • なぜカントは「これでいい」と考えたのか?

の説明を行っていないんだよね。つまり、どういった理屈でカントが自分の立場を正当化したのか、という議論に入っていない。そこで、普通に素朴に思うよね。

  • 掲題の著者は、カントが間違っている、という立場に立たれている。そして、もしその立場が正しいのなら、たんにカントは「馬鹿」だった、ということになるよね。

しかし、もしカントは馬鹿だ、と言いたいなら、少なくとも、カントが何を言ったのかについてくらいは、ちゃんとトレースした方がいいじゃない。その上で、「こことこことここが駄目だから、カントは駄目なんです」って、議論をした方が説得的ですわな。
しかし、それはしない。
なるほど。だったら、それ以外に何を書いているのか、ってことになるよね。この本に書かれているのは、「カント以前の哲学者」の議論ということになる。

意志とは、同じ一つのことを、することが、あるいはしないことが(すなわち、肯定し、あるいは否定することが、追求し、あるいは忌避することが)われわれはできる、ということにのみ存するものである。あるいはむしろ、知性によってわれわれに提示されるものを肯定し、 あるいは否定するために、ないしは追求し、あるいは忌避するために、いかなる外的な力によっても決定されてはいないと感ずるような仕方でわれわれがみずからを赴かしゆく、ということによっても決定されてはいないお感ずるような仕方でわれわれがみずからを赴かしゆく、ということにのみ存するものである。(『省察』、「第四省察」、大西二〇一四年、三八〇-三八一頁、AT7,p.57)

上記はデカルト省察』からの引用であるが、なるほど、ここに来て、始めて、「自由意志」を掲題の著者が、どういったものだ、と「定義」しているのかを説明している個所が登場した、ということのようだが、ちょっと待ってほしい。ここで語られている「定義」らしきものは、

  • いわゆる「合理論」による説明

であって、そもそも何も言っていないのと変わらないw つまり、あなたが「合理論」の立場なら、これでいいのかもしれないけど、自分で「違う」って言ってるわけじゃない。だったら、こういったものじゃない、別の「定義」を提示する必要がある。
そして、おもしろいことに、この問題を示唆するかのようなことを、上記のデカルトの本では、上記の引用の個所の後で言っていて、しかも、その個所をさらに、掲題の著者は引用すらしているわけである。

実際、私が自由であるためには、二つの側のどちらにでも赴くことができる必要はない。むしろ反対に、真や善の根拠を明証的に私が知解[理解]するからであれ、あるいは神が私の思惟[思考]の奥深くを按配するからであれ、一方の側へより多く傾けばそれだけ、私はより自由にそちらの側を選択するのである。実に、神の恩寵も、自然的認識も、まったく自由を減少させることはなく、むしろ自由を増大させ、促進するのである。他方で、いかなる根拠も他方の側よりは一方の側へと私を駆りやることのまったくないときに私が経験するあの非決定[無関心]は、自由の最も低い段階であり、自由における完全性を立証するものでは何らなく、単に認識における欠陥を、ないしは何らかの否定を、証しているにすぎない。(『省察』、「第四省察」、大西二〇一四年、三八〇-三八一頁、AT7,p.57-58)

掲題の著者は「カントのパラドックス」から議論を始めた。だとするなら、まず、普通に考えて、

  • カントの議論にある「自由意志」の定義

が、この議論の混乱を起こしているんだろうな、と推測するわけであろう。つまり、正しい「自由意志」の定義を与えなければならない、って。
普通に考えるなら、ここで最初にやるべきなのは、「カントが自由意志をどう定義しているのか」であろう。しかし、掲題の著者は、そこにはコミットメントしない。では、彼は何をやっているのか、ということになるわけだけれど、それが、上記のデカルトからの引用の最初の方、ということになる。
しかし、これは定義ではない。というか、これは「合理論側が慣用的に使ってきた説明」であって、これを経験論側が定義として使うことはできない。
つまり、「同じ一つのこと」について、「する/しない、肯定する/否定する、求める/避けるといった選択」が可能だ、といった

  • 説明

  • 具体的に、対象の人間が「どういう状態」であることを言っているのか

について、何も定義していないわけである。
そして、このアポリアを示唆しているのが、上記のデカルトの次の引用の個所で、ここでは、

  • なんらかの要因によって、この方向の分岐には「確率の差」がある

といったことが語られる。
なんでこんな変なことになったんだろうね。
そもそも、経験論の側から、自然科学が行っている「帰納法」がどういったものだったのか、を振り返ってみたい。いや、これを洗練させた、ポパー反証可能性の議論を考えればいい。ある主張が反証されない、ということは、この主張に反する例が誰からも示されない、という状況になる。しかし、この場合、そこでの「主張」とは、トマス・クーンが科学革命論として語ったように、ある種の「例題問題」として提示されている。つまり、ある実験があって、この実験の

  • 手続き

を繰り返すという「実践」と、その主張は、そもそも切り離せない構造になっている。つまり、実質的にこの「実験」が、この主張の「定義」という役割をしている、ということなのだ。
自然科学で、ある実験をやって、ある結果になる。それを、他の誰かが行ってもそうなる。その他の誰か、たくさんの人がやっても、それに反する結果になった人がいない。こうしたとき、この「結果」に反する主張は、そもそも、合理論だろうとできない、ことは合意できるだろう。
そういう意味で、カントはこの自然科学を、合理論の中に、どのように位置づけたらいいか、について、かなり周到に議論をしている。
では問題は何か、ということになるけど、やはり、カントがどう考えたのか、を振り返らざるをえないんじゃないのか、と私は思うわけである。
カントの考えは、ある種の

  • ヴァーチャル・リアリティ論

になっている、と言っていいと思っている。つまり、私たちの生まれてから今までの全ての経験は、一種の「ヴァーチャル・リアリティ」として、頭の中で、

  • 構成

され、イメージされている。だから、そもそも、「自分の外」が<本当>はどうなっているのか、なんて、確実なことは言えない、ということになる。じゃあ、なんで私たちは生きていられるのか。それは、その「イメージ」が、せいぜい、私たちが「生き残る」ことを可能にするくらいには、

  • 有用

に進化してきたから、とまでしか言えない。つまり、ひたすら私たちの「実践」。日々、何をやってきたのか、と区別しては、この「イメージ」は存在しえない、という構造になっている。
なーんだ、変なの、と思うかもしれない。たんに、「イメージ」なら、なんで自然科学のような「ルール」が成立するなんてことが起きるんだ、と。そんな「偶然」が、ありうるわけがないんじゃないのか、と。しかしそれは、この「ヴァーチャル・リアリティ」が、どのように構成されているのかを、私たちは知ることはできないのだから、簡単に馬鹿馬鹿しい、と言うわけにはいかないんじゃないのか、とは考えられるだろう。この「ヴァーチャル・リアリティ」は常に外界からの刺激を吸収して、ヴァージョンアップをし続けているわけだけれど、そのメカニズムは、ある限定した範囲では、本人の日頃の行いによって変わりうるのかもしれないが、大きくはそういったものとは関係なしに再編され続けるわけで、いずれにしろ、よく分からないわけだ。
そう考えたとき、上記の「自由意志」というのがどうなっているのか、ということだけど、この「定義」は、そういった日々の「実践」から、私たちが<定義>してきたもの、以上の答えはない、ということなのだと思う。
ある人は、生まれてから、常に回りの人に育てられて生きている。そこで、その人は、ある行動を行い、それについて、回りの人に「自分はある行動を行った」と説明をし、すると、回りの人は、「あなたはその行動を行いましたね」と、それに

  • 同意

をしてくれる。回りは、あなたが、その行動を行ったということに同意をしてくれたのですから、もしも、その中の誰かが、「やっぱり、お前はその行動をやらなかった」と言ってきたら、「さっきお前たちは俺がその行動をした、って言ったじゃないか」と反論することができるし、実際にそうするわけであろう。
つまり、これが<定義>なわけであるw 実際に自由意志というものを

  • 内包的

に定義されていなくても、日常の実践においては困っていない。そうやって、自分の回りの人が、勝手に「お前は、ある行為をした」という主張にコミットメントしてくれるのだから、そういった一つ一つを

  • 外延的

に指示していったというだけで、何も困らないわけである。
ある日。私は、ある行動をした。それを回りの人は「お前は、その時、ある行動をした」と言ってくれている。回りの人が、私がその時、ある行動をした、ことにコミットメントしてくれていて、これがずっと変わらないのだとしたら、私が「私はあの時、その行動をした」と言った場合に、誰もそれに反論しない、ということになるだろう。さて、この場合、何が「自由意志」で、何がそうじゃない、なんていう(内包的な)定義が必要だろうか? だって、「回りが最初から認めてくれている」のだから、むしろ、「そうじゃない」と言うんだったら、その

  • 理由

を示さなければならないのは、回りの人の側なわけであろう。
ただし、その場合、一つだけ条件がある。それは、上記での議論でもあったように、これが

で「決定」されていない、ということが条件になる。つまり、そこになんらかの「確率」がある限り、上記の関係は成立しうる。
しかし、である。
最初にすでに述べたように、掲題の著者は、この「確率論」に同意をしているわけで、だとするなら、そもそも何が問題だったんだろう、とは、(まあ、カントの立場としては)思わなくはないんですけどね...。