「かわいい」の「記号」

アニメ「ニジガク」を見ていて、一つだけ私が気になったことがあった。それは、作品のあらゆるところで、

  • かわいい

という言葉が繰り返されることだ。もちろん、人々がそういった感情をもつことを私が批判しているわけではなく、そうやって「語る」ことが、何かを「固定」しようという意図を感じるわけで、不快なのだ。
ソクラテスは「善美については分からない」と言った。つまり、これを決定する公式はない、と彼は明言したわけだ。
対して、アニメ「ニジガク」は登場人物たちに繰り返し「かわいいという<言葉>」を製作者に言わされることで、製作者は、視聴者に「何がかわいいのか」について、ある

  • 訓練

を行っているように思われて、不快なのだ。
「かわいい」と思うことは、視聴者が決めることであって、製作者じゃない。
今は亡き小説家の中上健次は、「きれいときたないは、ある瞬間に反転する」と言った。まあ、同じようなことを語ってきた歴史の偉人はたくさんいるわけであるが、彼にとっては、それは被差別部落の問題と切り離せなかった。
ソクラテスが言いたかったのは、なにかが「状態」や「存在」としてあるのではない、ということなのだろう。つまり、そうではなく、「行為」や「実践」と、そもそも「善美」は切り離せないのだ。
「やんごとなき高貴な血筋」は、ある瞬間に反転して、社会の最底辺と繋がる。それは、「劣性遺伝」に関係している。

先天的な病気の場合、原因となる遺伝子を持っていても発症しない場合がある。いわゆる「キャリア(保因者)」である。このキャリア同士が交配すると、両方の親からそれぞれ病気の遺伝子を受け継いで発症する子供が1/4の確率で生まれる。
【“命の商品化”を考える vol.16】無秩序な繁殖による遺伝的疾患撲滅にも小さな光明か? | 動物のリアルを伝えるWebメディア「REANIMAL」

ある、やんごとなき人の輝かしさ。健康的な高貴さは、ある多くの

  • キャリア(劣性遺伝の保持)

と区別できない。どんな人も多くの、病気の原因となる「ヘテロ遺伝子」を内部に抱えていて、それが発現しないことと同値となる。つまり、そのことが含意している意味は、

  • その人の子ども

が、そういった「ヘテロ遺伝子」が「ホモ遺伝子」に変わって、表現型として発現するかどうかは、相手が自分と「同一」であるかどうかに関係している、ということになる。つまり、最も高貴な人の子どもが、遺伝性の病気にならない、最も安全な方法は、自分の遺伝子と、できるだけ「起源」の離れた人(つまり、自分たちとまったく関わりをもたなかった下層階級の人や、外国人と)とセックスをすればいい、ということになる。
ここに「パラドックス」がある。
犬や猫といった、人間に飼われるペットは、よく考えてみると「異常」だ。つまり、この犬は例えば

  • 柴犬

といったような<種類>で、ペットショップで売られている。しかし、考えてみてほしい。それって変じゃないか? なぜなら、そういった「種類」を超えて、そもそも、それぞれの犬は子どもを産めるのだから。つまり、そこで何が起きているのかを考える必要がある。ペットショップは、次の世代の子どもを作るのに、意図的に「同一の種類」で子どもを産ませようと画策する。つまり、こういった「種類」は、どこか

  • 恣意的

なのだw ときどき、道端で「雑種」の三毛猫を見かけたりするが、そういった猫が、どこか「美しい」のは、そういった人間の「ある種類を維持する」ことによって<消費>としての同一性や価値を生産しようとする、人間の悪意がそこに見通せるものから、かけ離れているものを見させられているから、と言えないだろうか。

愛らしい姿で人気のある猫の「スコティッシュフォールド」も、折れ曲がった耳は遺伝的な軟骨の形成異常に起因するもので、強い痛みや歩行困難などを伴う脚の軟骨形成不全に繋がりやすいことが分かっているが、繁殖は続けられている。
【“命の商品化”を考える vol.16】無秩序な繁殖による遺伝的疾患撲滅にも小さな光明か? | 動物のリアルを伝えるWebメディア「REANIMAL」

なにかを「かわいい」と思ったり、「美しい」と思ったりすることが間違っている、と言っているわけではない。そうではなく、なにかを「かわいい」と思わせようとしたり、「美しい」と思わせようとしている

  • 商人

が私たちの「感情」を陰で支配している、ということなのだ。それを「記号」と言う。しかし、ソクラテスに言わせれば、善美は「記号じゃない」と言っているわけだ。つまり、それは私たちの「行動」と区別できない形になっている。私たちは、そもそも、遺伝疾患をもった、将来、さまざまな病気に苦しむことが予想されるペットを育てたいと思っているのか? そうでないはずだとして、だとするなら、その「記号」が何を意味するのかは、私たちが主体的に

  • 介入

して「判断」されるものになるはずだ、ということを意味するわけで、きわめて「カント的」な話なのだ...。