新型コロナと安倍元首相

新型コロナのことを考えるとき、一つはっきりしていることは、今さかんに言われている「3密」などの、いわゆる

  • 行動変容

を専門家が国民に訴える「運動」に、必ずしも国民が従っていない、という現状がある。
もっと言えば、小池都知事がさかんに言っている「要請」という言葉が象徴しているように、ダメなら、法律で罰則を適用すればいいんじゃないのか、と誰でも思うわけだが、そうしない。それが、そのための法律がないからそうしていないのか、だったらなぜ法律を改正しようとしないのか、さまざまな謎があるわけだ。
つまり、

  • なにがしたいのか、さっぱり誰も分からない

という本質的な問題がずっと続いているわけである。
ここで、GoToトラベルを考えてみよう。温泉なりなんなりに旅行に行くということは、それなりの「目的」があって行くわけであろう。では、大衆にとっての「目的」とはなにかと言えば、一つはっきりしていることは

ということがあるに決まっているw つまり、それが「親睦を深める」ということであって、つまりは、お酒を一緒に飲んで朝まで、おしゃべりをする、ということである。もちろん、そこで、現地の、居酒屋のようなお店に一緒に行くのか、ホテルでまったりするのかは関係ない。どっちにしろ、そうすることで

  • 一緒に行く人との生涯に渡る絆を深める

という意味があるわけだから、関係ないのだ。しかし、そうだとすると、ここで分かるように、もう「お酒」を飲んでいるわけで、そうである限り

  • 声が大きくなる

ことを避けることはできないw しかし、新型コロナの主な感染源として「飛沫感染」が疑われているのだから、すでに、なにがしたかったのかが、さっぱり、誰にも分からない、という事態になっているw
GoToトラベルという政策を行う限り、「どんちゃん」は避けられないw これを避けるための唯一の方法は

  • ぼっち旅

しかないw まあ、一人旅、または、家族旅行ということになる。つまり、もしもそうなら、専門家会議は、はっきりと、そう言えばいいのにそう言わない。
言わないということは、大衆は「そういうことなんだな」と邪推するわけである。つまり、偉い人は一見、ダメって言っているように見えるけど、実際は、「(どんちゃんを)やっていい」と言っているんだな、と理解するわけである。
当たり前だが、お酒を飲んだ時点で、その人の理性的な行動を期待することは、ある程度、難しくなる。人によっては、どんな「はめを外す」行動だって予想されることが、あらかじめ分かっている「体質」の人がいることだって分かっている。つまり、「お酒を飲んでいいですよ」と言ったなら、そう言ったことの「責任」を、その専門家は引き受ける必要がある。
GoToトラベルを使って、集団で旅行に行きました。専門家が「お酒を飲んでいいですよ」と言ったから、みんなでお酒を飲みました。すると

  • 当たり前

ですけど、気が緩んで、みんなで「どんちゃん」をしてしまいましたw ところがです。実は専門家は、こう言っていたのです。

これが今の、専門家と呼ばれる人たちの、象牙の塔に閉じこもって半生を過してきた世間知らずな「お坊ちゃん」たちの「正体」だ、ということになるでしょうw あなた、「お酒を飲んでいい」と言いましたよね。みんなで飲めば、「どんちゃん」をやることになることぐらい、小学生だって知っているわけでしょう。
うーん。
これさ。さらに、GoToイートだったら、もっと直接的ですよねw なんで「ぼっち飯」か「家族での食事」に限定できないんだろうねw
(例えば、食事前に、「マスクを外す、食べたり飲んだりしている間は、会話をしません」と誓約書を書かせて、それに違反したら、店を出てもらう、くらいの対応をしたら、当たり前だけど、全部食べ終わる前に、追い出される人が続出してトラブルになるでしょうね。そもそも、飲み屋だったら、店にいる間、ずっとお酒を飲んでいるわけで、いつ、マスクをして会話をしたらいいんでしょうねw)
ここで、学校のような場所を考えてみましょう。ここでは、いったん、「マスク」の予防効果を無視する、としてみましょう。
(なぜなら、学校の先生がいない所では、子どもは必ず「マスクを外す」からです。だって、そうしたって、別に、警察につかまるわけではないですからw)
すると、まず、体育などのクラスを移動するとき、生徒たちは、「つるんで」、一緒に体育館に行く行為は

  • 禁止

となるでしょうw なぜなら、そうすれば、必ず「近距離でペチャクチャしゃべる」という行為が発生するから。それが「仲間」となっていくための、重要な行為であるにも関わらず、ということになります。つまり、学校にいる間、全員は、まるで

  • ぼっち

のように行動しなければならない、と言ってるわけですw クラスにいるのに誰とも話さない。今まで、毎日をそうやって過してきた、クラスでいじめられている「ぼっち」たちは、その日から、まるで

  • クラスの全員が「ぼっち」になった

かのように、みんなが、そいつと「同じ」ぼっちの行動をするようになるのをみることになる。
では、どうやって「会話」をしたらいいのでしょう? その一つの方法が

  • リモート出勤

ですw なにを言っているのか意味が分からない、と思うかもしれない。つまり、みんな、学校に登校して、クラスに全員がそろっているのに、みんなが

  • ケータイの画面に向かって「会話」をしている

という事態を意味しますw ズームやチームズなどを使い、すぐ隣りに座っている友達と「話す」のにも、そっちを向いてはいけない、あくまでも

  • ケータイの画面に向かって「話しかける」

ということをしなければならない、ということです。これは、ある意味で、未来の

  • ヴァーチャル・リアリティ論

が論じてきた事態と非常に似ています。私たちは、地球上のどこにいても、「そこ」を見ていない。「そこ」を見るのではなく、「そこ」にいるときに、コンピュータが私に見せようとする「ヴァーチャルなイメージかつ情報」を見ている。なぜ「そこ」を見ないで、コンピュータが見せようとする「ヴァーチャルなイメージかつ情報」を見ているのかというと、そっちの方が

  • 生き残るために有益な情報

だから、ということになる。
そうすると、つまりは何が起きているのでしょう? まず、私たちの「視力」は不要になります。なぜなら、そんなものがなくても、コンピュータが私たちに「必要」な情報を、ヴァーチャル・リアリティとして見せてくれるから。当然、

  • 声を発する

ことも必要なくなり

  • 退化

しますw 声を発することは、ウイルスを隣にいる人にうつす行為なのであり、「やってはいけない」こと、非倫理的な行為となるわけで、誰も、話をしなくなるわけです。誰かになにかを伝えたい、という需要は、全て、「ヴァーチャル・リアリティ」がその

  • 代替

を用意することになります。
こう考えてみましょう。今回の新型コロナの騒動は、日本の今までのアニメが描いてきた事態だと言えるでしょう。例えば、エヴァンゲリオンの「使徒」は、結局、最後まで、今にいたるまで、何者なのか、さっぱり分かりません。同じことは、ストパンネウロイ、ゆゆゆのヴァーテックス、とじみこのノロと、挙げていったらきりがありません。
なんらかの、人間以外の、地球に現れた

  • 人間の敵

と「戦っている」という状況は、何度も何度も繰り返されてきました。しかし、考えてもみてください。今の日本の状況は、次々と

  • 新型コロナは風邪
  • 新型コロアはインフルエンザと比べて、たいしたことがない

と言う人たちが現れて、

  • みんな「戦う」ことを「拒否」している

状況なわけです。彼らがなんと言っているか。「自分が死ななきゃ、誰が死んだって関係ない」「自分には、憲法で保証された<自由>があるんだから、それを縛られたくない。自由に、毎日を、享楽の限りを尽したい」
ようするに、彼らが言いたいのは、

  • 今の日本の法律には「徴兵制」はないんだから、自分は新型コロナと「戦わなくてもいい」権利がある

というわけですw それが、自分の「権利」なんだ。むしろ、自分は、新型コロナの「味方」をして、無症状感染で、周りの人に、新型コロナを「ばらまいて」、

  • 大量の人を殺す権利がある

と言っているわけです。自分には、新型コロナの「味方」をする権利がある。彼らの味方をすることで、日本人を大量に殺して、この「戦争」に日本が「負ける」ように振る舞う

  • スパイになる「権利」がある

と言っているわけですw もともと奴らは「エリート」です。大衆をゴミ屑としか思ったことがないわけです。日頃から、大衆にバカにされてきた「復讐」を果す、これ、いい機会だと、大量の日本人を「殺せる」まさに

  • 愉快犯

として「喜悦」にひたっているのでしょう。しかし、大衆は似たようなことを思っているのではないでしょうか? つまり、大衆は「政府」を信じていません。どうせ、政府は嘘を言っている。彼らは国民を守るつもりがない。この新型コロナ騒動を利用して、大量の老人を

  • 虐殺

することで、「福祉にかかるお金」を節約することができる、「コスパ最強」の政策だ、くらいにしか思っていないんじゃないのか、と(まあ似たような政策が、スウェーデンで起きた、モルヒネ虐殺については、改めて言う必要はないでしょう)。つまり、誰も政府の言っていることを、リスペクトしていないわけです。
政府は日頃から、邪魔な国民を一掃したいと考えてきた。まさに、その千載一遇の「チャンス」だ、と。つまりこれは、実は

  • 政府 vs 国民の「戦争」

だった、というオチです。
ここで考えてみましょう。なぜ、専門家会議や、それを引き継いだ、分科会を含めて、政府は

しかしないのでしょう? それは、そもそも政府が「国民を助けたいと思っていない」ということを意味している可能性はないでしょうか?
つまり、ここで最終的に、辿り着く結論があるわけです。

  • 政府は信用できるのか?

政府の言うことを、信用していいのでしょうか? 一つだけはっきりしていることは、もしその政府の言うことが「矛盾」しているなら、絶対に信用してはいけない、ということです。「矛盾」している限り、それに「従う」ということが、何をすることなのかは決定しません。つまり、なにをやっても、その結果起きたことに対して政府は

  • 国民が悪い

と言うための「準備」をしている、ということを意味します。つまり、それに「従う」という行為自体が、「罠(わな)」となっているわけです。
本当に政府の言うことを信じていいのでしょうか? 信じると私たちは救われるのでしょうか? 私たちは少なくとも

  • 政府の人たちは「正直」に語っている

と思いたいのではないでしょうか? 人間なんだから、誰だって「間違い」はある。でも、少なくとも、その人は正直に、真摯に私と向きあって、自分のために語ってくれたなら、たとえ、結果として満足するものにならなかったとしても、感謝はできるのではないか。自分の人生に満足して、納得はできるのではないか。
ところが、です。
これは、絶対に無理なのです。
なぜでしょう? それは、この前の「桜を見る会」の問題での、安倍前総理の、国会での答弁を見れば明らかでしょう。
自民党とは、「こういう人たち」なのです。ずっと嘘を言い続ける。自分が政治家でい続けるためには、どんな卑怯な、人としてやってはいけない行為でさえ、恥も知らずにやることができる。安倍前総理が自民党の政治家でいる限り

  • 絶対に

自民党を「信用」してはいけません。まあ、こんなことは私が言わなくても、大衆のだれもが分かっていて、どんな親も子どもに向かって、「絶対に安倍前総理のような人間になっちゃダメだよ」と説教をしているんでしょうがね...。