ガンダムについての幾つかの考察

ここのところ、機動戦士ガンダムについての、メディア展開が活発化しているような印象がある。
まず、安彦先生によるオリジンのアニメ化は、ひとまず、一区切りがついたと言えるだろう。そして、ゼータガンダムの映画化が2005年、2006年に放映されている。そして、今年は「閃光のハサウェイ」のアニメ映画化が、公開となる。
こういうふうに言うと、いや、ずっとガンダムのアニメは放映されてきたじゃないか、と怒られそうだが、まずは、

の延長で、この一連の作品を考えたとき、どうしても以下の連続の下で考えざるをえない側面があると思うわけである。

結局、いろいろあるのだろうけど、一つの視点として、ファーストの最後で、ホワイトベースの、主要なキャラが、ほぼ全員、「生き残る」場面が描かれたため、視聴者の間に、その「落とし前」が着けられなければならないんじゃないのか、といった感覚が強く残ったのだと思うわけである。
それが、ここまで、この一連の「ガンダム」と名のつくコンテンツにファンがついてきてくれた一つの理由だったと思うわけだが(そうでなかったら、なんで「あそこ」で、みんなを生き残らせたのかってなるよねw)、上記を見ると、あまりそういった方向で、視聴者が満足するような歴史的な結果にはなっていない、というのが正直な感想だ。
上記を眺めて、まず最初に言及しなければならないのが、

の、制作サイドの犯罪的なまでの、作品破壊だろう(特に、前半)。これについては、見てもらえば誰でも分かると思うので、今さらこれ以上は言わないが、なによりもこの作品を

  • なかったことにする

ということが、重要に思える(リメイクというのもありなんだろうけど、全てが、あまりにも見るに耐えられないので、いっそのこと、なかったことにした方が健康上、いいんじゃないでしょうかw)。
ここで、そもそも、このガンダムシリーズという未来社会の年代記(サーガ)が、どこまで論理的なのか、ということから総括していこう。
そもそも、このガンダムシリーズは、一言で「戦争」と言っておきながら、それを定義していない。つまりそれは、

  • 自明

な何か、として表象されている。ではそれは何かというと、言うまでもなく

だ。監督の世代が、戦後第一世代として、WW2を意識せざるをえなかったことは分かるとして、それゆえに、「未来」を舞台としていながら、その「意匠」がWW2のまま、ということが最大の問題となっている。
考えてみよう。WW2以降、この地球上において、「大きな規模」の戦争と呼ばれるような事象が

  • 一度も起きていない

ことを。なぜなのか? その一つの理由は「核爆弾」である。つまり、これ以降、戦争とは「人類の絶滅」と区別がつかなくなったため、これをロマンティックに語る言説が、必然的に一掃されたわけである。
次に大きな理由はなにかと考えると、そもそも、ガンダムを見ていて、違和感を覚えないだろうか? まず、「ニュータイプ」と呼ばれる概念がある。しかし、よく考えてみると、そもそもこれが、なんだと言うのか、というのは分からなくなってくる。
もちろん、「エスパー」と言ってしまえば、「ああ、そういうことね」ということで話は終わるのだが、そうではないわけである。

  • 具体的に、どういう能力なのか、の曖昧性
  • そうだとして、それがどれほどのものなのか、の意味性&価値性

たとえ前者について、一人一人にい納得のいく感覚があったとしても、後者は深刻だ。今の私たちの生活を考えてみればいい。ニュータイプがやっていることの「ほとんど」は、

  • ケータイ電話

があれば、「可能」だ。このことは、改めて言われると、衝撃的に思われる。いや、当時はケータイなんてなかったんだから、と言う人もいるかもしれないが、当たり前だけど

  • 無線通信

の技術は、WW2にだってあったわけで、言い訳になっていない。実は、アニメのあらゆる場面で何度も、この言葉が出てくるのだが、つまり

は、この困難を回避するために用意されたものだった、という話がある(でも、ホワイトベースガンダムは、命令を伝えるために「通信」しているわけだけどねw)。
次に、どうしても考えなければならないのが、モビルスーツだ。これが、

  • 戦闘機
  • 戦車
  • 人間魚雷(回天)

のアナロジーであることは言うまでもないだろう。しかし、そもそも、戦闘機も戦車も、対戦闘機戦用、対戦車戦用として作られたものではない。対軍艦攻撃用、対基地攻撃用として性能を発揮するわけで、それゆえに、必ずガンダムシリーズでは、

  • 大型戦艦

が、必ず登場し、必ず、モビルスーツによって「打ち落とされる」場面が、センセーショナルに描かれる(まったく、反省してなんらかの対策や改良することもなくw)。
しかしこれが、

として描かれるとき、どう見ても、私たちには、

のイメージが強くなる。つまり、これは

なんじゃないのか、と。なぜそうなのか、というと、これも最も分かりやすい例が、

  • ドローン

だ。そもそも、

  • なぜ人間が乗らなければならないのか?

が、まったく意味不明なのだ。遠隔で操作すればいい。もっと言えば、そもそも、戦うのはAIでいい。
こうやって考えてくると、なぜWW2以降に、大規模な戦争というものがなくなったのかと、なぜガンダムシリーズが、どうしても、

  • 自殺アニメ

なんじゃないのか、といったイメージとが深く繋がっていることが分かるのではないか。
とにかく、モビルスーツに乗ることは、どこか

  • 棺桶に入る=自殺をする

という行為と区別ができない、強い「自殺」喚起を伴うものに思われることが避けられない構造になっている。
この延長から見えてくるものに、例えば、ゼータガンダムにおいて顕著であったのが、ほとんど

  • 社内恋愛

と変わらないまでの、男女の「カップル誕生」が絶えず行われている光景が顕著に見られる。まず、ニュータイプは、

  • 子ども(次の世代)
  • この才能には、男女の区別がない

という関係から、必然的に、モビルスーツ乗りは、「平均年齢の著しい低下(幼女化)」「男女が均等」という形になり、しかもそれぞれが、戦艦という閉じたスペースで寝食を共にすることで、必然的に「社内恋愛」的な関係になっていく。
上記からの延長で分かるように、モビルスーツが「操縦者の<才能>」に、極端に相関させたことで、言ってみれば、企業内の社員内での、出世競争のような、妙な

  • 才能主義

の様相を示し、それに呼応する形で、才能のある男女がお互いの、その「魅力」に魅かれる形で、くっついていき、他方において、その恋愛は、

  • 自殺

という形で成就しない、という構造になっている。
さて。上記のような構造的な問題の他に、どうしても言っておかなければならない問題がある。それが、シャアの「動機」の問題である。
シャアの問題は、そもそも、ガンダム・オリジンにおいて、始めて、はっきりとした全貌が描かれた、と言っていいんだと思うわけである。そう考えると、明らかに、シャアの行動の動機は

  • ザビ家への復讐

にあった。というか、そうでなければ、ファースト・ガンダムは、その整合性を欠くことになる。しかし、そうだと考えると、それ以降のシャアの行動は、あまり説得力を感じない描かれ方をしていくことになる。
特に、逆襲のシャアでの、地球人が地球にいつまでもい続けることを非難する態度は、

  • なんで、そんなことに彼が、そこまで(実存的に)怒っているのか?

の動機が説明がつかないわけである。
ここから、多くの考察が今までされてきた。シャアは、たんに「モビルスーツ」での戦闘がやりたいだけ、なんじゃないか、とか。逆襲のシャアは、最後に、アムロとのモビルスーツでの戦闘をやりたい「ためだけ」に意図されたんじゃないのか、といったように。
いずれにしろ、残念なのは、こういった細かいディテールに、制作サイドがまったく本気で取り組んでこなかった、ということなんだと思う。
上記までを総括すれば、オリジンとファーストだけが、とりあえず、

  • まともに見れる

作品になっている、と言えるが、あとは、ちょっと作品として、まともに見れるものじゃない。あまりに、幼稚な登場人物たちの行動、つじつまの合わないストーリー展開。もちろん、そういった欠点は、「子ども向けアニメ」においては、常道だった、ということを分かった上で、見るに耐えない、と言っているわけである。
(ただ、いろいろと不満はあるけれど、ゼータガンダムの、カミーユは、一貫して

  • 戦争に反対

していた態度という意味では、WW2以降の現代に通じるテーマが描かれていたんじゃないのか、といった印象はある。カミーユは最後まで、戦争相手が死ぬことさえ悲しみ、反対していた、という印象がある。なので、彼の、この要素をどこまで残せるのかな、といった興味はある。)
対して、ガンダム・オリジンは(漫画版での、ファーストまでを含んだものとして)、安彦先生の遺言のような作品で、なんとかして、作品世界を、後世に引き継いでいけるような

  • 最低限の基盤

を残そう、といった意図が感じられる作品だった。あとは、それ以降の世代が、どこまでこの年代記の「再構成」を、そういった意図で、整合的な

  • リメイク

を、あと何世代かけて、行うのかが問われているのだろう。
私の考えでは、そもそも、富野監督が残された、ストーリーとしてのガンダムは、アニメシリーズのファースト・ガンダムのみが、唯一、尊重されるべき、という立場で、それ以外については、それ以外の作家たちによるガンダム作品と

  • 同列

において、扱われるべき、と思っている。当たり前だが、富野監督も今は、ご高齢で、いずれ亡くなるわけで、そう考えるなら、後の世代が取り組むべきは、富野先生の「意図」がどうかではなく、

としての、この世界観を完成させることだ、と思うわけである。だとするなら、ゼータ、ダブルゼータ逆襲のシャアは、いったん、今の作品を根源的に「忘れて」、改めて、作り直すべき、と思うわけである。
大事なことは、これらの作品が「まともに見られる」のかどうか、ということであり、作品の構成を、根本的に、納得感のある「全体」として、サーガとして、提供する、ということであろう。
そのことは、当時より今の方が分かりやすい状況にある、と言える。それは、富野監督以外の多くの人々が、ガンダムコンテンツを、まさに

  • 二次創作

のような形で、パラレルワールドとして制作することが「当然」であり「日常」となったわけだから、もはやこの段階で、いつまでの「富野監督の意図の尊重」みたいなことをやっている限り、絶対に、この作品世界が、ファンにとって

  • 納得

のあるものとして提供されることはない。制作サイドは、いいかげん、富野監督を「乗り越える」覚悟が求められているのだろう...。