徳倫理学についてのいくつか

日本の学問と呼ばれているものは、そもそも「西洋」からの「輸入」であり、それを誰も疑っていない。
そして、その輸入品である、「倫理学」なるものは、功利主義、(カント的)義務論、と簡単に分類されたりする。
ちなみに、杉本俊介先生はバーナード・ウィリアムズによる、「倫理と道徳という言葉の区別」について紹介している。

2 イギリスの倫理学者バーナード・ウィリアムズは、道徳(morality)と倫理(ethics)を区別して、道徳を近代に固有の偏った倫理的システムだと批判します(両者の区別について詳しくは、こちら(英語))。日本のメディアなどでも道徳と倫理を区別して使っているように思います。 規範倫理学入門 - 杉本俊介/Shunsuke SUGIMOTO

ここで、バーナード・ウィリアムズが言っていることは(上のリンクに遷移して、chrome かなんかで、日本語翻訳すれば、それなりに読める)ようするに、昔は「倫理」だったが(つまり、徳倫理)、最近は「道徳」になった、ということ。その意味は、昔は

が問題にされていたけど、現代の倫理学分析哲学界隈が言う倫理学のこと)では、

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

のことを倫理学と呼ぶようになっている、という分類となっている。ただし、この二つは深く関連していることがやっかいなんだが、と。
つまり、どんなに昔の倫理が徳を問題にしたと言っても、それと、

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

が、まったく関係ないとも言えないから、という説明になっている。ようするに、現代の倫理学は、だったら、後者「だけ」を考えればいいじゃないか、と前者を後者に

  • 還元

することによって「シンプル」にした、と言いたいわけである(そして、それが合理的なんだ、と)。
しかし、そうなのだろうか?
ここで、道徳の起源なり、倫理の起源なりを考えてみよう。
まず、太古の村共同体において、何が大事だっただろう? 子どもとは、どういう存在か? 一言で言えば「圧倒的に非力な存在」である。親が養育を止めたら、その時点で死ぬ存在である。完全に親に生殺与奪を握られている。子どもは、親に見捨てられないためなら、どんな小さな変化も見逃さない。そこまでしなければ生きていけない。
その上で、逆に親にとって、最も重要なことは

  • 親が子どもに「殺されない」

ことだったんじゃないだろうか? なぜなら、もし親が子どもに「間違ったマインドコントロール」をすると、子どもはそれを「親である私を、お願いだから殺して」というメッセージと間違えて、殺してしまう可能性が十分に考えられるから。
そこで、なによりも求められたのが、

  • 人を殺すな

だったのだろう。というのも、もしもこれを

  • 親を殺すな

にすると、なんらかの「勘違い」によって、他人と親を「間違える」リスクが避けられないからだ。
道徳の起源、倫理の起源とは何か?
それは、

  • 相手と長時間、一緒にいられるか?

に関係している。それが、村共同体を作る上で、最も大事なことだった。考えてみよう。どんな人だったら、あなたは「その人」と、長い間、一緒にいられるか、と。
まず、はっきり言えることは、

  • 私を殺そうとしている人

と一緒にはいられないだろう。そもそも、死んだら、一緒に「いない」わけだからw
次が、

  • 私を殺す可能性のある人

だが、さて。どんな人だろう? 言うまでもない。

  • 道徳や倫理を「破ってもいい」と<言っている>人

ということになる。まあ、永井均とか、ああいった連中ということになるのだろうかw
ここまで書いてきて、一部の人は不満に思うようである。というのは、倫理「学」とは、

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

を「見つける」ことじゃなかったのか、と。上記は、たんに起源の話でしかなく、なぜ「今の私たちが<それ>に従わなければならないのか」を説明していない、と。
しかし、これも、そういった起源の観点から考えられるだろう。そもそも、太古の村共同体は、その村の中の人にとっては

  • 今の「世界」と変わらなかった

わけだ。たまに、「外の人」が村に入ってきて定住することはあっても、ほとんどの人は、その村にずっといて、外部の村と接触をしない。そして、そうやって「外の人」が入ってきても、彼らはその村の言葉が話せないわけで、つまりは彼らは、ある意味での

  • 赤ん坊

として、その村では扱われるところから始まって、普通の赤ん坊と「同じ」ように、成人の儀式を通して、この村の大人の仲間に迎えられる。
つまり、ここにおいては、そもそも村の「外」というのは、存在しない、というのと変わらないのだ。
だとするなら、この村で話されていた、道徳や倫理は、そもそも、現代で言うところの「普遍的」という概念と区別できないのではないか。
現代における、「グローバル」だとか「普遍的」という言葉は、そもそも最初から、

  • 言語の翻訳

を前提にている。翻訳が「可能」であるという前提で、だから、

  • だれでも外国人と「会話」が成立する

という、一種の「比喩=アナロジー」を使って、その「グローバル」だとか「普遍的」という言葉は使われている。つまり、ここにおいては、その「会話」が、そもそも成功しているのかどうかに、興味がないのだ。
まあ、考えてみれば、そうだろう。
あるキリスト教の信者のコミュニティがあったとしよう。その村の中で、人々は産まれてから死ぬまで、さまざまな、神を媒介とした会話を続ける。もちろんこれは、私たちが今考えている「科学」においては、ナンセンスなのだろう。しかし、少なくとも、その村の中では、そういった会話が「存在する」がゆえに成立している、さまざまな

  • 社会の構造

が、その社会の、ある一定の安定なり、意味を成立させているわけだ。
これが、カントが一貫して擁護し続けた「合理論」の立場だ。合理論とは「不可知論」と同値である。カントがなぜ、哲学と宗教を「分離」したのかは、そこにあるわけで、そもそも、宗教共同体内の、さまざまなジャーゴンは、その共同体の中の人にしか関係ないし、外の人には

  • 分からない

のが前提なのだ。だから、当たり前だけど、そのコミュニティの中で、勝手にどんどん、その言葉の「意味」は変わっているし、それを、そのコミュニティの中の人は、少しも不思議に思わない。
これに対して、ピーター・シンガーの『実践の倫理』のまず最初に書いてることが、

という「戦闘宣言」だw ピーター・シンガーにとって、キリスト教の信者は、それだけで「敵認定」なわけで、彼は

  • 「現代倫理学という」新しい宗教

を作ることを野望する、新しいタイプの活動家なのだろう。
しかし、カントの本を読めば分かるように、おそらくカントは、一度として自分が、キリスト教を「批判」している、と思ったことはないんじゃないか?
そして、これとまったく同じ構造をしているのが、「徳倫理学」についてだ。

倫理学は一見するとカントの主張と整合的でありません。徳倫理学が現代に復活した背景には、カントに代表される近代道徳哲学に対するアンスコムやマッキンタイア(あるいはウィリアムズ)からの批判があったことを思い出してみてください。
しかし、こうしたカント理解は『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』)ばかりに目を向けてきたせいだ、とカント研究者に反論されています。たとえば『道徳形而上学』の「徳論の形而上学的定礎」(以下「徳論」)を読めば、カントが徳(Tugend, virtus)や徳義務(Tugendpflichten)について論じていることに気づきます。そこで、カント主義的な徳倫理学
組み立てられないか検討してみたという研究もあります。
めくるめく倫理学の世界にようこそ - 杉本俊介/Shunsuke SUGIMOTO

つまり、どういうことか? カントと言えば有名な、三批判書であり、その一つの『実践理性批判』がカントと「倫理学」の主著と考えられている。そこから、その前身として書かれた、『道徳形而上学の基礎づけ』が『実践理性批判』につながる、一連の考察として重要視される。ところが晩年、カントは『人倫の形而上学』という本を書いている。そして、この本は

  • 第一部・法論
  • 第二部・徳論

に分かれている。ん? どういうこと? そう。カントは、そもそも

  • 最初から

自分がやっていることが、「徳論じゃないなんて一度も考えたことがなかった」のだ! ていうか、当たり前なのである。なぜなら、それが「合理論」だからだ。カントは、自分がやっていることが、太古から続く哲学と、なにか違うことをやっていると、一度も考えたことがない。自分も、アリストテレスの徳倫理で考えているし、ストア派の倫理で考えているし、そもそもそれらが違うことだなんて、少しも考えていないのだ。
徳倫理とはなんだろう?
私はこう考えてみればいいんじゃないか、と思っている。上で、現代の倫理学

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

と書いたわけだが、徳倫理はそもそも

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

と考えない。なぜなら、その人が「ある行為」をしたことには、必ず「理由」があるからだ。そうである限り、

  • なにをしてもよく、なにをしてはならないのか(の箇条書き)

と言えない。そうじゃなく、

  • どういう人間でなければならないかを常に考えている

人が、その「どういう人間」の個所に関連して、「徳のある人」と呼ばれる、というだけなのだ。よって、なんらかの

  • 行為

によって、その人の「徳」は一意には決定しない。その点は、上記の

  • 相手と長時間、一緒にいられるか?

と関連してくる。そもそも私たちは、「徳のある人」としか、長時間、一緒にいられないのだ。なぜなら、怖くて、そんな人の近くには長くいられないから。
だから、これは「行為」じゃない。逆説的に言えば、ある困ったことをしても、次の日からは気をつけて、がんばって直そうと「してくれている」ことこそが、まさに「徳」に関係しているとも言えるわけで、どこか、どこまでもメタな視点にさかのぼっていく傾向が、徳倫理にはある。
そして、私が一つ注意をしたいことがあって、それはアリストテレス徳倫理についてだ。西洋の徳倫理は、アリストテレス徳倫理に還元される傾向があるが、そもそも、アリストテレス

人である。そんな彼が「徳があった」わけがないw 実際、彼の言っている徳は、

  • エリート(文化資本のある富裕層に産まれた御坊ちゃん)

のことを言っているに過ぎない。日本で言えば、東大に入った男子校連中のことだ。
ところが、中国の孔子は、こういった連中に真っ向から反対している。

  • 「巧言令色(言葉を巧みに飾り、顔色をとり作ったりするような)な人に仁はない」(学而)

仁 - Wikipedia

  • 「剛(私心なく無欲)毅(意思強く思い切りがよい)木(ありのままで飾り気なく)訥(とつ・口下手)は仁に近い」(子路

仁 - Wikipedia

孔子は、舌先三寸で、大学入試を勝ち抜いた、エリート男子校出身者のような連中を、そもそも「仁者」と認めていない。孔子の考える仁は、なんとも不器用で、控え目で、普段はあまりぱっとしない、陰で人気者を支えているような

  • 人のいい

方々をリスペクトをもって、「徳がある」と言うわけである...。

後記:
じゃあ、なぜ孔子はそう言ったのか
について、書かなかったんだけど、まあ、普通に考えて、そういう人が社会でリスペクトされない共同体は、すぐに滅びそうってことだよね。そこも、合理論。カントの嘘問題もそうで、嘘を言っていい場合がある、って言っても、そう言ってる学者が、その嘘を信じさせられたお陰で、今までの自分の研究がすべて無意味だったとわかれば「怒り」ますよね。しかも、カントは嘘を言ってはならないという格率は、その人の内面の問題だ、って言ってるんですね。なぜなら、他の人からは分からないから。サイコパスじゃないけど、普通にかんがえて、嘘を言って、なんの良心の痛みも感じなかったら、どこかその人は変でしょう…。