江戸初期に活躍した、伊藤仁斎は、中学や高校の倫理の時間で知っている、というくらいの人には
- なぜ伊藤仁斎が、日本において「決定的」に重要なのか?
について分からないかもしれない。
ただ、教科書的な知識でも、仁斎が、中国で一世を風靡していた
に対して、『論語』読解を通して、古義学を始めた、ということは知っているだろう。
ここにおいて、何が重要かというと、早い話が朱子学というのは、
- 中国の「エリート」が「優遇」されるように「作られた」学問
であって、つまりは、
- 御用学者
だった、ということなのだ。彼ら朱子学者たちは、当時の科挙の試験を運営したりしていたわけであるが、ようするに、
ということだ。ただし、ここで「勢力」と言ったけれど、彼らはそもそも「国家」によって、
として「正統化」されていたわけだから、実質、当時の「アカデミズム」においては
- 真実
と変わらないような扱いだった、ということなのだ。
それに対して、仁斎がなにをやったのかというと、簡単で、
- たんに『論語』を「読んだ」
というわけだ。そう。仁斎は、論語を読んだ。まさに
- 素直
に読んだ。そうすると気づくわけである。いかに、「朱子学」が、「御用学者」の「インチキ」論議であることを。
だって、そうである。朱子学は、そもそも、
- 当時の権力者の権力が「正当=正統」である
と言うために、国家によって「飼われて」いた連中なのだからw
こういった視点で、現代においても、仁斎の書いた本を読むと、この『論語』に書いてある「孔子」の思想は、徹底的に
- 優しい
わけだよね。まあ、はるか太古の中国の方ですから。当時の人たちは、今に比べれば、ずっと「素朴」だったのでしょうし、そういった中でも、その時代から、回りから尊敬されていたわけですから、当たり前なんでしょうが。
そして、仁斎も「優しい」。これが
- 仁(じん)
なんだよね。
ここまで書いてきて、気付かないだろうか?
まったく「同じ」ことが、現代においても起きているよね。その典型的な例が、私は「倫理学」だと思っている。
現代の倫理学は、完全に功利主義の「一人勝ち」である。とにかく、倫理学の学会の論文は、(つまり、分析哲学系のそれは)どれも、功利主義が
- 正しい
と主張している(つまり、私はこの「学問の流行」が、伊藤仁斎の朱子学批判との相関で、「うさんくさい」と言っているわけである)。そして、その中でも、代表的な論者が、ピーター・シンガーだ。
彼の主張は、
- 動物に(人間と同じ)「権利」を与えるべき
- 障害者や胎児など「殺していい」人間が「存在する」
- 地球の裏側のアフリカの貧しい人に、「地球上の全ての人」は「寄付(年間収入の何割か)」しなければならない
といった、かなり具体的な内容だ。
しかし、である。
私が素朴に違和感をおぼえるのは、こういった主張が、どこまで「自明」なのか、にある。
つまり、そもそもこの「命題」の
- 選び方自体
に、どこかしら「エリート」の大衆支配の臭いをかぐわけである。これを、それぞれに対応させて、簡単に説明するなら:
- 動物にしろ、外国人にしろ、赤ん坊にしろ、こういった対象は、社会のシステムに対して「権利を勝ち取る」存在ではない。そうではなく、古典的な扱いとしては、むしろ社会の側が「保護」してきた、という関係にある(もちろん、それが十分だったのかには議論があるわけだが)。だとするなら、問題は近代において、(それを「権利」に変えなければならない)何が変わったのか、を論証しなければならない。
- もしも「殺していい」人間がいるなら、カントの「人間性の尊厳」と対立する。実際、ピーター・シンガーは自著でカントをボロクソに馬鹿にしている。しかし、そもそもピーター・シンガーがなぜこんなことを言っているのかといえば、ようするに「近代科学(医学)からの要請」に答えた、といった側面が大きいわけであろう。つまり、動機が疑わしい。
- 私たちは、そもそも地球の裏側で誰が、どんな生活をしているのかを知らない。もちろん、なんかのテレビ番組でも見れば、多少の知識はつくのかもしれないが、別にその土地に住んだわけでもないわけで、どういった生活環境なのかの理解が十分になるわけがない。しかも、当たり前だが先進国の国民の多くが「相対的貧困」にある。だとするなら、なぜシンガーは「金持ちからお金をむしりとれ」と言わないで、「全員が一定額を寄付しなければならない」と言うのか。その合理性が疑わしい。そもそも、現代の国家は例えば、国連を通じてなりで、貧しい国家に経済援助をしているわけで、なぜこっち側が十分なのかの議論をしないのかの理由が分からない。
ようするにどういうことかというと、ピーター・シンガーが「選んで」くる命題は、どこか
の臭いがするわけである。先進国の「大学教授」とは、そもそも
- エリート
であり、
- 勝ち組
なわけで、彼らが自分のポジションを守りたくて、なんとかして、貧乏人を貧乏なままに固定して、自分たち上級国民は「今の生活水準」を
- 大衆をだまくらかすことで
「維持したい」と考えることは、しごく、当然なのだ。
そう考えたとき、私たち大衆は、よほどのことがない限り、大学教授を「信用」してはならない。彼らの言う
- 哲学
は、多くの場合、「プチブル」党派性に汚染されている...。