保坂希美「カント倫理学における嘘の問題」

カント倫理学についてネットで検索をしていると、やたらとひっかかるのが、カントの「嘘問題」の議論を

  • トンデモ

と言って馬鹿にする、功利主義者の議論だ。
(その典型として、以下を挙げておこう。ただ、これ以外にも「たくさん」あり、この主張が完全に、この人の「オリジナル」でないことは強調しておく。
楽しく学ぶ倫理学 第14回 義務論の可能性と限界 – ブリタニアグループ
それにしても、このエッセイはカントをけちょんけちょんに馬鹿にしている。嘘なんて言っていい場合があるに決まっているのに、なんてカントは馬鹿なんだ、と。まあ、カントを説教したがる学者が世にはびこるのは、いつの時代も変わらないわけだw)
そう思って、だったら、実際にはカントはなにを考えていたのか、と考えてネットを検索すると、まずヒットするのが掲題の論文だ。
では、この論文での主張を簡単に箇条書きで整理してみよう:

  1. カントは批判期以前には、バウムガルテン倫理学の教科書を授業で使っていて、そこでは「嘘を言っていい場合がある」ことを教えている
  2. カントは「おせじ」に起因する嘘を否定していない
  3. カントは必ずしも「人殺し」を、それ自体で否定していない
  4. カントは嘘問題を、一貫して「内面」の問題としてしか語っていない。つまり、人の心の中の問題であって、それは「他人には分からない」ということを前提で語っている。

上記を見て、ずいぶんと印象が変わったのではないか。
まず、一番目であるが、カントが授業でそう教えていたということは、カントはそういった主張に必ずしも反対していた、とまでは言えないんじゃないか、という疑いがあるわけである。つまり、それまでの合理論の文脈において、「嘘を言っていい場合がある」というのは常識だったし、カントもそれに対して、それほどの違和感を表明していない。
だとすると、である。ここで問われているのは違うんじゃないのか、という印象が強くなるわけである。
そして、それを証左するのが、上記の二番目であり、つまり「おせじ」はいい、と言っている。もうこの時点で「嘘はダメ」が正しくない。じゃあ、カントを批判していた人は、何を批判していたんだろう、ということになるが。
三番目はおもしろいが、カントが人殺し自体を否定している箇所はない、と言っているわけである。それは、今の日本だって、死刑はあるし、戦争の当事国になれば、相手国の軍人を殺すことになることまで否定することが現実的でない、ということからも言えるのだろう。
こうやって考えてくると、

  • どうも言っていることが、おかしいな

ということが分かってくるわけである。それが四番目で、つまり、カントは最初から

  • 人の心の中

の話しかしていないわけである。ところが、困ったことに、

  • 私たちは、他人の心の中が分からない

わけだ。ここで、何を言っているのかが分からなくなるわけであろう。嘘はダメと言っておきながら、ある人が言ったことが嘘かどうかは、他人には最終的には分からない、と言っているのだから。
どうせ分からないことを、議論して、なんになるのだろう? そんな虚しさがわいてくるわけだ。
しかし、カントはいたって普通だ。

カントは『人倫の形而上学』で嘘の悪さの判定についてこう述べている。

その際、この虚言から他人が蒙るかも知れぬ損害が、この悪徳の特性に該当しているわけではなく、......それゆえここではその損害は考慮されず、それどころか、自分が引き蒙るかもしれぬ損害さえも考慮されない(MS.VI 429)。

嘘が悪いとされるときに、嘘が引き起こす害悪にまったく依存しないということは、カントが嘘を糾弾するときに「嘘とは故意の非真理の言明である」という定義以外に何ものも必要としないということである。

したがって、カントは、他人も自分自身も、だれに対する損害も利益も無視するのである。嘘の悪さはその行為自体であり、人間性を毀損する点にのみ存する。このように、嘘の定義に帰結を考慮しないカントのやり方は、行為に道徳的価値を認める際に行為の帰結を度外視し、もっぱら行為の格率が道徳法則となりうるかどうかのみを問題にする彼の倫理学の根本的立場そのものである。

カントが嘘について語るとき、嘘は「帰結に関係ない」と言う。しかし、困ったことに、功利主義は「帰結主義」なのだから、話がかみ合うわけがないのだ。
功利主義者は

  • みんなが誰も文句を言ってないなら、「なにをやってもいい」

という考えだ。だれも怒っていない限り、どんな「悪」もやっていい。よって、必然的に、功利主義者は
−秘密主義
になる。どんなことも隠れて、こそこそやれば、誰にも気付かれないんだから、誰も怒らないわけで、

  • なにをやってもいい

ということになり、それで奴らの良心は痛むことはない、というわけだ。
もっと言えば、世界中の人を、麻薬で頭がおかしくなれば、誰も怒らなくなるわけで

  • なにをやってもいい

ということになる。ようするに、功利主義はどうやって世界中の人の脳を壊すのか、の

  • 競争

になる、と言っている側面がある。
功利主義は、本質的に、やってはならないことがない。どんな悪もやっていい。ただし、だれかが怒ったら、怒っている人は怖いから、

  • おっかなびっくり悪をやる

んだけど、だったら、世界中の人の頭を壊せば、自分を怒る人はいなくなるよね、ということで

  • なにをやってもいい

ということになる。つまり、彼らには

  • 最初から善悪がない

のだ! まあ、カントはそれに満足できなかった、ということなのだろう。
カントの晩年の著作に、『人倫の形而上学』というのがあるわけだが、この本は二部に分かれていて、前半が法論、後半が徳論になっている。つまり、カントは法律と、倫理学を区別している。
そして、「外面」に関わるのが法律で、倫理学は「内面」に関わる形而上学だ、と言っている。
ところが、功利主義はこの分類を認めない。なぜなら、「帰結主義」なのだから、最初から

  • 外面

の話しかできないのだ! それは、経済学者が人の心の話ができないのと同じで、彼らはそもそも、そういうことに無関心なわけだ。
それは、フランシス・ベーコンから始まる「経験論」が、そもそも議論できない人間の

  • 領域がある

という考えが、「合理論」なわけで、ところがそれを認めず、馬鹿にしてきたのが、現代の経験論至上主義の学問というわけで、どうもお互いの議論は本質的に、平行線をたどる、ということのようだ...。
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~mt/ningen/docs/HOSAKA.pdf