稲葉振一郎『宇宙倫理学』

稲葉先生の議論はおそらく、その分野の専門家には、あまり価値のある議論として受けとられていないんじゃないか、という印象を受ける。例えば、掲題の本は、

となっているが、別に、稲葉先生はメタ倫理学の専門家じゃない。どちらかというと、社会学者であって、現代の倫理学にコミットメント(倫理学学会の専門誌に論文を書くこと)をしてきたわけではない。たんに、おろらくは、倫理学系の

  • 大学の授業を担当した

という関係で、いっちょかみしているくらいであり、さらに、その程度の教養でありながら、いつもの「文学」的な、単行本執筆の延長で(つまり、ある種の「哲学者」的なエッセイの一つとして)、この本も書かれたのだろう。

大袈裟に言えばリベラリズムの原理論においては、すべての人間が等しく、尊厳ある人格として扱われて「格付け」という意味での評価はされず、「正しい行い」へと導かれることはあっても「正しい人となり」へと導かれる必要はないわずであるにもかかわらず、近代においても実際には、人は「正しい人となり」へと躾けられる。それは主として、公的領域から隔離された私的空間、典型的には私人の家に封じ込まれることによって見えにくくされ、問題とされにくくされる。しかしフーコーが子細に分析したとおり、近代においてはこうした躾けが家から溢れ出し、新しいタイプの公的な施設----学校、病院、工場、兵営へと溢れ出し、むしろおそちらの方を拠点とするようになっていく。しかしそうした公的施設の統治の主体は、当然ながら躾けられる人々ではない----工場の所有者は労働者たちではない----。しかしリベラルな道徳哲学は、こうした緊張から目をそむける。労働者は契約の下で命じられた作業をしているだけであり、経営者に従う従順な精神と身体(つまりは徳)を錬成されているわけではない、と。
このような「ポストモダン」的な近代道徳批判に、一見復古的な徳倫理学の流行が実は呼応している。つまりフーコーが分析した「躾け・調教(discipline)」とは、実は伝統的な意味での徳の陶冶にほかならない。近代リベラリズムは躾け・調教を、人格の尊厳への侵害として否定したつもりでいながら、近代社会の実務はそれを否定することはできなかった。しかしそれに対して原理的な正当化を与えることは、近代リベラリズムの枠内では困難である。むしろ伝統的な徳倫理学の発想の方が、それへの正当化を与えやすい。しかしながらそれはもちろん代償を伴う。すなわち、近代リベラリズムが否定した、人の間の格付けと差別の可能性に、それは道を開いてしまうからだ----。

上記の、徳倫理学が「人の間の格付けと差別の可能性」と同値だ、という主張は、もちろん、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の文脈を意識しているのだろう。しかし、そもそもアリストテレスは、

  • 知識(や能力)
  • 道徳的な性質

を明確に区別している。つまり、「徳」は、ひとまずは、知や能力、といったものとは別の人間の、なんらかの性質として議論をしている。
おそらく、稲葉先生に言わせれば、この区別は成立していない、と言いたいのだろう。それは、近年の「知識社会化」といった議論との平行性を思わせる。正しい道徳的行動をするには、何が正しいかを知らなければならない。つまり、それを知る

  • 能力

がなければ、そいつは正しい行動を行えない、という結論になる。ここから、必然的に導かれる結論は、

  • (日本でいえば)東大に入った人ほど、倫理的に正しく振舞える(ポテンシャルをもちえる)

ということになり、つまり「知識主義=能力主義」と倫理学は、ほぼ同値である、ということになる。
もともと、上記のアリストテレスにおける、

  • 知識(や能力)
  • 道徳的な性質

の区別は、どこか、カントにおける、「真善美」の区別(純粋理性批判実践理性批判判断力批判の区別)と似ている。つまり、ここには、

  • カテゴリー・ミステイク

を厳密にいましめる意図が読み取れる。しかし、稲葉先生は、自らを「デイヴィッドソン主義者」と宣言しているように、基本的に

しか認めてないのだから、こういった態度にコミットメントしたくないのだろう。
それは、稲葉先生の言う「道徳的実在論」にもつながるわけで、つまり、「実在論」であり「存在論」で考えると言っているわけで、最初から、観念論には否定的なわけで、そこには、分析哲学からの、学問を経験論に還元させる、基本的には

に学問を還元させる(自然主義と呼んでもいいが、素朴にはある種の)科学主義を徹底させる、というストイシズムがある、と言えるのだろう。
しかし、である。
もしもそうであるなら、稲葉先生はどうやって「積極的」な実践的な行動指針を議論できるのだろう、という素朴な疑問がわくはずだ。そして、これについては、掲題の本の補論で「デイヴィッドソン=ヒース主義」の解釈として提示されている。

ここから道徳的な意味での「べき」論に進むためには、どうしたらよいのか? ヒースが試みているのは、「寛容の原理」のさらなる、少しばかり特殊な方向の拡張である。私なりにパラフレーズすれば以下のようなものだ。すなわち、

合理的な主体たちが合理的な主体のままであり続けるためには、それらの間でのコミュニケーション過程が存続しなければならないから、合理的な主体たちはただ単に自分たちの私的な欲求を追求するだけではなく、このコミュニケーション過程そのものの存続に貢献し続けなければならない。そのために何が必要か、はもちろん具体的な状況に応じて多様であるが、大まかに言えば、コミュニケーションに参加する主体の一人ひとりが、とは言わずともお、少なからぬ主体たちがコミュニケーションに参加することができるように互いをサポートする、あるいはそこまで行かなくとも、互いに邪魔をしない、というコミットメントが必要であろう。またこの主体たちが共有する状況、生存環境それ自体の維持へのコミットメントもまた、あった方がよいだろう。

と、こんな風に論じていくことができる。れが「寛容の原理」のパラフレーズ、とは言えなくとも、極めて似通った推論から導かれることは明らかだろう。

ん? これってさ。その共同体が成立していくための、最低レベルの人々の規範のことを言っているわけでしょ。でもさ。これって変じゃね? だって、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』で列挙された徳って、まさに、これと

  • 同値

じゃないか! 「勇敢」「節制」「矜持」「穏和」「親愛」まあ、どれもなかったら、共同体は存続できないわけでしょ。おそらく、稲葉先生は『ニコマコス倫理学』を読んでないんでしょうね。この本における徳って、こういった

  • 抽象的

なことしか書いてないんだよね。だから、リベラリズムが主張する、各文化ごとの慣習の差異とか、そんなことはアリストテレスは、最初から折込済みなわけだ(まあ、当時の古代ギリシアだって、「多文化国家」だったわけでしょうからw)。
上記の徳の項目が示しているのは、まさに稲葉先生が上記の引用でまとめている

  • 共同体が成立しうる条件と、ほぼ「同値」

なんだよね。つまり、こういった点で、人々が「自制」をできなかったら、絶対に共同体は存続しえない。つまり、もともとが、そういった

  • 最低限

の徳目であったということは、おそらくは、中国の儒教孔子にしても、他の地域の倫理学においても変わらないのでしょう。
例えば、上記で徳倫理学は「人の間の格付けと差別の可能性」があるからダメなんだ、と稲葉先生は言っているわけだけれど、おそらくこれは、昔から徳倫理学が批判されてきた論点の一つである

という問題のことを言っているんだろう、と思うわけである。つまり、「徳がある人」になろうとすることは、結局、自分だけ「卓越」しよう、としているんだから、セルフィッシュで、反道徳的だ、という批判ですよね。
これについては、以下の本で、次のように反論されています:

Annas(1988,1-2) has a nice way of respondinng to this that is based on Aristole's remarks, in Nicomachean Ethics, IX.8 in which Aristotle discusses the notion that the friend of virtue is "another self." Summarizing Aristotle writes (1988, 1):

A friend, then, is one who (1) wishes and does good (or apparently good) things to a friend, for the friend's sake, (2) wishes the friend to xist and live, for his own sake, (3) spends time with his friend, (4) makes the same choices as his friend and (5) finds the same things pleasant and painful as his friend. But, argues Aristole, all these marks are found paradigmatically in the good persoon's relation to himself.

(Nancy E. Snow, Contemporary Virtue Ethics)
Contemporary Virtue Ethics (Elements in Ethics)

ようするに、アリストテレス自身が、この批判にある形で答えている、ということなんだけど、つまりは、

  • 徳のある人とは「友人のために良いことをしたいと思っている人」

なんだから、

  • 友人の徳は「もう一人の自分」だ

と言っているわけですね。つまり、さ。稲葉先生は、徳の「形式」から、セルフィッシュだからダメだ、と言ったんだけど、そもそもその「歴史的」な文脈において、常に徳は

  • 「内容」

において、利他的である徳目のことしか言ってこなかった、ということなんだよね。
(上記の最初の引用で、フーコーの道徳批判が紹介されているわけだけれど、そもそも、フーコーは晩年、古代ギリシア倫理学を研究しているんだよね。つまり、晩年になって、徳倫理を再評価しているんだけど、なぜかその議論は、掲題の本では、さらっとふれられているだけで、その内容には踏み込んでいない。)
では、なんでこういう形で、稲葉先生が「暴走」したかというと、それは、現代における規範倫理学としての、カント義務論と功利主義と、徳倫理学の「差異」を探求する文脈から始まっているわけですよね。つまり、カントは「人間性の尊厳」といった形で、徳倫理とは違って、

  • 汎人的

な価値として、人間であることそのものにディグニティを不可分に定義した。つまり、ここがカント義務論と徳倫理の違いなんだろう、と整理した。しかし、ね。これは変だよね。だって、カントの晩年の『人倫の形而上学』は、第一部が「法論」で、第二部が「徳論」なのだから。
つまり、カント自身は自分はずっと

をやっている、と思っている。自分の義務論と、昔から続いてきた徳倫理学を違うものだと思っていない。それは、上記で私が議論したように

  • その「内容」において、歴史的な文脈において、区別がなかった

から、ですよね。
じゃあ、なぜこんな混同が起きているか? おそらくは、稲葉先生が、基本的には、カントに興味がないから、ということになるだろう。つまり、稲葉先生は、基本的に功利主義で考えているし、それで必要十分だと思っている。それは、おそらくは、最近出版された稲葉先生の本のタイトルが『社会倫理学講義』となっていることとも関係している。
つまり、上記のカントの分類で言えば、この本に書いてあるのは、

  • 法論

の側「だけ」でしかない。つまり、完全に「徳論」が抜けている。それはなぜかと言えば、稲葉先生が「経験論者=実在論者=自然主義者」だから、上記のカントのような分割を基本的に認めないから、ということになるのだろう...。

宇宙倫理学入門

宇宙倫理学入門

追記:
ところで、なぜ稲葉先生は、デレク・パーフィットの「On What Matters」に言及しないのだろう? この本については、安藤馨先生の「帰結主義と「もしみんながそれをしたらどうなるか」」という論文で紹介されているが、ここでパーフィットが目指したのが

を「同じ山の頂上に向かう」ものという意味での

  • 同一性

だったわけだ。しかし、「規則帰結主義」とは、功利主義のマイナーチェンジみたいなものですから、本質的には、「カント義務論=功利主義」と言っているわけだ。まあ、あまりそのようには受けとられていないようだけど...。