小坂井敏晶『格差という虚構』

遺伝子と聞くと、なにか、物騒な胸騒ぎに襲われる。それは、もしも国家が、私の遺伝子を調べ、

  • お前の遺伝子は「生きる」資格がない遺伝子だ

と言って、私を殺そうとしてきたときを考えればいい。遺伝子は「情報」である。よって、その情報には必然的に、「解釈」が伴う。彼らは

  • 良い遺伝子
  • 悪い遺伝子

を選別し、国民を上級国民と下層国民に分断しようとする。
ちなみにこの「遺伝子」は古くは、ナチスドイツが熱狂的に信仰し、戦後は、いわゆる「文系」の科学への造詣が深い「SFマニア」たちが、その

  • 正当化

に、心血を注いできた、という歴史がある。

『日本人の9割が知らない遺伝の真実』で安藤は橘玲の著書との関連を述べる。

2016年4月に橘玲氏の出された『言ってはいけない残酷すぎる真実』(新潮新書)が30万部を超すベストセラーとなりました。
これには驚きと当惑の気持ちを隠せませんでした。なにしろ私たちが長年取り組み、それなりに世の中に発信してきたつもりなのに、ほとんど届いていないと感じていた行動遺伝学のメッセージが、こんな形で取り上げられ、地方の小さな書店でも平積みにされ、電車の中吊り広告にもなるような扱いになっているのですから。しかも私の書いた本がエビデンスとして紹介されています。(安藤2016)

橘玲といえば、日本有数のデマゴーグであることは、誰もが知っているだろう。そしてその彼が、礼賛したのが、行動遺伝学だ。特に、上記にあるように、この行動遺伝学の通俗本を書き続ける、安藤氏の本は、橘玲の「アンチョコ本」として使われている、というわけだが、さて。安藤の主張というのは、どういうものなのか?

安藤寿康『「心は遺伝する」とどうして言えるのか』から引用する。

生まれ落ちた瞬間こそ遺伝子の産物である生物学的存在かもしれないが、その後、乳児期、幼児期、児童期を経て青年期、成人期と大きくなるにつれて、さまざまな環境にさらされ、無数の経験をし、数えきれない知識と経験を獲得していく。こう考えたとき、心理的・行動的形質の形成に関わる遺伝要因の影響と環境要因のいずれが発達とともに大きくなるかと問われれば、当然「環境」と答えたくなるだろう。。いまでも標準的な発達心理学のモデルは、このような発達観を一つの典型として描いている。
ところが知能の発達に関する研究の蓄積を見る限り、そうではなく、むしろ現実はその逆だというのがこの発見である。つまり知能については、発達全体を通じて遺伝率が上昇する傾向にあることが、文化を超え、またふたご研究だけでなく養子研究からも支持されているのである。[...]一万組を超すふたごによる研究から、[...]遺伝率は児童期四一%、成人期初期六六%であった[...]。成人期後記には八〇%にも上るという報告もある。(安藤2017)

ここで、「遺伝率」とは、双子研究で説明される数値で、一卵性双生児の場合、「同じ」遺伝子であるから、環境が違っても同じ性質を示すものを「遺伝の影響」と考えよう、という数値だ。
上記で安藤は、この遺伝率が、年齢を重ねるごとに、高くなる、と言うわけである。
しかし、ね。考えてもみてほしい。これは、私たちの直感と合わない。直感と合わないということは、この推論のどこかが間違っている、ということを示すだろう。つまり、なんらかの「からくり」があるのだ。

子どもの知能を年齢別に調べた米国の研究によると上層家庭に育つ生後一〇ヶ月の赤ん坊の遺伝率はほぼゼロだが、二歳になると五〇%に上昇する。ところが下層家庭では生後一〇ヶ月でも二歳でも遺伝率がほぼゼロに近いまま変わらない(Tucker-Drob et al., 2011)。すでに参照した七歳の双子を比較した米国の研究では上層に育つ子どもの遺伝率が七二%だったのに対し、下層では一〇%に留まった(Turkheimer et al., 2003)。

ん? 安藤は、環境より遺伝の方が影響が大きいとして、その「パーセント」を表示する。なるほど、確かに、この数字は大きいように思われる。しかし、ちょっと待ってほしい。なんで、

  • 貧富の差

で、その数値に違いが出るのだ? なにかがおかしい。

養子は一貫に中層か上層の家庭だけに受け入れられるからだ。貧困家庭に養子で出されることはまずない。

そもそも、この「遺伝率」なる数値の意味、定義を振り返っておこう。一卵性双生児は「遺伝子が同じ」と考えられている。だったら、この二人の赤ん坊を

  • 別々の家に養子として育てられれば

その、生育における差異を、純粋な「遺伝の影響」と考えられるのではないか、というのがアイデアだ。
しかし、上記でも引用したように、そもそも養子に出される家庭は、「上級階級」であることが多い。なぜなら、公共施設は、わざわざ、貧困家庭に養子を斡旋しないからだ。ここに、

  • データの不均衡

がある。富裕階層は、基本的にどこの家庭も、「同じ」レベルのサービスを子どもに与えるので、

  • 環境が同一化

する。そうすると、「遺伝の差」くらいしか差があらわれない、ということになるわけで、より遺伝の影響が大きく見える。

米国の行動遺伝学者サンドラ・スカーが言う。

どの行動遺伝学者も知っているように、ある行動の遺伝率はそれを計測するサンプルに依存する。あるサンプルで計測された行動の遺伝と環境の分散が、他のサンプルでの遺伝と環境の分散に一致すると考える理由はまったくない。(Scarr-Salapatek, 1971)

うん。上記の安藤は、この誤謬に陥っている、と言っていいだろう。結局のところ、行動遺伝学は「サンプル」を離れては考察できないのだ! つまり、そもそもの、この学問の限界が露呈している、と考えられる。
遺伝と環境を「分ける」、という考えは、原理的には意味不明だ。なぜなら、私たちは、環境を離れては存在できないからだ。

  • 同一の環境

というのが、何を意味しているのかが分からない。ある双子の子どもたちがいたとして、絶対に

  • 同じに育てる

という状況は成立しない。例えば、上記の「遺伝率」は、一卵性双生児と二卵性双生児の「差異」を数値化するわけだが、他人は一卵性双生児が「同じに見える」という時点で、あまり変わらない態度で接することは言えるだろうが、二卵性双生児はそもそも違う遺伝子なのだから、見た目も違うわけで、他人の接し方が違うことは当たり前だ。つまり、この時点で、

  • 二つのグループの「(接し方という)環境の違い」

があるわけだから、この数値化が、そもそもの環境と遺伝子の影響を計算するという目的を正確に行うことに失敗しているわけである。
ここで少し、「遺伝」というものを考えてみたい。私たち一人一人を、どんなに調べても、「日本人の本質」は見つからない。その人の遺伝子の「ある部分」が、日本人の「本質」だとして定義してみたところで、いくらでもそれと違う日本人は発見される。また、外国人で、そこが同じ人は、いくらでも存在する。つまり、

  • 個人

には、人種の「本質がない」わけである。では、通俗的な意味で、私たちが考えている「人種」とは何か、というと、

  • 東アジア人の、髪の色が黒とか、麻色の目とか、肌の色

といった表現型で示される。これはなにかというと、

  • 過去からを含めて、ある地域に住んできた人の特徴

なわけである。つまり、ダーウィンの『種の起源』で考察したように、主に地理的な要因で、外と人の交流がなかった地域では、同一の特徴が見られるようになる。しかし、「例外」はいる。つまり、徹底して

  • 統計的な特徴

でしかない、というところに、その特色がある。ある人種は「統計」によってしか、名指しできない。ある一人の個人をそこから切り離しては、まったく議論ができない...。

追記:
掲題の本でもふれられているように、先天的と遺伝的は違う。受精卵に対して、母体は先天的ではあるが、遺伝的ではない。先天的とは、今、この世界が、どうしようもなく、こうであることを意味するが、だからといって、なにもかもがそれが、遺伝的である、なんてことはない。もっと言えば、遺伝子も環境だ。文系の、なにもかもを内と外で分けたがる、

  • 主体

弁証法が、この混乱を強いているのだろう...。