カンタン・メイヤスーの「祖先以前的」について

カントの「物自体」は、カント以降、一貫して、一定の勢力から批判されている。つまり、この批判が、いっかな、止むことがない。いや。これだけ批判が続いているなら、そろそろ、「決着」がついて、この話題は終わり、になるんじゃないか? ところが、このカント批判は、手を変え品を変え、いっこうに「止まない」のだw なんなんだ、この果てしなく繰り返される茶番は...。
カントが言っていることは、いわゆる

  • システム論

から考えるなら、あまりにも当たり前の常識を語っているにすぎない。しかし、なぜかそれが理解されない。この「分からなさ」はなんなのだろう?
まず、カントは、

  • 私たちが経験するのは「現象」だ

と言う。その上で、

  • 私たちは、物自体を知ることはできない

となる。カントは、物自体の存在を否定しない。なぜなら、「現象」とは、その物自体が、私たちの感官を「触発」するから、となる。つまり、存在を認めながら、私たちはついぞ、「そこ」に到達できない、と言っているわけである。
これに対して、カンタン・メイヤスーは『有限性の後で』において、以下の形で批判する。

私たちが関心を抱くのは、次の問いである。天体物理学者や地質学者、古生物学者が宇宙の年代や地球の年代、人類以前の生物種の出現年代、あるいは人類そのものの出現年代について論じるとき、その学者たちはいったい何について語っているのだろうか。思考、ひいては生命の出現に先立つものとして提起された−−−−−−すなわち世界への関係------生命的ないし思考的な------を、たんに諸々の出来事のなかのひとつでしかないものとして時間に書き込まれた事実であると見なす、あるいは、継起の起源としてではなく継起の途中の道標にすぎないものとして書き込まれた事実であると見なす、そのような言説の意味をどのように考えたらいいのだろうか。こうした言明を、科学はどのようにして単純に考えることができるのか。そして、いかなる意味において、これらの言明に対して、何らかの真理性を承認することができるのだろうか。
ここで、用語を定めることにしよう。

  • −−− 人間という種の出現に先立つ------また、知られうる限りの地球上のあらゆる生命の形に先立つ------あらゆる現実について、祖先以前的[ancestral]と呼ぶことにする。
  • --- 過去の生命の痕跡を示す物証、すなわち本来の意味での化石ではなく、地球上の生命に先立つ、祖先以前の出来事ないし現実を示す物証を、原化石[archifossile]、あるいは物質化石[matierefossile]と名づける。つまり、原化石とは、祖先以前の現象の測定を行う実験の物質的な支えである。たとえば、放射能による崩壊速度がわかっている同位体や、星の形成時期について情報を与えてくれる光の放出などである。

(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)

カントの観念論は、「その人の観念が、この世界を作り出した」と言うとき、じゃあ、その人が産まれる

  • 以前

の、この世界がどうのこうのと言うことは「矛盾」しているじゃないか、とメイヤスーは言っているわけである。
つまり、メイヤスーが言いたいのは、「観念論批判」なんですね。観念論は、おかしい。だから、観念論を止めて、実在論に戻るべきだ、と。
しかし、である。
これが正しいのか、間違っているのかを考える前に、もう一度、カントがなんと言っているのかを確認したい。
カントは、人間の経験は「現象」としてしか、ありえない、と言っている。つまり、「物自体」というものを私たちは、「経験」しない、と言っているわけである。この意味は、どういうことかと言うと、少しも難しくも、神秘的でもない。当たり前のことを言っているわけである。
どんな観測装置も、その観測装置自体の「性質」に依存してしか、観測をしえない。つまり、この観測装置の観測は、この観測装置の「性質」によって、必要十分に制約されるわけだ。
そして、それは「あらゆる」観測装置について言える。
そう考えたとき、

  • 物自体

とは、なんなのかが分からなくなるわけである。それは、「経験」によって、「現象」という形で触発はするが、あくまで人間の経験は、「現象」によってでしか認識されない。
このことを、もう少し別の角度から考えてみよう。観測装置である私たちは、世界を観測する。すると、その「経験」は、私たちの中に記憶として蓄積していき、なんらかの世界に対する、

  • イメージ

をもつことになる。しかし、その場合、それが結局のところ、「物自体」つまり、この世界そのものと、どういう関係になっているのかは、まったく、なんの手がかりもないわけである。あるのは、ただただ「経験」である。
カントの考えでは、科学とは、ただただひたすら、この「経験」という「現象」の

  • 諸関係

を分析していく営みでしかない、ということになる。そもそも、科学に「経験」であり、「現象」以外は不要なのだ。
しかし、そう言うと、素朴実在論の側から批判が来る。ではここで、メイヤスーが上記の引用の少し前で、どう言っていたのかを確認したい。

それ[放射性年代測定]は、単純な一本の線である。その線にはさまざまに色がついていて、縦に分割された色彩のスペクトルに少しばかり似ているそれぞれの色の上には、莫大な量を表した数字が付されている。どんな大衆的な科学読み物でも見ることができるものだ。それらの数字は年代を意味している。主に次のようなものである。

  • ---- 宇宙の起源(一三五億年前)
  • ---- 地球の形成(四五・六億年前)
  • −−−− 地球上の生命の誕生(三五億年前)
  • ---- 人類の誕生(ホモ・ハビリス、二〇〇万年前)

(カンタン・メイヤスー『有限性の後で』)
有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

ここで、「宇宙の起源」と書いてあることに注目してほしい。これって、なにかと言えば、

  • ビックバン

なわけでしょ。じゃあ、普通に誰だって思いますよね。

  • ビックバン「以前」は、どうなっていたのか?

と。そう。これこそ、カントの「アンチノミー」なわけじゃないですか。なぜ、メイヤスーは、カントの「アンチノミー」の話をしなかったんでしょうねw そりゃあ、

  • 都合が悪かったから

と考えるしかないわけじゃないですかw 考えてみてほしい。ビックバンの「直後」においては、世界が非常に小さかったわけだけど、

  • その時

という指摘は、正しいんですかね? そんな小さな世界において、そもそも、時間と空間の諸関係は、今の私たちが思っている、宇宙のそれと、同じように考えられるようなものだったんですかね。
こう考えてくると、どう考えても、カントの方がラディカルですよね。
例えば、量子力学というのがある。非常に小さな世界で、原子より小さな、構成物質の存在が語られるわけだけど、

  • それよりも、さらに小さな「構成物質」

が、どうして、はるか未来に発見されない、なんてことがありましょうか。はっきり言ってしまえば、

  • いくらでも

それは発見されて、より「根底的」な要素として、新たな物理法則が発見されるでしょう。だとするなら、この今の、私たちの科学の水準で、「この世界」というのを語ることの、限界であり、虚しさは大きいわけでしょう。
カントが言っていることは、自然科学は、「経験」であり「現象」の間の諸関係を発見していく学問であるわけだけど、少なくとも、それについてでさえ、

  • 究極のこの世界

には辿りつけない、と言っているわけです。「経験」であり「現象」であるものでさえ無理だと言っているのに、なんで「物自体」を分かる、と思えるんですかねw
そもそも、さ。「時間」って、そんなに自明なのかな。ビックバン直後の世界における「時間」を考えることが、どうして、今この時の時間の「自明なアナロジー」でできるのかな。そんなレベルだから、

  • ビックバン直前の「世界」

とか、そういった話になるわけでしょ。つまり、ビックバン以前って、なんなの? カントのアンチノミーでは、「無限の過去」と「有限の過去」を、アンチノミーとして考えたわけだよね。どっちなの? ビックバン理論は、後者を示唆していたわけでしょ。つまり、世界には始まりがあるんだ、と。ところが、そう話を始めたはずなのに、理論物理学では、何度も何度も「ビックバン以前」という話題が繰り返し、むしかえされる。
こうやって考えてきたときに、さ。そもそも、この世界って、そんなに単純なのかな。今の私たちが考えているような、「時間」「空間」という、自明な枠組みのものなのかな。
少なくとも、はっきり言えることは、

  • よく分からない

なんじゃない。つまり、この「時間」「空間」の諸関係も、よく分からない。量子力学の、さらに、ミクロの物理法則も分からない。つまり、「たかだか、経験、現象」であったとしても、それさえも、「よく分からない」わけでしょ。だったら、物自体は、なおさら、だよね。
こうやって考えてくると、なんで、カンタン・メイヤスーは、こんな

  • 昔からよくある手段でのカント批判

をやってるのか、なんですよね。しかし、それって、上記の『有限性の後で』に書いてあるんですよ。つまり、彼は

なんですね。つまり、キリスト教徒たちの間で昔から行われてきた、「カント批判」の議論を繰り返しているだけなんですね。ようするに、メイヤスーは

  • 神は存在する

と言いたいだけなんですw そして、もしも神が存在するなら、神には物自体を「知って」いるわけだから、「神の似姿」である人間が、その知に到達できないわけがない、という

  • 神学

の話をしているだけなんですね。そう。なぜ、こういったカント批判が、いつまでたっても止むことなく、繰り返されるのかって、カントの理性の越権行為や、理性の限界、といったような、

  • 人間の限界(人間の限界の中での学)

という考えが、そういったキリスト教の「神学」の「超越性」と相容れないから、止むことのない、信仰的な「攻撃」が止むことがないんですね...。