クラナド・アフターの親子関係

前回、クラナド・アフターについて書いたのだが、この作品を親子の物語として、少し考えてみたい。
まず、渚と朋也は学校を卒業して、ほぼ、すぐに結婚するわけだが、朋也は学校を卒業してすぐに就職を決める。そして、渚が病気のため、留年して卒業した後に二人は結婚する。そして、結婚して何ヶ月か後に、渚は妊娠し、その子が汐(うしお)となる。
まず、二人がこの年齢で結婚できたことには、朋也が就職したことが大きいことが分かる。彼は地元の企業に就職するわけだが、就職して少ないながら給料をもらって、生計を立てられるようになっていたから、二人は結婚できた、と考えられる。
もちろん、大学生で結婚する人いるわけだから、そう単純に言えないんじゃないかと思うかもしれないが、日本の大学生は学校から給料をもらっていないわけで、かなり例外だと言えると思う。
そう考えると、もしも「若くして結婚」したいと考える場合は、高卒でそのまま就職する、というのは現実的な選択になるんだと思っている。ただし、高卒の場合は職種もそうだが、一般的に「給料が少ない」という特徴はあるのだろう。
あと、渚と朋也が二人で暮らすことになるアパートは、渚の実家に、それなりに近い場所にある、というのは忘れてはいけない(「この街」という呼び名で、地元で就職した、ということ)。
それぞれが一緒に暮らさなかったことは、性生活などのこともあって、遠慮したなどあるのだろうが、基本的に二つの家族が近いことは、子どもが産まれたとき、二人が忙しい場合に、お世話を任せられる、ということで、決定的だ、とも言えると思っている。
ここまでをまとめると、

  • 高卒で就職
  • 若くして結婚
  • 地元の親元近くで生活

の、この三つがそろって、始めて、子育ての「環境」が整った、と言えなくもない。
ということは、この三つのどれかでも成立しないと、日本においては子育てが成立していない、という厳然とした実態がある、と言えるのだと思う。
当たり前だが、子育ては危険だ。間違って、子どもが死んでしまう。なにせ、産まれて何年も、この人間社会のことなんて、なにも知らないのだから。そうした場合、どうやって

  • 責任をもって「生かさせる」

のかは、一生を賭けた大事業だ、と言えるわけである。少しでも目を離せば死んでしまう。よって、母親は朝から晩まで、目を離せない、ということになる。当然、寝不足になる。だったら、それを誰かに頼めばいい、ということになるが、頼んだら、その人が子どもを死なせたとなれば、後悔してもしきれない、ということになるだろう。
この問題の一つの代替が、「近場に住んでいる親に頼む」だ。親であれば、「あきらめられる」というわけだw
この辺りが、一つの「方程式」になっているわけで、日本中のあまり金銭的に恵まれていない家庭では、どこでも、このパターンで子どもを産み、育てているんじゃないか、と思っている。
まあ、これを考えたら、なぜ日本が少子化なのかは明らかだろうw
興味深いのは、なぜ日本の知識人はこの状況を変えるべきだ、と言わないか、だろう。大学生が結婚して子どもを産めるようにするには、

  • 大学生に国が「給料」を払う
  • 今の「ウーバー」サービスの拡大と同じように、もっと「手軽」に子育てサービスをマネタイズする

といったことが不可欠なのかもしれない。
いや。今回のウクライナ戦争での避難民を日本が受け入れる問題を見ていても、

は必要なんじゃないか、と思い始めている。もちろん、維新の会が言っているような、今の福祉を削除して、その「代替」としてベーシック・インカムを行う、というものではなく、

  • どっちも

行う、という意味でのベーシック・インカムだ。
つまり、私たちは大人となって、この日本で生きていくのであれば、たとえその人がどういう状況であれ、その人はお金をもっているべきだ。それを実現するには、国家が直接、お金をやればいい。やれば、いやでも、お金をもっていることになる。
そう言うと、パチンコばっかりやってお金のない人はどうするんだとか、借金のある人はどっちみちお金を引かれるんだから変わらない、とか言われるんだけれど、そうじゃなくて、

  • 生きて、子どもを産んで、育てるための「サービス」

は、たとえどういった条件の人であっても提供されるべきなんじゃないか、と考えるわけである。
もちろん、そのようなサービスの提供方法として、国が個人にお金を渡すだけじゃないかもしれない。なんらかの引換券のようなものもありえるのかもしれない。つまり、方法はどうにだってなる。
大事なポイントは、

  • たとえ働かなくて、お金がなくても、国家から衣食住が保障され、子どもを産んで育てられるためのサービスが国家は個人の保障すべきだ

という私の考えだ、というわけである。
こうすれば、たとえ上記で紹介した

  • 高卒で就職
  • 若くして結婚
  • 地元の親元近くで生活

の条件を満たさなくても、というか、そもそも、この「一つとして」満たさなくても、結婚し、子どもを産み育てられるようになる。私は、たんに今の日本の少子化の解消法として言っているだけでなく、

  • そういう社会の方がいい

と考えている、というわけである...。

追記:
このように書いてきたが、もう一つ考えなければならない問題がある。それが、朋也の父親による、幼い朋也に対する「子育て」だ。朋也の母は、幼なくして、たしか病気で亡くなっている。つまり、その時から、朋也の父親は、朋也を

  • 一人で育てた

わけである。ところが、朋也はその時の父親に、いい記憶がない。父親は、この厳しい状況に疲れ、次第に、いい父親として振る舞うことができなくなる。そして、高校生の朋也は、常に父親に憎しみを覚える少年となっていた。
ところが、作品の後半で、朋也の父親の母親が登場する。ただし、その母親は

  • 田舎

に住んでいる! ここには、母親がいない子育ての難しさだけでなく、

  • おじいちゃんやおばあちゃんが、近場に住んでいない

状態での、彼らからのサポートを受けられない形での子育てが、日本ではいかに難しいか、ということを示している、と言えなくもない...。