マスクの話

ここのところ、マスクの話が賑わしいが、マスクとは、日本においては、

  • 東京問題

だと考えている私には、そもそもそれが、東京の話をしているのか、そうじゃないのかで分けて考えないと意味がないと思っている。
しかも、東京と言っても、さらに、二つの種類があるわけで、東京人は

  • 毎日、朝夜の通勤に電車を使っている人
  • 使っていない人

の二つに分かれるわけである。つまり、東京におけるマスク問題とは、そもそも前者の問題なのであって、後者など、どうでもいいわけだ。
東京は、世界で比べても、極端に人口密度が高いし、高齢者が多い。こういた状況において、マスクとは、

  • 「満員電車」の中でマスクをするかしないか?

の問いだったわけで、そもそもの最初から、これしか考えていないわけだ。
(考えてみてほしい。田舎のビルで、仕事をしているといっても、そこまで人口密度は高くない。だったら、容易に誰とも会わない距離の場所で仕事をできる。だったら、マスクを外していても、誰も困らない。こういったように、マスクをしないと迷惑な場所は、東京の満員電車に「象徴」されるような、特殊な場所であることが分かるわけで、しかし、そうでありながら、こと、東京の電車においては「すべて」に、この条件があてはまるから、このように言っているわけである。)
そもそも、通勤で電車を使う人とは、誰だろう? 言うまでもない。サラリーマンだ。では、なぜ彼らがマスクをしているのかといえば、

  • 会社から言われているから

に過ぎない。サラリーマンとは、会社に出勤をすることで、給料をもらう人たちのことなのだから、それが嫌なら、そもそも、仕事を止めればいいし、会社を辞めればいい。つまり、マスクをつけるかつけないかは、

  • 耐えられる=(付けさせられることが)大したことじゃない=(付けさせられることが)どっちでもいい

と考えていることと同値なのだ。もしも、そんなにマスクをすることが苦痛なら、サラリーマンになっていない。それ以上でもそれ以下でもない。つまり、この程度のことに耐えられない人は、サラリーマンをやっていない、という端的な事実を言っているに過ぎないわけである(まあ、これが言い過ぎだとしても、もしもそこで働きながらマスクを拒否するとしても、会社に「事情」を説明して、「了承」をもらってから、ということになる。よって、それなりの「説得力」のある説明ができなければならないわけで、まあ、これだけの「労力」をやった上で語ってほしい、ということだろう)。
東京問題をマスク問題だと思っている奴は、

  • 東京問題とは、東京の電車の「満員」問題

であることを死ぬまで理解しないし、おそらく死んでも分からないのだろう。それが、なぜなのかは分からない。おそらく、通勤で満員電車を使っていないし、サラリーマンをやっていないことが関係しているのだろうが、それ以上のことは分からない。ということは、そんな連中の言っていることなど

  • どうでもいい

ということと同値なわけである。
実は、このマスク問題というのは、昔から続く、謎案件なわけである。つまり、本当にマスクが有効なのかどうかが曖昧だ、という意味で。今回の新型コロナについても、一時期、効果があるという研究成果が海外で伝えらえ、CDCなどがマスクを推奨されたことで、日本でも、はっきりとした政策として選択されたわけだが、そもそも、これをどうやって「証明」するのかを考えると、面倒なわりには、

  • 誰にも、これを証明しなければならないというモチベーションがない

という意味で、結局、ずっと「よく分からない」が続いている、と言ってもいい状態なわけである。
新型コロナについて言えば、空気感染が言われて、水滴状のものをマスクが防ぐというのは分かりやすいでしょう。しかし、ウイルスの直径を考えると、どう考えても、マスクの網目よりずっと小さいわけです。じゃあ、なぜマスクで防げるのかと、学会の人が考えたのが、

ということだった。
しかし、いずれにしろ、これを証明するには、「比較実験」をするしかない。一方を、マスク着けて、他方を、マスクなしで。こうして、何日か後の結果をみるわけだけど、

  • マスクをさせてもらえない方は、流行しているのに、なんでそんな不利益を受け入れなければならないのかが理解できない
  • マスクをさせてもらえない方は、どう考えても、リスクを避ける行動を選択しがちになる

わけだろう。これは、比較になっているのか?
さらに、製薬会社にとっては、薬を売る方が儲かるわけで、安いマスクが大事なんていう事実をはっきりさせたいなんていう動機がないわけだ。
さらに、もともとマスクとは医者が日常的に使っているものだった。それは、常に「患者」と接している関係で、患者から自分に及ぶ被害を最小限にする、という意味であり、その逆でもあった。それは、診察の時であり、手術の時にも言われたわけで、そこにおいては私たちが日常的にマスクを使うという意味を越えて、さまざまな「意味」が過剰に語られてきた。まず、そもそも、マスクとは「触ってはいけない」ものとして語られた。なぜなら、「汚れて」いるから。しかし、このことは今言われている、「室外は外していい」という主張と矛盾する。そもそも、マスクが「汚れて」いるのにもかかわらず、口の回りに密着させていることが、どんな悪影響があるのかが分からない、という意味でも、現代的な対策なのかは、よく分からないところがあるわけだ。
そもそも、

  • 感染者がいなくなれば、(回りにウイルスがないわけだから)マスクをしない
  • 空港で、検疫をやらなくなれば、(海外にもウイルスがいないわけだから)マスクをしない

わけだ。もっと言えば、もともと、日本ではマスクは法律で「強制」されているわけじゃない。だったら、なぜ、マスクを外せ、という時だけ「強制」されなければならないのか? マスクをしている人は、もしも自分が感染していた場合は、他人に感染させたくないし、他人が感染していた場合は、自分が感染したくないから、マスクをしている、という理由だけで、なんで他人がそれに不快感を表明してくるのか、というわけだよね。
マスクをしている人というのは、

  • 自分で判断している

わけだから、それって、言論の自由と同じで、その人が「選択」していることなわけでしょ。なんで、

  • そういった人がいてもいい

という「多様性」を認められないんだろうね、っていう話になるわけである。
では、ここでマスク問題を歴史的に考えてみよう。新型コロナの最初の流行の頃は、マスクとは

  • 売っていない

ものの象徴だった。最初、トイレットペーパーがスーパーからなくなった。次にマスクがなかったわけだが、なぜなかったのかというと、中国が輸出を規制したからだ。
ということはどういうことかというと、最初に日本にマスクが入ってきたのは、免税店のような所だった、わけである。
新型コロナの流行によって、マスクとは50枚入りの「箱買い」が当たり前になった。よって、そう何度も買うものじゃなくなった。買ったら、当分、それを使うのが当たり前になった。しかし、最初はそういった免税店のような所で買ったこともあって、品質はお世辞にもよいものじゃなかった。ひとまず、不織布マスクとして、最低限の品質は保っている、といったものだった。それは安かった以上に、それしかなかった。
しかし、マスクの問題とは、常に日本人にとってはずっと続く課題であったわけである。

  • 暑くなってくると、材質によっては、かなり熱くなって、耐えられなくなる。
  • 特に、眼鏡をかけている人は、常に、眼鏡が曇る。

こういった問題におそらく今も悩んでいる人は多いんじゃないかと思う。私は今は、マツモトキヨシで売っていた

  • 3D立体冷感マスク3P

を使って、かなり解消はしているわけだが、一時期はけっこう大変だった。
なぜ人々はマスクをし続けているのか? 分かりやすい理由は、

  • リモートワークをしている

から、とも言えるだろう。そのため、多くの現場では、オフィスはガラガラだ。東京の高い地価を考えても、もったいない話なわけだが、それくらいの変革が起きた、と言うこともできる。つまり、毎日通勤しない。だったら、「たまにならいいか」ともなる、って話。
有識者の中には、日本人が全員マスクしているのをテレビで見て、「日本はまだ新型コロナの流行が終わっていない」と考えて、日本への旅行を止める外国人がでたら大変だ、みたいなことを言っている人もいるらしいが、そもそんも全てが強制じゃないからねw 勝手に煽って、自主的にやらせてきて、突然、「(疑わしい理由で)止めてください」って言ったって、だったら、責任とれるのかって、そっちこそ「強制」になるわけで、都合のいい話なわけだ(そもそも、今だって、外国人観光客の入国の数の制限を行っているんですけどね)。
なんか、知識人とか、人々の自由とかを分かってないんじゃないかと思うわけだよね。なんで、マスクをしているかって、マスクをしていない人たちが

  • 恐い

からだよ。こんなの、ネットで検索してみれば分かるわけで、マスクに反対している奴ら。なにこれってレベルで

  • 口が悪い
  • わがまま
  • だだっ子

なわけでしょ。常に、自分の快楽の話しかしていない。少しでも、回りから注意をされると、東大主席の俺に意見したって、キレちらかして、

  • 場の雰囲気を<最低>にして

しまいには、こういう事件だよ。

www.yomiuri.co.jp

これが日本社会だよね。つまり、明治以降の日本社会は一見すると、落としたサイフが返ってきたりして、安全で優しい社会のように思っているけど、なぜそうするかって、

  • そうしなかった場合の「しかえし」が怖い

からなわけね。つまり、一方で秀吉の刀狩り以降、庶民は武器を携行できないわけだけど、そのことは、反面において、日本が「暴力社会」であることを意味していると言うこともできるわけ。例えば、海外ではキリスト教徒が多いとして、彼らにはそういった宗教があるから、さまざまな「ルール」を内面化していて、いわば、そういった「内面」と対話をしながら生きている、ということが分かる。ところが、日本では、そういったルートがないから、

  • なぜ「暴力」をしてはいけないか

を示すことができない。よって、感情ですぐ、他人を支配しようとする。これは、明治以降の「天皇制」の特徴だった、と言ってもいい。自分が「錦の御旗」の側、つまり、「国寄り」のポジショントークを始めると、そんな自分を侮辱する奴は、自分は天皇の代理として、天皇の命によって語っているわけだから、そんな自分を侮辱したということは、天皇を侮辱したことと同じなのだから、

  • どんな暴力も正当化される(なぜなら、天皇への暴力は全ての意味において、許されないから)

という構造になっていて、はっきり言って、海外の人には、まったく理解されない形で、

  • ものすごいデカい声で、かつ、攻撃的に他人を「怒る」

んですね。ほとんど、ドメスティック・バイオレンスと同じわけ。だから、反語的に聞こえるかもしれないけど、本当に怖いのは日本社会の暴力性なんですね。
早い話、日本の反マスク派って、ずっとそういった「怖い人たち」というイメージを払拭できなかった集団だ、ということになるわけ。なぜ、日本の多くの国民がマスクをしているのかは、そもそも、自分が「そういう人たちの仲間」と思われたくないから。そんな人たちと一緒にされて、間違っても、半身不随にされたくない、といって、回りから避けられたくないから...。