東京オリンピック2020SIDE:B

えっと。民主主義って、なんなんだろうね...。あーあ。
東京オリンピック。一年延期しました。
え?
それって、「いくら」かかるの?
あのさー。「一年延長」って言っている時点で、意味不明だよね。だって、さ。それによって、いくらお金が余計にかかるのかを、誰が計算して、なぜ「それでも、一年後にやる価値がある」って判断して、その「証明」を誰が示したの?
この時点で、そもそも、東京オリンピックは意味不明なものになっていたわけだ。そうでありながら、それ以降を描こうとすることは、単純に無理というだけでなく、もしもそれ以降を、なにか「意味」のあることのように描こうとすると、それはもはや、

  • 喜劇

という形でしか描けないんじゃないかと思うわけである。
SIDE:Bの映画を仕事帰りに見たわけだが、観客は少なかったね。いなかったのはいいよ。休日になれば、嫌でも観客は増えるから。でも、これだけ長い映画なわけじゃない。少なくとも、見た人には考えさせるものであってほしいわけだよね。
ところが、時も時。オリンピック委員会は、決算書なる「市民の公開請求を法的に拒否できる」、まったく、何も公開していないしw、いや、それどころか、その発表をするやいなや、光の速さで解散するというw、ニセ民主主義を見させられているわけだ。
しかし、ね。こうなることは、最初から分かっていたわけ。なぜなら、法的に、オリンピックはお金の使い道を情報公開しなくてもいいようになっているから。しかも、バッハなどの欧州のオリンピック貴族に命令されると逆らえないように、法的になっているから。
オリンピックって、最初から、そうなっているの。そうなのに、なぜか、それでもオリンピックをやるべきって言ってた連中がいる、ということが驚きなわけでしょ。
そうして振り返ってみれば、大手マスコミは全部、オリンピックのスポンサーになっていやがったわけw こいつらが、客観報道するわけないじゃんw それもこれも、なんで、そんなことをさせられたのかといえば、電通が命令したからなわけでしょw
しまいには、電通の佐々木宏が、オリンピック開会式の7人を追い出して、

  • クーデター

をやってw、なんと、7人を追い出すやいなやw、自分の豚演出騒動という、女性差別問題で、その追い出した張本人が、なぜか辞めることになるというw、誰にも理解できない醜態をさらした。
いや。いっそのこと、なんでそのとき、電通そのものを一緒に追い出してくれなかったんだろうねw
選手がオリンピックに出場するはいいよ。でもさ。どういう理屈で、それを正当化するんだろうね。あなたが選手として、オリンピックに出場することで、

  • いくら

お金がかかっているんですか? それが分かったとして、あなたは、どういう「理屈」で、それだけのお金を出して、私が競技を行ったことには、

  • それだけの価値があった

ということを証明するんですか? いや。少なくとも、それを言ってくださいよ。それが、民主主義における「アカウンタビリティ」なわけでしょ。
おかしいわけ。当時、新型コロナが大変だった時期で、病院は大変な状況だった。それは映画でも少し描かれていたわけだけど、病院のどこもがこんな状況の中、オリンピックをやっている場合だったんですか、っていうのは、そんな自明のことじゃないわけです。だからこそ、あれだけの「反対」が日本中であったわけでしょ(そして、その国民の反対については、映画でも、描かれていないわけじゃない)。
しかし、もう一つ、決定的にダメなところがあって、つまり、映画でも言ってたけど、一番悪いのは、これが

  • 平等じゃない

ところなわけね。当時、そういう時期だったから、ミュージシャンからなにから、コンサートなどの公演がやれなかった。それだけじゃない。学校の部活もやれなかった。部活の大会も中止になっていた。そもそも、オリンピック選手たちが参加するはずの国際大会が中止になっていた。だから、例年のような、選手の大会に参加することでの調整はできなくなっていた。普通に考えるなら、こんな状況で「オリンピックだけやる」って、おかしいよね。
あらゆるイベントが中止になっているときに、オリンピックだけをやる理由ってなに?
結局、せんじつめると、この一点にたどりつくわけだよね。みんな、これに答えることを避けているわけ。誰もこれに答えようとしない。つまり、明文化しようとしない。これを、

  • 指示化

しようとしないわけ。
オリンピックってなんなの? なんで参加するの? これに誰も答えようとしないわけ。みんなが、これに答えることを避けているわけ。避けているくせに、まるで、参加することは価値のあることだった、みたいな大会が終わった後の表情をしているわけでしょ。卑怯だよね。
つまり、なにもないの。無なわけ。
そんなわけない、と思うかもしれない。しかし、もしもそう思うんだったら、私はあえて、「国内向け」に限ってになるけど、

のためだった、と言いきろうと思っている。それは、今回の映画自体の構成が、天皇の宣言をするところで終わっているという意味でもそうだろう。天皇が開会の宣言をする大会を止めることはでなかった。それは、WW2で国民を全員殺そうとしてでも戦争を継続しようとした、あの時となにも変わっていない。なんで無観客になったのかは、

したから、っていうのは今ではみんなが分かっているわけね。こんな状況で、大量の観客を入れて、まんがいちにも、大量の死者が出たら、そんな大会の開会宣言をした天皇自身の責任問題が問われかねないことになる。つまり、ポツダム宣言と同じで、

で、無観客になったわけだし、逆に言えば、天皇自身が言ってくれなければ、そういう決断を、この国の民主主義は

  • 決められなかった

と言ってもいいわけだw この国は天皇が「こうしろ」と言ってくれないと、なにも決断できないわけ。逆に言えば、これだけの税金が注ぎこまれたのも、それを情報公開するのを法律が禁止しているのも、全部

  • ある意味では、天皇の意思

だ、として、全てが無責任体質になってきたわけだね。
もちろん、これは「答え」になっていないわけ。つまり、オリンピックと天皇は関係ない。もっと言えば、国民にとって天皇が「関係ない」くらいには、国民にとってオリンピックは「関係ない」。
じゃあ、なんだ、ということになるけど、それが、映画の最後のシーンなわけでしょ。つまり、それが監督のメッセージだったわけ。つまり、

  • 子供が母親に、オリンピックの思い出を話す場面

なわけね。つまり、オリンピックとは「想起」なわけ。自分たちの子供の頃の、回りの重要な人との、なにげない会話でありながら、やはり決定的な、忘れられない思い出なわけなんだね。
しかし、なんか、変なんだよね。だって、「無観客」なわけでしょw つまり、この親子は、競技を直接見ていない。テレビごしにしか見ていない。うーん。それは「思い出」なのだろうか? そのことは、まるで、今のウクライナの軍事侵攻をテレビで見ているようなもので、その映像は本物なのか、という気持ち悪さがあるわけでしょ。「ブチャの悲劇」とかいって、どう見ても、アメリカの軍事広告代理店が、イラク戦争でやりやがったオイルまみれの水鳥とか、そういったレベルの

  • ニセ映像

なわけでしょ。なんで、オリンピックだったら、そういう疑いの目で見ないの? 実際、多くの選手がドーピングでつかまって、公式記録から削除されてますよね。私たちの「感動」を返して、ってなわけでしょ。すくなくとも「ただの映像」を、まるで、エビデンスであるかのように扱うのを止めませんかね...。