ゼーガペイン

2006年にテレビシリーズとして放送された、アニメ「ゼーガペイン」は、一部では大変評価が高かったのだが、今見ても、なかなか考えさせる内容となっている。
舞浜を舞台とした学園物として始まるこの作品は、主人公の高校生の十凍京(ソゴル・キョウ)の視点で作品は進んでいく。
キョウは、なにかの力で、別世界に転移される。その世界は、すでに舞浜が廃墟となっている世界だ。ここで、彼はロボットを操作して、敵のロボットと戦う。
問題は第6話だ。ここで、キョウは、

  • すでに<人類が滅びている>

ことを知る。つまり、キョウが毎日通っている学校の世界は、ヴァーチャル・リアリティであって、記録されている過去の情報から、AIが「演じて」いる、仮想世界でしかなく、

  • 本当の現実

は、キョウが敵と戦うために転移させられていた、別世界の方だった。その世界には、すでに「人類」は存在しない。全員、人間が死んでいる。ただ、そこには、

  • それまでの人類が築きあげてきた「遺跡」

は、そのまま存在している。人類は全員が死んでしまう前に、人間の全情報をコンピュータに保存した。この人類が絶望した世界に、確かにロボットは介入できるが、それぞれのプレーヤーはフォログラムのような形で、この世界に介入するだけで、透けている。
キョウが通っていた高校の生活は、

  • 舞浜サーバ

と呼ばれているコンピュータによって、「シュミレーション」されたものにすぎない。
「舞浜サーバ」と同じ、人類の情報を保存したサーバは、地球上に100以上あったが、敵との戦いの中で、すでに17個に減っている。
敵は、その地球上にあるサーバを破壊を目指して戦う。これを守るために戦っているのが、味方のロボットであり、軍事システムだ。
キョウは、この世界が「作り物」であることを知ることで、すべての一切の行動が無意味じゃないかと考えた。そして、なにもかもをやる気を失う。
そんな彼を変えたのが、アークとクリスの夫妻だった。
キョウが通う高校生活の世界から、「現実世界」に転移して、ロボットを操縦するとき、その一回、一回で、必ず、各個人データが損傷し、欠損するようになっている。そのため、これを何度も繰り返すことで、次第に彼らは、

  • 記憶

を失い、その存在が消滅することになる。つまり、ロボットで戦うことは、自らの命を削り、寿命を短くすることを意味している。
アークは、度重なるバトル出撃のため、個人データの欠損がひどくなっていたわけだが、二人の夫婦は戦うこと、舞浜サーバを守ることに意義を見出していたため、戦場から去ることを選ばなかった。
結果として、アークの存在が失われるわけだが、大事なことは、二人が愛しあうことを最後まで止めなかったことだ。二人は自分が「データ」であり、リアルな肉体がないことを知っていた。しかし、なぜ二人が戦うことをやめなかったのかは、

  • 二人がお互いのことを気付かっていたから

ということになる。二人は、相手が自分を「愛している」のなら、それに答えたいと考えた。それは、もしかしたら、相手は「データ」であり「リアルな肉体がない」ことで悩んでいるかもしれないが、たとえそうだとしても、

  • そう振る舞う

ことについて、それが矛盾だと考えなかったのだ。たとえそうだったとしても、自分が「相手のことを気付かって」、深く愛を表明することは、意味があると考えた。彼らにとっては、まさに、それが生きていることのあかしだったわけだ。
ただ、全26話ある、このテレビシリーズの最後の方にくると、話の主題は「彼らに<肉体>が与えられる」世界にすることは可能か、という方に主題が移ってく。
確かにそのことは、話としては分かりやすいのだろう。しかし、そうしてしまうと、

  • もともとの主題

であった、

  • ただの「データ」でしかないAIに<生きる目的>はあるのか?

という、興味深い主題が

  • 捨てられた

ことになったわけで、なんか、安直な結論に行っちゃったんだな、というわけで、少し残念に思ったわけだ。
最後は蛇足だが、この作品は、主人公の十凍京(ソゴル・キョウ)と、

という、二人の女性との三角関係になっている。作品の最後で、キョウはシズノとの「昔の記憶」を完全に戻すわけだが、それまで、キョウはその記憶を忘れていた。
そう考えると、この作品は

  • シズノの愛の物語

と考えることができる。ただ、その部分は

  • 過去編

が、テレビシリーズで描かれなかったために、「二人の愛」が、実際になにがあったのかが分からない描かれ方をしたために、

  • 二人が愛しあっていた

ということの

  • 意味

が、まったく分からなくなってしまっている。そのことは、アークとクリスの愛が、前半であれだけ描かれたことと比べると、完全に

  • 失敗作

となってしまっている、というのは言わざるをえないんじゃないか。
おそらく、テレビシリーズとしては、カミナギとの「幼馴染」の方を描くことの方を重要視してしまったために、そちらを全面的に描くことを「ためらった」ということを意味しているんじゃないだろうか...。

追記:
2016年に映画「ゼーガペインADP」が公開され、テレビシリーズの前日譚が描かれている。確かにこれで、キョウとシズノの愛は描かれたわけだが、それにしても時間がかかったし、あっさりした描写だな...。