白井仁人『量子力学の諸解釈 パラドックスをいかにして解消するか』

量子力学の話は、もはや語り尽された印象がある。つまり、量子力学を「哲学」として考える分については、だが。
いわゆる、「観測問題」と呼ばれる、「形而上学」についてだが、まず、これがどういったところからもたらされた問題なのか、を整理していこう。

このように、われわれには当たり前のように思われる物体の性質が、原子スケールの世界では成り立たないことがしばしばある。上で述べたように「温度」の概念は1個の原子には成り立たないし、「色」や「音」の概念も同様である。原子サイズになった人が原子を見ても、原子は何色でもない。これも色という概念が原子や電子などの素粒子に通用しない概念だからである。また、原子サイズになった人が音を聞こうとしてもなにも聞こえない。これも音という概念が原子サイズでは成り立たないからである。

昔から、形而上学がやってきたことは、アナロジーだった。つまり、実在と言うとき、それは、

  • 私たちの日常概念から「類推」して、

自明だとか、ありえない、だとか喧しく議論してきた。しかし、量子力学においては、そういったアナロジーが通用しない。
まず、観測という行為が、量子に「光子をぶつける」ことだとするなら、そのぶつけられた量子は

  • 大きな影響を受ける

わけで、もはや、ぶつける前と後で、その「存在」の形態が根源的に違ってしまう。こういった対象に対して、「観察」するとはなんなのかが問われているわけである。
昔から、量子力学には以下のパラドックスが指摘されてきた:

問題はなんだろう? おそらく、二つの方向に分けられる:

  • 「経験論」で、なぜ満足しては駄目なのか?
  • 実在論」を量子力学に求めることは、どこまで意味があるのか?

前者は、いわゆる「コペンハーゲン解釈」にしてもいいんだけど、ようするに、フランシス・ベーコンのノルム・オルガヌムから始まった、経験論における

  • 自然科学=実験=観察=(自然科学的)帰納法

というのは、結局は「観測したもの」についてしか相手にしていないわけ。ところが、量子力学で問題になっているのは、観測していないときの「存在論」なわけね。つまり、それをどうやって、整合的に説明できるのかが問われている。これを「実在論」と言っているわけだけど、逆に言えば、

  • 観測する前のことは知りようがないんだから、その時、それがどうなっているかなんて考えても、意味がない

と言ってしまえば、いいって考えられなくもないわけね。だって、観測する前は、

  • 自然科学=実験=観察=(自然科学的)帰納法

を行うための情報がないわけでしょ。
つまり、ある反転が起きている。カントはベーコンやヒュームを批判したわけだけど、彼は、そこでそういった観測できないもの(アプリオリなもの)の「形而上学」をやったんだよね。観測はできないけど、おそらく、こんなようになっているんだろうと考えると、物事が整合的になる、って。ただし、カントはそれを「観念論」によって行った、と言われたわけ。
対して、量子力学を「実在論」で説明しよう、というアプローチは、まず、

  • 情報

としては、コペンハーゲン解釈で登場する方程式で尽きているんだよね。これに対して実在論を想定するということは、もっと複雑な別な定理を仮定する、ということになる。そうすると、理論はどんどん複雑になるよね。
しかも、さ。そういった「実在論」という「形而上学」を仮定したとして、本当にそれが、上記の三つのパラドックスを十分に解決するものになるのかは、そんなに簡単じゃない。
逆なんだよね。コペンハーゲン解釈は、言ってみれは、上記の三つのパラドックスを回避できているの。それは、「考えない」という態度表明によって、ね。もっと言えば、

を語ろうとしなければ、そもそも「問題そのものがない」ということになるのだから。
よって、ここで問われるのは、「実在論」とはなんなのか、なんだよね。
もちろんこう言うと、今の一般的な雰囲気に対して、私が喧嘩を売っているように聞こえるかもしれない。
それは、いわゆる「多世界解釈」のことだ。この解釈は、一部の人たちには、まさに「真理」のように扱われてきたし、文系の人たち(SF系の人たち)にも熱狂的に信仰されてきた、と言っていい。しかし、問題は、本当にそういった人たちが、どこまで、この理論を上記の3つのパラドックスに対して批判的に検討したのかが疑問なんだ。

多世界解釈のさまざまな解説を読んでわかることは、多世界解釈では観測前の値(所有値)を問題にしないということである。説明に登場する「値」はすべて「測定値」で、その測定値は「観測器の状態」または「観測者の認識状態」と結びつくことで確定する。系が観測器と相互作用しなければ、どの物理量の値をもつかはっきりせず、世界も分岐しない。多世界解釈では、ある値が観測されたとき「直前に系がその値をもっていた」とは考えず、「観測器がその値を表示する世界へ分岐した」と考える。そのため、観測前の値を考える必要がなくなり、NOGO定理の問題が消える。
一見、これでうまく解決したように見えるが、実在主義者からすれば観測前の値を議論しないのは大問題である。観測前に値をもたないような世界を「実在する世界」とよべるだろうか。

ようするに、多世界解釈を考えたとき、そもそも

と考えていた人たちにとって、その説明は、まったく「実在論が問題にしていた課題」を正面から解決しようとしていない、という意味で、

  • こんなものが「実在論」なわけがない

という不快感があるわけだ。
確かに、多世界解釈は、主に、文系の人たち(ハードSF系の人たち)に人気なわけだが、もともと、量子力学が「哲学」の問題として真剣に考えられてきたのは、その

だったわけでしょ。つまり、多世界解釈は、この「実在論」から逃げてしまっているんだよね。逃げてしまったから、

  • それって、もともと「実在論で説明したい」というアプローチを捨ててしまっているのに、なんで満足できるの?

っている疑問があるわけなんだよね。ようするにさ、

  • 粒子波動二重性
  • 波動関数の収縮
  • 不確定性、非局所性

この三つを、私たちの今もっている「直観」で説明しようとすると、どれも、どっか無理だ、ってことなんだ。これは間違いない。じゃあ、何を捨てるの? それが問われているんだよね。つまり、

  • 実在論の「何をあきらめる」か?

が問われている。実在の、どういった性質を「あきらめ」たとして、果して、それでも私たちは、それを「実在」と考えられるか? もっと言えば、

  • 私たちの「常識」の何を捨てることが、たとえ捨てたとしても「合理的」だと考えられるのか?

が問われているんだよね。
結局、この宇宙ってどうなっているの? 大事なのはここで、私たちの「マクロな視点からの常識」からのアナロジーで空想される形而上学じゃないわけね。そうじゃなくて、ある点においては、私たちは私たちの「常識」の方を捨てなければならない。そして、それを捨てた上で、それってどういうことなのか、それを捨てたとして、どういった世界観が残されるのか、を考えてみるしかない。
こういった観点で、掲題の著者が提唱する解釈が「全体論的なアンサンブル解釈」だ。

フィッシャー情報量最小の原理を基礎におくアンサンブル解釈の大きな利点は、確率分布の全体性を考慮できる点である。このアンサンブル解釈では確率分布が全体としてフィッシャー情報量を最小にするように決まっていると考える。つまり、部分より先に全体が決まっている。このように全体を先行させるアンサンブル解釈を、白井は「全体論的なアンサンブル解釈」とよんでいる。そこでは、確率分布の全体が先に決まり、部分は全体に依存した形で従属的に与えられると考える。つまり、全体と部分の主従関係が逆転しており、全体を(独立した)部分の総和と見なすことができない。上の解釈は一見単純だが、「全体論的」で「非局所的」な考えを内包している。

こういった「統計学による解釈」はアインシュタインがすでに提唱していた。しかし、アインシュタインの場合は、その観測する前の実在は自明として考えられていたわけで、それはベルの定理から成立しないことが知られている。
対して、上記のアイデアでは、「統計学による解釈」を受け入れながら、何を「あきらめた」のか、ということになる:

全体論的なアンサンブル解釈が時間・空間的な非局所性を含んでいることを述べたが、読者はこの考え方を受けいれられるだろうか。その非局所性は、測定結果がはるか遠方の環境に依存するということ(空間的な非局所性)だけでなく、現在の確率分布が(過去だけでなく)未来の環境にも依存するということ(時間的な非局所性)を意味する。つまり、そこには「未来への依存性」という考えが含まれている。
現在が未来に依存するという「未来への依存性」の考え方は受け入れられないという人は多いのではないだろうか。なぜならそれは「未来がすでに決まっている」ということを含意し、われわれの自由意志を否定するからである。しかし、「未来への依存性」は「過去と同様に未来に依存する」という意味であり、時間対称的な考え方が基本にある。それは物理法則が時間対称であることを考えると、決して不思議ではない。
ここで、ニュートン運動方程式を思い出すと、これは時間の向きを入れ替えても同じ形となる時間対称な方程式だった。ただし、それを解くときには、初期状態から出発し、時間発展を順次計算するという時間非対称な方法を用いた。こうして求められた解はその物体の世界線とよばれる。世界線の求め方にはもう一つある。それは変分原理に基づく全体論的な求め方である。そこでは運動方程式の代わりに「最小作用の原理」が成り立つと考える。それを満たす解を求めると、先ほどとまったく同じ解(世界線)が得られる。
運動方程式最小作用の原理からは同じ答えが得られるが、それらの背景にはまったく異なる考え方があう。運動方程式では、初期状態が決まっていてそこから因果的な時間発展を追いかける。しかし、最小作用の原理では、先に初期状態と終状態が決まっているとし、それをつなぐ線のうち最小作用のものが実現すると考える。そきに因果の観念はない。過去から未来が少しずつ生み出されるのではなく、過去から未来まで世界線の全体が環境に合うように調整され、最終的に最適なもの(最小作用の世界線)が実現する。

全体論的なアンサンブル解釈」が「統計学による解釈」を採用しているわけだから、

  • 粒子波動二重性 ... 一つ目のスリット実験でも、波模様は「点の集合」として描かれているわけだかが、シュレーディンガー方程式が「統計値」を現していると考えることは、最も自然な解釈
  • 波動関数の収縮 ... 観測によってシュレーディンガー方程式の統計母集団が、その部分集合に変わったと考えれば自然に解釈できる

というわけで、この二つについては非常に自然な解釈ができる。問題は、

  • 不確定性、非局所性

であった。これに対して、「全体論的なアンサンブル解釈」はそもそもの最初の出発点として

を「公理」として置いてしまうことで、言わば、この難問を強引に突破してしまっている。
(このホーリズムは、「空間についての全体論」ということでは、今までさんざん議論されてきた、量子力学の「非局所性」の性質を考えれば、まあ、分からなくはない部分もある。問題は、それが「時間についての全体論」にまで広がる、という所が、というか、その「意味」が問題含みなわけだ。)
ところが、その立場を採用するということは、カント以降の哲学が最も重要視してきた、

  • 自由意志
  • 因果

という考えを放棄する、ということを意味している。そう考えるなら、問題は「そう考えることによって、世界は非常にシンプルに解釈できる」ということから、私たちは謙虚に世界を眺めるべき、ということが示唆されている、ということになるのだろう...。