「僕が愛したすべての君へ」「君を愛したひとりの僕へ」

この謎のタイトルの二つのアニメの映画は、早川文庫の、いわゆる、SFだ。つまり、本格SFというジャンルの作品で、ひとまず、これはSFなんだ、と思って見なければいけない。
もともと原作も、この名前の二つの本になっていて、しかも、「同時発売」されたことから、話題になったんだそうだ。
ちなみに、パンフレットには

「僕を愛したすべての君に」はちょっと切ない物語に。
「君を愛したひとりの僕へ」から読めば幸せな物語に。

とある。しかし、ね。この二つの作品のパンフレットは、一つで売っていて、その表紙。この順番に、タイトルが上から並んでいるんだよね。だったら、「その順番」で映画を見るように誰だってなるよねw
というわけで、私もこの順番に見たんだが、うーん。正直、この前の「トンネル」の映画の方がまだましだったな。
見る順番については、自分の選択でよかったかな、と思っている。問題は

  • 内容

だ。つまり、本質的な所でダメだった。少なくとも、自分の肌に合わなかった。まず、本格SFがダメだ。私は、基本的にSFを生理的に嫌悪しているんだよね。SFっていうジャンルの話を書こうという奴等の性根を疑っている。というのは、こういう奴らって、

  • 仕掛け

を作ることに「酔って」いるでしょ。その「ナルシシズム」が気持ち悪いんだよね。それで、なんかやってやったみたいな満足感を漂わせている、っていうのが、なにか人間として欠けている所があるじゃないかって、思えてしょうがないんだよね。
この二つの作品。どっちも駄目だと思う。しかし、その駄目さは、まず、後者の「君を愛したひとりの僕へ」の問題を整理しないと、前者の問題が分からない。
「君を愛したひとりの僕へ」は、日高暦という少年が、佐藤栞という少女と出会う物語となっている。暦の両親は離婚して、研究所に務める父親にひきとられ、栞の両親も離婚して、研究所の所長をしている母親にひきとられた。この二人は(お互い親が同じ研究所で働いていることもあって)、幼ななじみで、二人とも、このまま大きくなったら、結婚するんだろうなと思って育ってきた。
ところが、このお互いの親が「再婚」することになる。それを聞いた二人は、「二人は兄弟になったんだから、結婚できない」と思い込んでしまい、

  • 親が結婚しなくて、二人が結婚できる「(平行世界の中の)世界線

に行こうとして実行するのだが、暦は無事帰還に成功するが、栞が失敗して、脳死状態になり、魂が分離して、なおかつ、横断歩道にい続ける、

  • 幽霊

になってしまう。
ところが、である。
彼らは「親が結婚しても、子ども同士は結婚できる」ということを知らなかった。つまり、二人は、まったく無駄なことをしていた、ということになる。
暦は、栞の魂をなんとかして救いたいと、親と同じ研究所に入って、頑張るのだが、結局それは難しいということに気付いていく。それは、彼が、さまざまな平行世界に行っても、そこに、栞の幽霊がいる。つまり、彼が平行世界に移動するたびに、栞がそれにくっついて来てしまう、ということで、お互いの魂が「もつれ」ていることが原因だ、と分析する。
しかし、その解決方法は、悲劇的だ。つまり、

  • 産まれた時から、二人が絶対に「出会わな」ければいい

ということに暦は気付いたわけだ。暦の目的は、栞を「幸せ」にすることだ。なんとかして、彼女に幸せな人生を送らせてやりたい。そのためなら、

  • 自分が彼女のことを覚えていなくてもいい

とまで考える。彼女が幸せになるんだったら、自分なんてどうなったっていい、と。
そして、それを実行する。
しかし、その直前に、年老いた暦は、今も横断歩道にいる、幽霊の栞に話しかけて、自分がやろうとすることを栞に説明するのだが、「もう会えなくなる」ということを聞くと、栞はそれは絶対嫌だ、と言う。すると、暦は「60年後に絶対に会いに来るから」と約束することで、幽霊の栞は納得し、産まれ変わり、全ての記憶を失っていたはずなのに、なぜか、ちょうど60年後に、彼は「覚えていない」はずなのに、栞に会いに行く。
だいたい、こんな話なわけだが、まずもっておかしいのが、

  • 二人が出会うと「絶対に」、栞が交通事故で死んでしまって、栞は不幸せになる

と悟って、だったらと、暦は「絶対に出会わない」と決意する、というところだろう。
あのさ。
二人は結婚したかったんだよね。そして、たんなる「勘違い」で、もう結婚できないと思い込んで、トラブルに巻き込まれたんだよね。だったら、平行世界に行くにしても、

に行けよ。つまり、「勘違い」さえしなければ、結婚してたわけじゃん。そんだけ、じゃん(まあ、この辺りにシュタインズゲートの影響を感じるよね。まゆりが死なない世界線を辿って行ったら、全ての世界線の変更の前に戻ることになって、紅莉栖の死を受け入れなければならなくなる、といった設定が似すぎている)。
なんなの?
なにが「運命」だ。馬鹿じゃねえの。完全なオカルトじゃねーか。アホじゃねーの。頼むから、アホみたいな勘違いをしないで、どうぞ、結婚してください。それだけ、以上。
これが、二つ目の作品の方ね。じゃあ、一つ目の作品はどういう内容か、ということになる。
こっちは、上記で示唆された「あの二人が絶対に出会わない世界線」の話となっている。
では、ここに登場する恋愛小説の二人とは誰か、となるが、それが、高崎暦と、瀧川和音だ。
まず、暦は二作目の暦と同一人物だが、名字が違う。つまり、別れた両親の、今度は母親に引き取られた世界線ということになる。他方の和音は二作目で、大人になって研究所に途中で入ってきて、暦を生涯、サポートしてくれる人という設定で登場している。
この一作目が奇妙なのは、二作目で、暦は「自分が栞を覚えていられない世界=自分の不幸」という文脈で語っていたわけだが、そうして、それが「実現」した世界は、奇妙なことに、

  • 暦が幸せになった世界

として描かれてしまっている、ということだw 二作目で、二人は最後まで結婚しない。なぜなら、暦はずっと、栞のことしか考えていないからだ。ただただ、そんな彼を、和音はサポートし続けた、という関係として描いていた。
いや、これは「不幸」だよなと思ったら、こっちでは、二人は結婚して「ハッピー」になっちゃってた、という描写になってしまっている。
対して、栞はどうしたんだ、となるだろう。よく分からないが、彼女は、それらしき存在として登場しない。というのは、もしもその世界線で「接点」があったら、また「不幸」が「再現」してしまうからだ。
ただ、暦が年を取り、老人となったところで、たまたま、路上で彼女「らしき」女性と出会い、その女性は「今、自分は幸せだ」と言うわけだが、暦はそれを聞いているのにも関わらず、その相手が、栞だということに気付かない。
うーんwww これさ。栞が暦とは別の人生を歩んだでいいけど、それならそれで、その人生を描かなきゃダメだよね。いや、逆に、暦の人生を描いちゃって、暦は立派に

  • ハッピー

になっちゃってるんだよね。それ、さ。二作目で、「たとえ自分が彼女のことを覚えていないという不幸になったとしても」っていう形で悲劇的に語っていたけど、むしろ、

  • そうだからこそ、和音と幸せになることができた

という関係になってんじゃん。二作目では、暦の心の中にはずっと、栞がいたから、暦と和音は結婚できなかった。そうしたら、幽霊の栞は暦に、「自分のために暦が不幸になってほしくない」と言うわけね。そうしたら、別の人生を歩んだら、暦が「ハッピー」になって、これみよがしに、視聴者に自慢するようになっちゃった。
おそらく、二作目の方で、暦をハッピーで終わらせなかったから、そういった暦がハッピー展開にしたんだと思うけど、でも、そんなものを見せつけられても、

  • 全然、視聴者には「栞の人生がハッピーになった」

というふうに解釈できないんだよねw なんだろうね、この失敗作。
あのさ。暦は、たとえ自分が不幸になったとしても、栞が幸せになる世界線に行きたいと思うなら、ちゃんと栞が「幸せ」になる物語を描けよ。そうじゃないと、説得力がないだろ。しかも、それをしないで、さんざんっぱら、

  • 暦が(栞がいない世界線だから、和音と高校時代から付き合い始めて)ハッピーになる「いきさつ」を、これでもかと視聴者に見せつける

展開になっているんだけど、これって、なんの嫌がらせ、なんだろうね。
いや。普通に考えたら、この世界線の栞は、暦と「知り合えなかったことが不幸」なんじゃねーの。だって、そういった運命の二人「だった」というのが、二作目の主張だったんでしょ。矛盾してんじゃん...。