なぜスパスタ2期の最後は賛否を呼ぶ形になってしまったのか?

今回、ラブライブスーパースターの2期が終わったことを受けて、さまざまな賛否両論が起きている。その多くは、この

  • 混乱

への受け止め方についての論争が多い(もちろん、以前から、かなり批判的な立場からの、ほとんど、罵詈雑言と変わらないヘイトをたれ流している人もいるが、そこまでラディカルな人は少ない印象だ)。
ここでの「混乱」とは、言うまでもなく、最終回の最後の「やっぱり留学は中止」とだけ伝えられて、かのんが驚いている「顔芸」のドアップで終わるエンディングのことだ。つまり、

  • まったく、2期の話の中で発生したフラグが「かたづいていない」まま、2期が終わる

という、この「謎の演出」を、とはいっても、2期が終わったことは確かなんだから、じゃあ少なくとも「2期」そのものの作品としての、全体のメッセージ的なものは、どう、かたづけたのか、という疑問は消えないわけだ。
(こういったアニメの比較として、今期のリコリコを考えることもできるだろう。リコリコの最終回も確かに、謎だらけで、賛否を呼んでいるが、あちらには一定のカタルシスがある。まず、千束の寿命の問題が解決している。あと、最大のフラグだった「千束がこの世界をどう考えているか」が、きちんと描かれた。そういう意味で、作品は、ちゃんと「日常に戻る」という形で、「完結」している。)
まず、最初に言っておかなければならないことがある。この作品シリーズは、ひとまず、「ギャグアニメ」的テイストとして無印の頃から作られている、ということを受け入れることだ。それは、なにを意味しているかというと、

  • 描写のリアリティを追求するタイプの作品じゃない

ということだ。つまり、これを「きらら系」と言ってもいい。以下の二種類に分かれる:

  • (この後の、大事なメッセージのための「つなぎ」として用いられている)ギャグ的な要素
  • この作品自体が伝えたい、なんらかの「メッセージ」の部分

前者は多くの場合、「ギャグ」として現れる。この場合、リアルな描写と比べて「おおげさ」な、まさに「漫画的」な描写となっている。さまざまに「おおげさ」に描かれ、見ている人に「笑ってほしい」という「ウケ狙い」という側面がある。
こういったものは、多くの場合、たんにそこにあるというより、その後の

  • 大事なメッセージ

を、必然的にストーリー展開として用意するための「フラグ」として機能していることが多い。だから、簡単に「ありえない」から、邪魔なものとして、削除すればいい、とは言えない側面がある。
それぞれの場面に対応して検討すると、以下だ:

  • 葉月恋の家庭の金銭問題 ... 2期の中で、まるまる、一話を使って描かれた、恋のゲーム廃人のギャグ回は、恋の母親が亡くなっている「あまり、一般の人が想像できない」シチュエーションに対して、彼女を比較的に「親しみのある」存在としてバランスをとるために、描かれなければならなかったのだろう。
  • オニナッツの契約書問題 ... 彼女の「今まで一度も一番になったことがない」という、夢が叶わなかった過去を強調するために、そういった過去があるために、今、かなり「ニヒリズム」的な生き方をしていることを強調するものとして用意された「小道具」なのだろう。
  • かのんの留学問題 ... この留学というテーマは、無印で、ことりを巡って行われたテーマであったこともあり、これをオマージュとして再現しなければならなかったことは、おそらく、最初からテーマとしてあっただろう。だから、この「留学問題<そのもの>」が、この作品の「テーマ」ではない。そうじゃなくて、この「ごたごた=トラブル」を通じて、何を伝えるか、という所に、話のポイントがある。

まあ、簡単に整理すると、こんな感じになる。
この、スパスタを無印との比較で整理すると、以下になる:

  • 無印で、穂乃果がスクールアイドルを目指すのだが、そもそも彼女は、音楽に興味もないし、ましてや、アイドルに「あこがれていた」わけでもないw 彼女は<純粋に>廃校を阻止したい、という「優しい」心から始めている。それに対して、視聴者は、そういった「優しい女の子を応援したい」という形で、アイドルへの「熱狂」が自然発生的に湧き上がっている。
  • スパスタの、かのんは、(いい悪いは別にして)歌うのが好きな女の子だった。だから、高校は音楽科を受験した。しかし、受験に失敗して、「やさぐれ」た形で一話に登場する。そんな彼女がスクールアイドルをやるようになるのは、唐可可が誘ったからであり、その後で、学校の廃校問題は知るようになる。つまり、結果として、ラブライブを目指すようになるということでは、途中の経過を無視すれば、無印と同じ「優しい女の子」という形式は守っている、ということになる。

こういった形で、スパスタと無印は、かなり意識して、作品の序盤の形式を似通わせている。だとすると、問題はなにかということになるが、やはり、無印の一期の最後で発生した、ことりの「留学」問題であり、そこで取り上げられることになった、さまざまな論点が、2期の最後で、おそらく反復されている、と考えるのが自然なんじゃないか。
では、それは何かというと:

  • 穂乃果はラブライブを目指すことに「否定的」となる。なぜなら、もうすでに、廃校問題は解消されていたから。つまり、そこまでして、スクールアイドルをやることに意味を感じていない。
  • ことりが留学することを、穂乃果は直前になって、空港で引き止めるわけだが、その理由は単純に「一緒にいたい」という、ただただ、彼女の「わがまま」だった。しかし、そもそも、ことり自体が、穂乃果がそう言ってくれるのを待っていた、といった描写がある。

無印のこの部分の解釈は難しい部分があって、ようするに、無印2期で「なぜ、ラブライブに出場するのか」というテーマが、実は裏にあった、という背景を意識する必要があるのだ。
スクールアイドルを止めてもいい、と言っていたのに、なぜ穂乃果が続けることにしたのかは、明らかに「ことり」が留学を止めたことと関係している。しかし、そこの関係は描かれなかった。ここは、無印2期の評価に関係しているところでもあるだろう。
対して、スパスタ3期はどうなのか? かのんの「やさぐれ」の問題は、一期である意味、完全に「解決」してる。廃校問題も、一期で解決している。そう考えると、そもそも、二期で、「なぜラブライブに出場するのか」の問題が描かれてもよかった。
しかし、そうしなかった。というのは、この段階ではまだ、「留学問題」が扱われていなかったからだ。
スパスタが、2年になってもスクールアイドルを続けたことには、幾つかの差異が関係している:

  • もともと、かのんには、歌うことへのモチベーションがある。
  • 予選敗退しているので、次は決勝進出という、自然な流れがある。
  • 唐可可の「帰国」問題が、伏線としてある。
  • 1年の新たなメンバーは、モチベーションがある。

こういった形で、スパスタ2期は、全体として、ラブライブ優勝を目指している、ということが強調されているわけだが、明らかに、なぜなのかの描写としては弱いと言わざるをえないんじゃないか?
無印において、留学問題は、なぜ穂乃果が2期で、ラブライブに再び目指そうとすることになったことへの「動機」を説明するものとしてあったはずだ。そうだとするなら、スパスタにおいても、留学問題こそが、そういった位置付けの概念として現れなければ、整合性がとれなくなる。
ではここで、スパスタ2期、最後の、留学問題を考えてみたい。まず、千砂都が、かのんに留学を勧める、という流れは、上記で説明した「ギャク的要素」、つまり、

  • この後に、大事なメッセージを描くための伏線

として扱われていることに注意しなければならない。だから、これを「真面目」に受け取ってはいけない。
おそらく、ここでの千砂都とかのんの関係は、無印での、ことりと穂乃果を反復している。ただし、まったく立場を逆にして、だが。だとするなら、その文脈で整理をすると、

  • 「ことりと一緒にいる」=「ことりも穂乃果がそう言ってくれることを待っていた」=「スクールアイドルを続ける」

これを、字義通りに対応させると以下となる:

  • 「かのんと一緒にいる」=「かのんも千砂都がそう言ってくれることを待っていた」=「スクールアイドルを続ける」

しかし、実際には、以下だった:

  • 「かのんと一緒にいない(かのんは留学すべき)」=「かのんも千砂都がそう言ってくれることを待っていた」=「スクールアイドルを続ける?」

大事なことは何か? 無印との対応で考えれば、この留学問題で、本来、摂取したい概念は「なぜラブライブに出場するのか」の答えでなければならない。すでに、廃校の危機が免れていながら、なぜ、ラブライブを目指すのか。この答えを、留学問題から摂取しなければならない。
そう考えたとき、上記の第3の方程式の問題は、最後の等式が成立していないことであることが分かるだろう。
しかし、大事なポイントはそこじゃないのだ! この留学問題を契機として、ラブライブ出場問題が解決する、という「構造」である。そう考えるなら、なぜ、今回、こんな結末になったのかが分かるだろう。
留学問題は、実際に、留学するかが問題じゃない。この「問題」によって、何が「解決」されるのか、が問われている。そのために「必要」だから、留学問題が「問題」として描かれる。描かれるのは必要であり必然だから描かれているのであって、それ以上でも、それ以下でもない。
無印で、ことりが留学する直前まで行ったのは、「穂乃果に止めてほしかったから」という理由がある。つまり、「これ」を描くことが必要だったのだ! もっと言えば、これを描いたから、2期で、ラブライブを再び目指すことを描くことができた。
スパスタも同様で、「千砂都に勧めてほしかったから」という理由がある。「これ」を描くことが必要だったのだ! もっと言えば、これを描いたから、なぜ、3期で、ラブライブを再び目指すのかを描くことができるようになる。
まあ、そう考えれば、スパスタ2期の最後で、留学が取り止めになったという「終り方」が、そこまで(話の流れを無視した)ものでないことが分かるだろうw 言わば、無茶苦茶だ。しかし、この大どんでん返しは、むしろ、そうしたから、

  • 上記の三つめの方程式の最後の等式を「成立」させることを可能にしている

わけだから、「だったら、それでいいじゃん(そこは、たいした問題じゃないじゃん)」と脚本サイドは考えている、というわけである...。
大事なポイントは、「スパスタが、かなり意識して、無印のオマージュを描こうとしている」と解釈することにあるんだと思う...。

追記:
おそらく、3期のラブライブ優勝を目指す動機として、卒業したサニパが再び、かのんの前に現れて、自分たちが目指していた、二連覇を達成してほしい、といったことを言うのだろう。つまり、結果としては、あまり、ここを正面から描くということはないように思われる(まあ、そういった演出も、無印のオマージュということになるのだろうが...)。

追記:
上記の内容は必要十分に書けたとが思うが、結局、なぜ穂乃果が再びラブライブを目指したのかが明示されていないと思う人はいるかもしれない。それは、作品としての無印がそうなのだから、というしかないわけだが。
一応は言っておくが、アニメ・リコリコの最終回はそこをわかりやすく示している。ミカはよしさんに「われわれ大人は、子どもたちの邪魔をしてはいけない」といったことを二人だけがいる場所で言うわけね。つまり、

  • あおはる問題

なんだ。ラブライブシリーズも、基本的に大人たちが前面に登場することはない。しかし、大人たちはそこにいる。それが、

  • 教育問題

だ。教育問題とは、子どもが教育を受ける問題ではなく、大人が子どもが教育を受けられるように環境を整える問題だ。
穂乃果が再びラブライブを目指すようになる前にある、留学問題は「幼なじみ問題」として描かれる。幼なじみは過去からの関係だが、しかし、そのことは、必然的に「今」を意識させ、内省させることになる。今ここにある、リエラのメンバーの関係は何ものにも変えられない、かけがえのないものだ。しかし、当事者の子どもたち自体がそのことに気づくことはない。
子どもたちは、意識することなく、学校の中で、様々な「団体行動」を行うことになる。しかし、大人にとって、それは違う。大人は、かなり意識して、子どもたちに協同行動を強いている。なぜなら、そこに「教育的意味」があるからだ。
穂乃果にとってスクールアイドルをやめることは、どうでもいいことに思えたのだろう。しかし「大人」にとっては、そうではない。部活動は「教育的意味」がある。彼女たちスクールアイドルがラブライブに出場することも、各部活が各種大会に出場することも意味は変わらないわけだ。
しかし、子どもたちは、それを意識しない。ただし、例外がある。それが、その子どもたちが大人になったときだ。その時、初めて、それが「青春」だったと気づくのだ..。