子安宣邦『神と霊魂 本居宣長・平田篤胤の<神>アンソロジー』

本居宣長については、1960年代くらいから、一つの「ブーム」があった、それは、古事記伝を中心としたものだったわけだが、結局、戦前の皇国史観の一つのバックラッシュとして現れた。

一九六〇年代とはたしかに戦後日本の転換点であった。政治的にも、経済的にも、思想的にも、学問的にも。日本ナショナリズムの記念碑的国学者として戦後的批判の中にあった本居宣長もまた六〇年代に再評価されていった。小林秀雄吉川幸次郎によって宣長の『古事記伝』の注釈学的作業が高く評価されていったのもこの時期であった。

1945年の敗戦から、20年以上が経過して、占領軍による統治を終わり薄れかけてきて、戦前の

  • 復古

を目指す色気が出始めると共に、そういった「復古」のあがきが陰謀されるのと対をなして、今度は大衆的な「戦前の支配者たちへの糾弾」が始まったのもこの時期だった。そしてそれは、それ以降の、10年以上続く、

として、結果していく。
ただ、こういった政治思想の流れと、上記の小林秀雄吉川幸次郎などが行った、宣長の「古事記伝」における、

  • 注釈学

という「学問」としての

  • 質の高さ

の話は、いったん分けて考えた方がいいわけだろう。考えてみれは、宣長は、ある意味で、あの江戸時代に、ほとんど一人で、この「国学」を発明したわけだから、確かにこれは、驚異的な仕事だったわけだ。その時代まで、そもそも、古事記とは、「読めるもの」と考えられていなかった側面がある。まあ、その意味は、日本書紀が「正史」と考えられていたから、といったこともあったのだろうが。
とにかく、宣長以降、古事記は「読めるもの」に変わった。ある意味で、ここから、日本の

  • 保守思想

は始まった、とも言えるわけだ。
しかし、である。
だとすると、そもそも、宣長とは何者なのだろう? 彼の出自とは? なぜ、彼がそんなことを始めたのか? 彼が、どういう人物だったから、そういった「保守思想の原点」となれたのか?

春台は挑発します。

「日本には元来道ということは無いのです。近い時代に神道家というものがいかめしく、わが国の道として神道を高妙な教えのように説いたりいたしますが、それらは皆後世になっていい出された虚談妄説に過ぎません。日本に道ということの無い証拠は、仁義・礼楽・孝悌という漢字にあてる日本語の訓みがないことに明らかです。......神代より四十代の天皇の頃までは、天子でも兄と妹・叔父と姪も夫婦になるように人倫の道を知らなかったのです。やがて異国との通路が開かれ、中華聖人の道もこの国に行われるようになりました。天下の万事は皆中華に学びました。それよりこの国の人びとも礼儀を知り、人倫の道を覚り、禽獣と同じ行いをしないようになったのです。」

後世の日本で説かれている神道といったものは「虚談妄説」だという春台の既成神道批判に、宣長もまた同調したでしょう。だが「日本にはもと道無し」といい、聖人の道によって教化される以前、天子の行いも「禽獣に等し」かったという春台の発言は、伊勢人宣長に許容しうるものではありあせん。宣長による、「日本にはもと道無し」とする儒家春台の「聖人の道」への激しい論駁「道ということの論い」はここからなされていくのです。

宣長が「伊勢人」とあるように、伊勢神社と関係があったことは知られているが、そもそも彼は、当時の

  • 徂徠派

に学んだ人だった。上記の引用の中の引用は、太宰春台の「弁道書」からの引用(の翻訳)で、宣長の「手法」は完全に、

  • 徂徠派が、論語などの漢籍を<解釈>学的に読み進める手法

そのものだったわけだw いわば、なぜ、宣長が「古事記」を

  • 読める

と考えたかには、この徂徠派による、徹底した

  • 学問的成果の蓄積

があった。言わば、彼はそれらを<剽窃(ひょうせつ)>したわけだw
しかし、いずれにしろ、彼がそうしたことには理由がある。上記の引用にあるように、徂徠派は徹底して、儒教である。つまり、中国からの舶来の思想だ。ここに、明確な

  • 切断

がある。ここから、私たちは彼らの思想を学ぶのであって、日本はそこにはない。まだ学んでいないのだから、日本が

  • 禽獣

と変わらない、と言っているのはそういう意味だ。
しかし、それで宣長は納得しない。そもそも日本は、その成り立ちから、尊敬に値する、価値ある国家だったはずだ、と。そうでなければ、それを守っていく価値がない。ここから、「古事記伝」の序論として付加されている論文「直昆霊」における論争の書が書かれる。
ところで、掲題の本はタイトルにあるように、一方で国学者としての宣長をとりあげながら、他方で平田篤胤を論じている。しかし、この二人はたんに時代が重ならないだけでなく、それ以降の歴史において、まったく、扱いが違っていた。
戦前の皇国史観において、そもそも、平田篤胤は「異端」として、完全に無視されただけでなく、弾圧すらされた。戦前の皇国史観は、完全に、

をベースに作られた。確かに、平田篤胤は一方で、宣長の「正統な継承者」を自認しているが、いろいろと見ていくと、そもそも、宣長をどんどんと逸脱している。しまいには、中国における、キリスト教の受容である、天主教すらも受容していったわけで、宣長平田篤胤では、そもそもの学問の

  • 動機

のレベルから違っていると考えるべきなのだろう。
そこから、掲題の著者は、平田篤胤を最大限に評価する。
そう考えたとき、問題は宣長なのだ。宣長が残した、さまざまな「皇国史観的なイデオロギー」が、そもそも、どういった文脈から現れた言辞だったのか? これを詳らかにすることなしに、私たちが

  • 戦前の呪縛

から解放されることはない。

異国は、天照大御神の御国でないがゆえに、定まった主はなく、荒ぶる神たちがところかまわず騒ぎ立てるので、人心も悪くなり、世の習わしも乱れてしまい、卑賤のものが国を奪い取って、たちまち君主ともなる国である。それゆえ上のものは、下のものにその地位を奪われないように構えをし、下のものは、上のものの隙をとらえてその地位を奪おうと謀りごとをして、上と下とが相互に敵となりあって、古えより治まることのない国である。そのなかでも威力あり、智恵をもち、人民を手なずけて、人の国を奪い取り、あるいは自国を奪われまいとする謀りごとばかりをして、しばらく国を治めて、後の世の模範ともなった者を、唐土(もろこし)では聖人というのである。

この宣長による論文「直昆霊」における、中国の「聖人」への罵詈雑言は、そもそもの文脈を知らない、多くの人にとっては、あまりにも

  • 異常

に思われるだろう。いや。宣長は、その徂徠学派に所属して、その儒者の言葉を学んでいたんじゃないのか? なんで、先学の租を、こんなに口汚く、ののしるのか。

「聖とは作者の称なり。楽記に曰く、作る者これを聖と謂い、述べる者これを明と謂うと。表記に曰く、後世作者有りといえども、虞帝には及ぶべからざるのみと。古えの天子は、聡明叡智の徳有りて、天地の道に通じ、人物の性を尽くし、制作する所あり、功は神明にひとし。利用厚生の道、ここにおいてか立ちて、万世その徳を被らざることなし。」(『弁名』「聖」第一則)

徂徠は「聖人」を人間の祭祀的・社会制度的・文化的体系の「製作者」だとする。この聖人概念の革新から、新たな社会哲学的儒学としての徂徠学の展開もあるわけだが、宣長はこの徂徠による聖人概念の革新から強い権力意志をもった製作者=聖人による詐術的支配からなく社会を<漢>に想定していくのである。

荻生徂徠が「弁名」を書いてから、宣長が論文「直昆霊」を書くまでには、50年以上あるわけだが、こういった、当時の

  • (徂徠による、かなり奇抜な)学問的成果

が、かなり歪かつ、奇妙な(低俗的な、ただただ、日本的文脈でしかない)「読み替え」宣長において起こっている、というところに、この問題の、なんというか

  • 質の悪さ(そしてそれは、戦前の皇国史観の「欠点」にも繋がる)

に関係しているところに、この問題の、たちの悪さを感じるわけだ...。