新海誠監督の最新作を初日に見に行ったわけだが、別に予約せずに、そこまで見難い席でもなく見れたわけで、なぜなのかと思ったけれど、単純に帰りは「終電」しかなかったのでw、それに間に合わない人は、この時間に見なかっただけなのだろうと納得した。
しかし、私は以前の、「君の名は。」で、やったら、高校生ぐらいが、口コミで人気が出たのだと思うが、かなり並んでチケットを買った記憶があるので、まあ、あの頃と違うのは、
- 人気監督になったのでw、(短い時間のスパンで大量の席のスクリーンを割り当てられて)最初から大量の席が用意されている
ということなのだろうと思った。まあ、過去からの学習はマーケティングの基本ですからね。
映画の内容について、ここでは語るというより、まあ、予想はできたわけだけれど、以下のようなネットの反応について語っておこうかなと思ったわけだ。
新海誠監督の作品は別に、「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」の三つだけじゃない。しかし、この三作が語られるのは、この三つが、明確に
- エンターテイメント
として作られているからだ。特に、「君の名は。」は興業として成功した。つまり、ここに明確な分岐点がある。
それ以前の彼の作品は、どちらかというと、私小説のような、もっと個人的なことを描こうとしたんだと思う。対して、この三作は、あまりそういった動機を表に出さないようにして、もっと、大衆受けするものを「そのまま」提供することを意識している。
しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、そうしたがゆえに、大衆の需要に反した側面が強調されている、と指摘されるようにもなっている。
彼の少なくとも、この三作に見られる特徴は、
なんじゃないか。つまり、「自然風景」がジブリと比べると、かなり、意識して違って、よりリアルというか、いや、むしろ極端に「美しく」描かれている印象がある。
しかし、である。
そのことが逆に言うと、
- 自然の「危険」な美しさを描く「誘惑」
と切っても切れない関係になるのだと思うわけだ。この三作は、言ってみれば、「恋愛物」だ。思春期の子どもの素朴なラブストーリーであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、それを超えたものを描こうと思っていない。
しかし、他方において、どうしても「自然」が意識されていく構造になっている。「君の名は。」のヒロインは神社の子どもで巫女的な隠喩を感じる描かれ方をしていたし、「天気の子」はもっと直接に天気を操れる特殊な能力をもつ存在として描かれていたわけだが、こういった存在のそもそもの役割は
- 自然の脅威への人々の恐れ
にあったわけで、どうしても構造的にそういったものを示唆するストーリーにならざるをえない。
本編は徹底したラブストーリーとして描かれながら、バックグラウンドに流れる設定の部分で、明確に自然災害を意識させるものになっていることは、上記のネットの意見にあるように、
- 不穏
であり、かつ、「危険」なものとして、特に、前回の「天気の子」から警戒されるようになってきたと思っている。
この構造は、今回の「すずめの戸締り」でも変わっていなくて、より
- 3・11
を意識させるものになっていることは事実だろう。そのことは、映画試聴時の配布物にも、パンフレットにも監督自身がインタビューで答えているわけで、そもそも、新海誠監督の映画を見に行くという時点で、こういった映画になるだろうと考えて行かない人がどれくらいいるのか私は素朴に疑うくらいなのだが。
芸術家として、社会のタブーに挑戦しようとすることは、こういった「エンターテイメント物」であればあるほど、そういった誘惑はあるだろう。そもそも、こういったお金儲けに全振りした作品を作ってている時点で、監督には大きなストレスがある。なんの「毒」もない、誰が見ても批判しないものを作って喜ぶ芸術家の方こそ、お前は芸術家じゃないと普段は思っている奴ほど、こういった作品に対して、ヒステリーを起こしやすいのだろう。
当たり前だけど、芸術作品を見ることは「危険」なのだ。なぜ芸術作品があるのかといえば、社会が「間違っている」と考えるからだろう。だから、なにかをやらなければならない、という、そういった「表現」の一つとして芸術作品がある。じゃあ、何が間違っていたのか?
- 3・11で、ニュースが徹底して、福島の津波の「真実」の映像の流すことを拒否した
ことだ。これによって、PTSDを回避できたのかもしれないが、これによって、私たちは真実と向き合うことをやめた。やめたから、この日本は今も没落している。
こういったことは、今の日本で、あらゆるところで起きているんじゃないか?
日本経済はバブル以降、ずっと衰退して、ほとんどの産業分野で目立った存在ではなくなった。政府は「大企業優先」で、円安低金利政策を行い、その中で、産業競争力を失ってしまった。
今も、政府はガソリン補助金、電気代の補助金で、エネルギーインフレを国民に意識させない政策を行うことで、
- 国民が、ガソリン代節約や電気節約へのモチベーションが起こりにくい、「無駄遣い」を「奨励」する
政策になってしまっている。
誰も今の世界の真実に向き合わないような政策が行われ、それに国民も、まんまと「マインドコントロール」され、今では、誰もが3・11などなかったかのように、原発再稼動の大合唱だ。
ほんと、ゴミ屑のような日本社会であり、そして、そんなゴミ屑社会に「ふさわしい」w、ゴミ屑評論家が、自分のエゴイズム剥き出しの「自己中」な自意識たれ流しをやっているのが、この日本というわけだ。
社会学者の宮台真司は、近年の「口癖」は、リチャード・ローティだ。つまり、彼が語った
- 国民意識の幻想
つまり、国民は「仲間じゃない」んだから、国民は助け合わない。だって、「俺はお前を知らない」んだから、なんで助けなきゃならないのか分からないじゃないか、と。ローティがここで強調していたのは、逆で、
- 私たちが普段思っている仲間意識からしか、私たちの感情は調達できない
という方だったわけだ。つまり、そういった感情を、普段の自分の回りの人間関係を超えて調達できると考えることの幻想性を指示していた。
ところが、宮台においては、強調するポイントが、
- お金持ちは貧乏人を助けなくていい
になっている。だって「他人」だからだw お金持ちは自分が貯めたお金を減らしたくない。なんで知らない貧乏人に自分の集めたお金を奪われなきゃならないんだ。
まあ、大学教授になって、家族も子どももいて、東京の一等地に住んで住んでいる「セレブ」学者が言いそうな言葉だよな。ようするに、こういった上級国民は、
- 自分のお金を貧乏人に「奪われたくない」(=社会主義に反対)
の一心で、今まで生きてきたわけw
おもしろいよね。
というのはさ。どうして、お前は社会学者なのに、レベッカ・ソルニートの『災害ユートピア』を読んでいないんだろうね。
つまり、さ。こういった「御用学者」の特徴は、自分で恣意的に
- 自分の上級国民としての地位を脅かすような社会の真実を隠そうとする
わけね。これ、完全な「ブルジョア知識人」の特徴なわけ。お前が気に入った知識だけで、日本の苦しい日々を、あがき生きている人を
- クソウヨ豚
- クソフェミ
とか言って、罵倒して、なるほどね。社会学って、自分より弱い立場の人を「罵倒」するとなれるんだw だったら、俺は絶対に死んでも社会学者にならないし、社会学者を名乗らないわ。
ほんと。坂口安吾が戦争直後に堕落論を書いたけど、まずお前が堕落したら? そうしたら、そういった人たちの気持ちが分かるようになるから。そうなってから、社会のことを語れよ。恥を知れよ、俗物。
日本に住んでいる人にとって、私の肌感覚としては、毎日のように地震が起きている感じがある。当然、東京に3・11が来たって不思議はないと思っている。そして、そうなれば、あの被害など比べものにならない事態になるだろう。レベッカ・ソルニートの『災害ユートピア』は、そういった災害の現場においては、
- (逆説的だが)ある種の「ユートピア」
が実現している、ということを主張している論文だ。つまり、そこにおいては、多くの道徳家がいっくら説教しても実現できなかった「理想社会」が現れる、と。そこでは
- みんなが助けあっている
のだ! 私には、たったこれだけで、ゴミ屑・宮台真司を論破していると思っている。私たちは日々経験している地震に潜在的な部分で、怖さを喚起されているわけであり、なぜ日本が比較的に、治安がいいのかも、ここから類推できる。つまり、日本には、レベッカ・ソルニートが『災害ユートピア』で示唆したような、ある種の「ユートピア」が実現している。
しかし、こういった人々の潜在的な衝動に由来するものには、やはり、他方において、人々の「野蛮」な倫理的実践が欠かせない。新海監督は、今回の作品で、主人公に幼い頃に災害で母親を亡くした女の子を描いている。そして、その幼少期の子どもが、いなくなった母親を探す場面は、この映画で一番印象的だ。しかし、おそらく一番
- 批判
の多い場面だろう。それは、3・11でのPTSD、トラウマを喚起させる表現だからだ。
しかし、そういった「真実」を、いつまでも隠し続けていいんだろうか? いつかは、本当のことを描かなければならないんじゃないのか。新海監督が考えていることも似たようなことなのだろうし、それは「危険」なことでもある自覚をもって、確信犯としてやっているわけだ...。