アニメ「School Days」の気持ち悪さ

アニメ「School Days」は、2007年に放送されたテレビ放映のアニメだが、原作は、アダルトゲームとなっている。当時は、Windows OS で動くPCゲームがよく売れていた時期で、こういったアダルトゲームが原作となったアニメがよく作られた、と言っていいだろう。
ちなみに、この「School Days」というアニメは、

  • 評判の悪いアニメ

として、よく知られている。つまり、典型的な

  • 鬼畜アニメ

だ。主人公の男の子の名前である「伊藤誠」で検索してみればいい。膨大な非難の言説がネット上でヒットする。
第一話は、高校生の主人公と二人の同級生の間の「三角関係」として話は展開されていて、少し「不穏」な雰囲気はあるが、そこまで違和感があるというほどではない。
伊藤誠が毎日通勤の電車で出会う、隣クラスの桂言葉(かつらことのは)に遠くから見て、あこがれていたが、告白できずにいた。同じクラスの、西園寺世界(さいおんじせかい)は、伊藤誠がケータイの待受画像に、桂言葉を隠し撮りしたものを使っているのを知った彼女は、二人のキューピット役を買って出る。二人を引き合わせることに成功した後、誠は言葉に告発するが、あっさりとOKとなる。実は、彼女も通勤で同じ車両になっていて、誠が気になっていた、という。
まず、「当たり前」のように、誠は言葉をケータイで「隠し撮り」する。これが、少しも悪いと思っている素振りはない。こんな感じで、

  • なんか変だな

と思い始める。とにかく、「表面的」な描写は、よくある青春ドラマの登場人物に「見える」が、だんだんと、その振舞いの端々で、

描写が増えていく。確かに、最初に「不倫」を誘うのは、世界だ。しかし、それを「当たり前」のように受け入れながら、言葉に対して、まったく「謝罪」をしようとしない伊藤誠。しかも、こいつの「セクハラ」がすごいw 作品のあらゆるところで、伊藤誠は、西園寺世界の尻を後ろから触るw 最初は確かに西園寺世界に「誘われ」て、彼女と伊藤誠とセックスをするわけだが、一方で言葉との関係がまったく進まなかったのに比較されて、こっちの肉体関係の急速な進展が、対照的に強調される。世界との肉体関係が何度も何度も反復して描写される。
その後、伊藤誠は次々とクラスの女の子と肉体関係になっていくがw、最終回で、伊藤誠西園寺世界に包丁で、何度もメッタ刺しにされて死ぬ。その西園寺世界桂言葉に切り殺されて、最後は伊藤誠の頭部を抱えて、ヨットの上で夕日を眺めている桂言葉の姿が写される映像の中で作品は終わる(桂言葉は、一貫して伊藤誠西園寺世界に「裏切られ」て、精神崩壊を起こしていることが匂わされる描写となっている)。
この作品の最終話で、虐殺エンドとなっているのは、映画「ドッグヴィル」を思い出させる展開となっている。とにかく、一貫して「気持ち悪い」のは、

だw ウィキペディアを読むと、アニメ版の監督は、このアニメを作成する最初から、伊藤誠エロゲーをさらに発展させて、「完全なる鬼畜」として描くことを徹底させた、と語っている。つまり、

  • 確信犯

として、それをやった、というのだw
結局、なにが「気持ち悪い」のかは、早い話が、これが

  • 今どきのアニメのキャラの「アニメ絵」

で描かれているところにある、と言えるだろう。アニメ絵の特徴は、「幼形進化」と言ってもいいが、全体的に「幼い」顔付きなわけだ。全体的に、顎が細く描かれて、これは

  • 子どもの特徴

と言っていい。ベビーフェイスで、その顎の小ささ、細さと対応して、目の大きいのが強調される。これは、

  • 美少年
  • 美少女

を描く場合のデフォルメで、もっと言えば、「幼児」の「純真無垢」さの特徴なのだ。
つまり、早い話が、分かりやすい「幼児ポルノ」の「テンプレ」を使っている。そういったものを使いながら、他方において、

が、その「性格描写」として描かれる。吐き気をもよおさせる、典型的なアニメの「幼児ポルノ的鬼畜手法」が駆使されているという意味で、私もこのブログで何度か検討させてもらった、鬼畜系作品と同じような「倫理コード」違反が「テクニック」として使われている、と言えるだろう。
おそらくこういったものも、長期的には「幼児ポルノの一種」として規制の対象となっていくと私は考えている。
しかし、フェミニズム的な人たちはどちらかというと、公共的な空間での、「アニメ絵の物質的なハレンチな<かっこう>」を、一里塚として戦っているケースが多い。おそらく、彼女たちは「インテリ」だから、言論の自由表現の自由に抵触することを忌避しているため、そういった「物質的」な分かりやすい領域で戦闘している範囲で「自分は間違っていない」と「安心」できるから、やりやすいというのはあるのかもしれない。
しかしそういったものは、他方において「ルール化」によって、聖域化されやすい領域であって、しょせんはそのルールをベースに議論をしていくしかない。だから、むしろ指摘をしているフェミニストの方が、その指摘の「唯物論的」な分かりやすさゆえに、自分たちの運動がそういった「表面的」なレベルの

  • 身だしなみ警察

レベルのものと同一視され、本当の思想的な救済の運動から、かけ離れたものとして疑われかねない懸念があると思われる。
今回のアニメ「School Days」のアニメ絵の、こういった「児童ポルノ」性は、さまざまな「テクニック」とからみ合わされて、大きな効果を狙おうと作成されているわけで、むしろ、フェミニズム側がそういった文学的テクニックに対して、

  • ナイーブ

であるがゆえに、その「悪質」性が社会悪として、戦う相手として「認識されない」という問題があるように思われる。つまり、ポルノ作成側から、フェミニストは「((パンツが見えているかどうかのような、公共の場に飾られるものの)表面上のどうでもいい一部の物質的なアート表現ばかり気になっているだけのw)扱いやすい相手」として、馬鹿にされている。そして、実際にそれに対して、フェミニスト側も有効な戦線を引けていない、ということがあるのだろう...。