アニメ「Do It Yourself!!」

学校において、「能力」の測定が

  • フェア

だと考える、東大出身者のたいていが「早生まれ」であることを誰も指摘しないのはなぜだろう? 当たり前だけど、4月産まれと3月産まれでは、そもそもの

  • この世に産まれてから生きてきた時間

が、ほとんど一年違うんだから、4月産まれが「大人っぽく」て、3月産まれが「子どもっぽく」なるとのは当たり前なんじゃないか? ところが、学校の成績が、その人の「能力」の測定において

  • フェア

だと考えている人は、この成績の「差異」を

  • 絶対的な、その人の本質

と考えて、これをベースにして、

  • 能力別の教育のウェイト付け

を行え、と主張してきた。彼らは、本気で、「進学校」に行くべきは、そういった、早生まれであるがゆえに、ほんのちょっとの「テストの点数」の高さを生み出せる「早生まれ」を、

  • 遺伝子から必然的に結果する「能力」

なのだから、この、ほんのちょっとの差異を理由にして、

自分はそれゆえに、「優等生」なんだから、その他の有象無象とは別格の、「これをやれば東大に入学できる」レベルの教育をやるべきだ、と。つまり、そういった

  • 優等生エリート

  • 一般国民

に、教育そのものの「差異」を行うべきだ、と考える。これによって、

  • 優等生エリートしか、(そもそも受ける教育内容が違うのだからw)東大に入学できない

という「結果」と必然的に、構造として達成される。
考えてみてほしい。たとえ、小学校一年生にしても、そのときのテストの点数の差を、「能力」なんだから、この差異は

  • 遺伝子

の善し悪しから導かれるんだ、と彼ら「いい成績の早生まれ」の子どもたちが考えるなら、学校は自分たち早生まれを「エリート」として、特別扱いすべきだ、と主張し始めるわけだ。なぜなら、そもそもの

  • 学校側

が、これは「フェア」だと言っているのだから。学校が、今の「テストによる点数」の差異を聖域化を行っているんだから、だったら、自分たちを特別扱いしないのは、言っていることとやっていることは矛盾している、と考えて、それは、

  • 暗黙的

に、早生まれは「エリート」といて扱われるべきだ、と、毎回毎回、いい成績なんだから、言いたくなる、というのはあるわけだw
掲題の、今期、放映され、最終回を迎えた、テレビアニメは、主人公が

  • 結愛(ゆあ)せるふ

という高校生なのだが、この女の子は、とても「印象的」な描かれ方をしている。まさに「遅生まれ」の子どもの特徴を強調したような描かれ方で、とにかく、話し方もゆっくりしていて、手先が不器用なんですね。おっとりしていて、幼馴染のプリンが、いっつも、イライラしているような、いかにも「脳の回転が早い」ような女の子と比較して、その「おっとり」さが強調されている。
(ただ、作品としては、主人公の、せるふは、やたらと「成績優秀」という設定になっていて、中間・期末テストは学年トップだったりするわけで、なんか、無理がある、という印象が強かったがw)
主人公の、せるふは、そういった手先が不器用な女の子として扱われてきた関係で、子どもの頃に、そういった大工仕事を母親に禁止されてきた。だから、DYI部に入るときに、それによって、幼馴染のプリンと最近は縁が離れていたけど、もう一回、仲良くなりたいと始める。
結果として、ぷりんは、DIY部において、そういった「おっとり」とした性格であるがゆえに、彼女の回りで人が関わっていき、多くの人がDIY部と関わることになる。プリン的な、ドライで、効率的な考えの人だったら、無駄だからやらないような行動も、せるふの、そういった

  • 無邪気

な性格であるがゆえに、彼女に「まきこまれ」て、次第に関わるようになる。
しかし、ね。
本当には、どっちが「合理的」なんだろうね。
せるふの、そういった「遅生まれ」的な「おっとり」した彼女であるがゆえに、多くの人が、まきこまれて、部活動が大きく広がることを、最終的には感謝することになる。なにが合理的で、なにが正しいのか、といったようなことは、そんなに簡単じゃないのだ...。

追記:
小学一年生で「君は頭が悪いよ」と言われた子どもは、

  • ラベリング理論

という社会学の理論に従って、そのラベルに合わせて行動するようになる。なぜなら、周りはその人を「そういう人」と期待して見るようになるから。私たち人間はそうやって生きている。なるべく、情報コストを下げるように促されるわけだ。