アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」最終回

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」は、私が最初に見始めた頃から、多くの注目を集めて、大ヒットになったんじゃないだろうか。漫画が非常に売れて、世界的にも多くの視聴者が集まった。
私は、第1話で非常に感心したことについて、以前、このブログに書いた。そして、たしか、最初のライブハウスで演奏するための試験演奏の場面について、もう一度言及したと思う。
それ以降、私は特に言及しなかった。それは、一つは原作の漫画と基本的には同じストーリーであるから、というのもあるけど、もう一つは、このアニメが何を描くのかは、第1話が、ある意味で尽きていた、と考えている部分があったから、というのがある。つまり、それ以降はストーリー上必要だとしても、一つの様式美として、形式として描かれる、というものであって、その中には重要なものも当然、あるけれど、それらの一つ一つに対して、私が言及するものじゃない、という意識があった。
第一話で、主人公の後藤ひとりは、高校に入学して一ヶ月くらい経過した少女として描かれる。
彼女は、中学時代に友達がいなかった。そして、当時の中学の同級生がいない高校に入学したが、一ヶ月たって、いまだに友達ができなかった。彼女は、中学の頃、バンドをやれば、みんなからちやほやされる、という話を聞いて、その日からギターを毎日、6時間、自分の部屋の押入の中で練習するようになる。そして、今では、ギターは無上のテクニシャンになり、ネットの配信では、多くのフォロワーをもつまでに、その技術は認められるようになる。
しかし、それと「友達ができる」は両立しなかったw
あいかわらず、彼女はクラスの中で孤独だった。そんなある日、学校にギターケースにギターを入れて、それを肩にかけて通学することを思い付く。さすがにそこまですれば、みんなから「ちやほや」されるんじゃないか、と。
しかし、そうならなかった。誰も自分に話しかけなかった。こんなに分かりやすい、ギターを肩にかけているのに、誰も話しかけない。クラスの机に座り、ずっと、うつむいて、テーブルを見つめ、いつのまにか、放課後になっていて、クラスのみんなはいなくなっていた。
彼女は、学校帰りの途中にある公園のブランコに座り、「ここまでしても、友達ができない」ことに打ちのめされる。彼女はつぶやく。

  • 学校、行きたくないな

その時、虹夏が目の前に現れる。
彼女は、ライブハウスでのライブ当日に、ギターが逃げ出したため、ギタリストを探していた。その時、たまたま、ギターケースを肩にかけてブランコに座っている、ひとりを見かけて、彼女に臨時ギタリストを頼みに来たわけだ。
ここから、彼女の時間が動きだす。
まあ、こんな話なんだけど、ポイントはいくつかある。

  • 孤独な後藤ひとり
  • 虹夏との出会いの場面
  • 後藤ひとりのギターテクニックと、回りの人たち

この三つの順に考えてみたい。
最初のポイント:
後藤ひとりは本当に孤独だった。ずっと孤独だった。中学、高校と学校に行っても誰も話し相手がいなかった。この「長い時間」は、第1話の前半でまとめられてしまっている。しかし、この時間の方がずっと長いのだw 私たちはこの、彼女の「孤独」を考えるべきだ。そこにこそ、この話の本質がある。彼女の自らの「本性」はここにこそ、あるのだ。
次のポイント:
虹夏との出会いの場面の直前で「学校に行きたくない」という発言がある。つまり、ここは

が示唆されている場面だ。ここが重要なポイントだ。もしも、虹夏とここで出会わなければ、彼女は不登校になっていた、ということを意味する。彼女は本当に傷ついたのだ。自分が勇気を出して、ギターケースを肩にかついで登校した。さすがにここまでやれば、誰か一人は自分に声をかけてくれる、と思っていたわけだ。しかし、そこまでしても、誰も声をかけてこない。なんで、こんな「残酷」な人たちしかいないクラスに、毎日通わなければいけないの?
しかし、作者はここで不登校になる彼女のストーリーを描かなかった。という意味では、ここは、彼女の「妄想」がこれ以降は描かれている、と考えることもできるだろう。
最後のポイント:
後藤ひとりは、中学時代に誰も友達ができなかった間、毎日、自分の家の自分の部屋の押入の中で、6時間、ギターの練習をした。しかし、さすがにそこまで練習をすると、無茶苦茶、ギターがうまくなる。
虹夏とバンドを組むことになったわけだが、最初、彼女はそこまでうまいとは受け取られなかった。それは、ずっと一人で演奏していたから、回りと合わせて演奏することができなかったから、と説明されている。しかし、すでに最初の場面から

  • 回りの大人たち

は、彼女の特異な才能に気付き始めている。最初に、虹夏の姉の星夏がそれに気付く。次に彼女の才能に気付くのが、星夏の大学時代の後輩で、新宿のライブハウスで演奏しているベーシストの、廣井きくりだ。彼女は、後藤ひとりと知り合ってから、ちょくちょく、彼女に関わるようになる。
こういった大人たちは、大変に興味深い、

  • 対照性

を示していることが分かるだろう。学校のクラスでは、誰からも相手にされていない、後藤ひとり。誰にも注目もされていないし、誰も彼女を見てない。ところが、ライブハウスでの、後藤ひとりは、常に、星夏であり廣井さんが、

  • ずっと彼女を見ている

わけだ。なぜなら、彼女は間違いなく「将来」を目指すことができる「才能」があるからだ。彼ら大人たちは、彼女の極端な「コミュ障」をどれだけ認識していても、だからといって、彼女を無視しない。大人たちには、ある意味で、「才能」のある次の世代を潰さないで育てることへの、大きな「動機」がある、と考えることができるだろう。
作品はこういった形で、次第に、後藤ひとりは自分が「一人じゃない」ことに気付き始める。いろいろな人が自分を見ていて、自分を気にかけている。そういった回りの目に、少しずつ気付いていく中で、彼女も少しずつ成長していく、そういう話だ。
そこで、このアニメの「最終回」は、どういった内容で締めくくるのかな、というのが私の感心だった。
結果として、Aパートで、学園祭での演奏を描いてきた。これについては納得だ。というのは、この「事件」をきっかけに、原作の漫画では、後藤ひとりはクラスでもやっと認知されるようになっていく。彼女が中学時代からずっと、あこがれて、妄想していた、学園祭でのライブは、彼女が思い描いていたものとは違ったかもしれないが、結果としては、一つの青春として確実に、示されたものだった。
さて、Bパートは、ちょっとおもしろい。前半に、後藤ひとりが新しいギターを買う話をもってきて、後半は

という名曲を、後藤ひとりの声優が歌うカバー曲がバックに流れる、さまざまな景色が次々と切り替わる中で、後藤ひとりが、一人で、バイトに向かう場面を、たんたんと描いて終わる形になっている。
これは、アニメ制作の一つのテクニックだと言えるだろう。アニメの第1話のAパートで、後藤ひとりは孤独だった。よって、最終話のBパートは、確かに、一人でいる後藤ひとりが描かれる。しかし、その彼女は、第1話のAパートの彼女とは違っている。どちらも一人でいるが、違う。後者の彼女がそこで一人でいるのは、これからバイトに向かうからで、もう一人じゃないのだ。そこで、何が変わったのか、がフラッシュバックのように、次々と切り替わるシーンによって、そのシーンが今ではどう見えているかで示される...。