秀華祭の歌詞の謎

アニメ「ぼっち・ざ・ろっく」については、このブログでも、何度も言及してきたわけだけど、その作中バンドの、結束バンドの曲の歌詞については言及してこなかった。
ここについて言及するのが難しいのは、結局これは、「原作にない」要素だからだろう。つまり、基本的に原作準拠のこの作品において、これをどう考えればいいのかは、そんなに自明じゃない、というところがある。
ただ、そうは言ってもそれは、それだけで済む話ではないとも言える。原作は、4コマ漫画だが、なんというか、「アイデア集」とか「アフォリズム集」みたいなところがあって、これをアニメというストーリーにするというとき、明らかに、なんらかの編集を介さなければ不可能だろう、ということが分かる。それだけじゃない。そもそも、原作は「なにも描いていない」というくらいに、なんの、説明的なくだりが省略されている。文化祭の場面で、確かに、ぼっちはボトルネック奏法を原作でもするが、ほんとに、「さらっとふれている」だけで、まったく、説明的な、くだりがない。
そう考えると、このアニメは、ほとんど「創作アニメ」なわけで、アニメを見ることによって、始めて、漫画のこの部分はこういうことだったんだなと「発見」するようなことさえ、普通に起きうる感じさえするわけだ。
しかも、漫画に「歌」なんてない。なんか、演奏してるらしいシーンが描かれているだけで、アニメで演奏された曲は、完全な

  • オリジナル

だw つまり、これをどう考えるか、なのかだ。確かにオリジナルだ。しかし、そもそも、この作品には、この作品としての、物語としての文脈がある。結束バンドの作曲は、りょうさんが書いていて、歌詞は、ぼっちが書いていることが明確に分かっている(もしも、それから外れるものがあるなら、作品内で明示されるだろう)。よって、この曲を制作する側は、この「文脈」を意識せざるをえない。つまり、そこから外れることは、この作品の「欠点」を生産することになるのだから、重大なのだ。
その中でも、特に、最終話の秀華祭で演奏された二曲は、この作品のテーマであった「文化祭」での発表曲だったわけで重要だ。

  1. 忘れてやらない
  2. 星座になれたら

この二曲を比べると、一曲目の「忘れてやらない」は難しくない。言い方は微妙だが、つまり、多少、屈折した癖のある歌詞だけど、言いたいことは素直に聞ける。問題は、二曲目の「星座になれたら」だった。そのため、ネット上では、後者の歌詞の「考察」記事が大量に溢れた。
まず、一曲目だが、まあ、素直な解釈を以下の方がやってくれている。

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まず、なぜこの曲が最初なのかだが、ようするに、結束バンドがどんなバンドなのかが、一曲目で分かるようになっている。そういうものでなければならないわけだ。一曲目は、顔見せであり、自分を分かってもらうための曲だ。これによって、相手は「一つ」の印象をもって、それにもとづいて、このバンドへの直観をもつことになる。
じゃあ、ここに書かれていることはなにかだけど、

  • 青春

ではなく(!)、

だ。しかし、反語的だが、だからこそ、これは、ある種の

  • 青春

であることを、暗示的に示唆している、と言うこともできる。つまり、「ボクの青春」はこうだ、と言っているわけである。

ガタゴト揺れる満員電車
すれ違うのは準急列車
輪郭のない雲の 表情を探してみる

ここで言う「輪郭のない雲の表情」を「探」す、というのは、一般に言われているような、通俗的に単純化されている「二元論」を否定する、ということなわけ。つまり、世の中の人たちが言っているほど、この世界は単純じゃない。自分はちゃんとそれを見て、見極めるんだ、という一つの「踏み出す意志」が書かれているわけね。ただそれは、「探してみる」とあるように、なんとなく、ふらっと、どこかのお店に入る、といったような、明確な意志による選択ではない。

狭い教室 真空状態
少年たちは青春全開
キリトリ線で区切れた僕の世界

ここに明確に、原作準拠のフレーズが登場した、という印象を受ける。第一話で描かれていたように、ぼっちの世界は「孤独」の世界だ。もちろん、家に帰れば家族の暖かい団欒はあっても、ひとたび

  • 教室

に入ると、完全に彼女は「孤独」な存在として描かれていた。そこを踏襲した記述だと分かる。

誰かが始める今日は
僕には終わりの今日さ
繰り返す足踏みに 未来からの呼び声が
響いてる 「進めよ」と
運命や奇跡なんてものは
きっと僕にはもったいないや
なんとなくの一歩を 踏み出すだけさ

ここで、最初の、なんとなくの「探してみる」と対応していることが分かる。
ここは、文化祭の舞台だ。そこで歌う一曲目は、ぼっちが「それ」について、どう思っているのかが示されなければならない。
大事なことは、このコントラストなのだ!
彼女の日常は「教室での孤独」である。それに対応して、なぜ今、自分はここにいて、文化祭の舞台でギターをひいているのかが「説明」されなければならない。だから、この曲は重要なのだ。
彼女の日常の「教室での孤独」に対して、今ここ。文化祭の体育館の舞台で、大勢の観客の前で演奏している自分は、明確に

  • 一歩を踏み出している

わけだが、これがなんなのかが説明されなければならない。これに対して、彼女は、彼女のそれまでの日常。「教室での孤独」を、

  • 繰り返す足踏み

と呼んでいるわけある。つまり、「繰り返す足踏み」の

  • 終わり

だと呼んでいるわけである。青春は「なにかの終わり」なのだ! それは、単純化されていた、大人たちが「子供のため」に用意してくれていた、偽物のカラクリを自ら否定する瞬間だとも言える。それまでの、安穏とした何かを、たとえ「孤独」ではあっても、単調で変わらない。退屈ではあっても、なじみがあって、変わらないことに安心できていたなにかが壊れる一瞬。
しかし、である。
それは、

  • なんとなく

だと言っているわけである。なんとなく、選ぶ。それが、自分にはちょうどいいくらい。
さて。こういった一曲目の後の、二曲目は何が歌われるのだろう?

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ネット上で議論を呼んだのが、この歌が、「誰」からの、「誰」に向けた歌なのかが、明確に書かれていない、ことに対してだった。ところが、上記の記事の方も書いているように、そもそも、この歌は、公式が映像付きで動画を公開している。それがこれなのだが、

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これを見れば、これが喜多ちゃんのことを歌っているのは自明なわけw つまり、制作サイドの「意図」は明白だったわけだ(分かりにくい歌詞の意味を示唆するために、ここまで「わざとらしく」作ったのだろう)。
つまり、この前提をふまえて、内容を理解していかないといけない。
この曲は、前半と後半に分かれている。前半は「もうすぐ時計は6時」とあるところで、後半は「もうすぐ時計は8時」とある。この二つを明確に分断しないと、なにを言っているのか分からなくなる。
前半の

どんなに探してみても
一つしかない星

は、ぼっちのことだ。そして、前半の真ん中に、

いいな 君は みんなから愛されて
「いいや 僕は ずっと一人きりさ」

とあるように、これが今の現実の、ぼっちの状態を説明している。一曲目でも書いてあったように、ぼっちは教室で、ずっと一人だ。それに対して、喜多ちゃんは人気者であり、ずっと彼女の回りには多くの友達がいて「星座」なのだ。それに対して、

空見上げて 指を差されるような
つないだ線 解かないで
僕がどんなに眩しくても

は、喜多ちゃんが空を見上げて、ぼっちに向けて指を差す。つまり、喜多ちゃんと、ぼっちが「星座」にある、友達として、「繋がる」ということを意味している。その喜多ちゃんが、ぼっちに向けて指を差す行為。この「紐」をずっと解かないでほしい、と願っているわけだ。
では、後半はどうか。

夜空に満天の星

場面が変わって、夕暮れ時だった夜6時に比べて、夜8時ともなると、夜もふけてきて、夜空には多くの星々が見えるようになっている。この光景を眺めて、ぼっちにはそれが、喜多ちゃんを中心にして、彼女の回りに多くの友達がいつも集まっている、キラキラした世界に見えていることになっている。

君と集まって星座になれたら
彗星みたい 流れるひとりごと

つまり、ここで言う「彗星」が、ぼっち本人になぞらえられている。

だから集まって星座になりたい
色とりどりの光 放つような
つないだ線 解かないよ
君がどんなに眩しくても

つまり、夜6時のときは、喜多ちゃんが自分をずっと友達として思っていてほしい、という気持ちを歌っていたが、夜8時の方では、今度は自分が彗星として、星座として集まって輝いている喜多ちゃんに向けて、自分が彗星として引いた線。喜多ちゃんに向けたこの繋がりを、絶対に放さないよ、という決意の歌に変わっている。
こうやって見ると、一曲目と二曲目は、どちらも現状の、ぼっちの「孤独」を書いているにも関わらず、まったく違ったものになっている。
一曲目は、ある意味で「モノローグ」の世界だ。ぼっちの内面を描いていて、彼女の日々の成長が、どんな形なのかを描いている。
対して二曲目はなんだろう? これは「ダイアローグ」の世界となっている。つまり、一曲目で描いたような、そんな、ぼっちが、こと

  • 喜多ちゃん

のことについて言及しようとしたとき、まったく、一曲目で描いたものとは違ったものになっているわけである。彼女への想いを言葉にしようとしたとき、ようするに

  • 友達になりたい

のだ。
この、ぼっち・ざ・ろっくという作品は、全編を通じてバンド活動が描かれているけど、第1話を思い出してもらえば分かるように、そのテーマは、「教室での孤独」だったわけでしょ。だから、彼女は、ほとんど、文化祭のことしか言っていない。そこで、大活躍して、みんなに、ちやほやされるようになりたい。彼女はずっと、そのことしか言っていないのだ。
それに対して、この二曲は、その、この作品のテーマに対する「アンサーソング」になっていなければならない。テーマであり「フラグ」がそうなのだから、これに対して、この作品は、なんらかの答えを返さなければならない。
一曲目が、こんな、ぼっちという人間がなぜ今、この文化祭の舞台で演奏することになっているのかを描いているのだとしたら、二曲目は

  • 素直

に、彼女がずっと思っていて、願っていたことが歌われていなければならない。つまり、「友達になりたい」だ。クラスのみんなと、なかよくなりたい。それが書かれていなければならない。それを言っていなければ

になるからだ。そう考えたとき、そこには「喜多ちゃん」がいたのだ。彼女は、別のクラスだ。しかし、彼女は

  • 同じ学校の同級生

であって、虹夏やりょうとは違っている。それが、なぜ虹夏やりょうじゃなくて、喜多ちゃんなのかを意味している。喜多ちゃんに向けて「愛」を語ることによって、「友達になりたい」であり、クラスのみんなと、なかよくなりたい、を素直に語った歌なわけだ...。