縄文ZINE編『土偶を読むを読む』

日本中のどこの本屋の、日本の古代の歴史の棚に行くと『土偶を読む』という本が置いてある。置いてあるということは売れているのだろう。
確かに、私もそういった多くの人と同じように、この本を本屋で見かけて、一度は手にとってみているが、結局、買っていない。
なぜ、私は買わなかったのだろう? もちろん、その時の記憶は、うろおぼえだ。ただ、一つ、思えているのは、「言っていることが、うさんくさい」と思ったことだ。

「ついに土偶の正体を解明しました」(土偶を読む一頁)から刺激的に始まる書籍『土偶を読む。非常に断定的で、センセーショナルな書き出しだ。

これが「書き出し」だが、まあ、不通に考えて、こんな

  • 恫喝

のようなことを書いている本が、まともな本じゃないことには気付くよなw
土偶が「植物」だと言うことそのものに、どうのこうのと言いたいわけじゃない。しかし、常識的に考えて、そう言うためには、そうとうな、今までにないような、独創的なロジックを発明しなければ、

  • 常識的に考えて

こんなことが言えないだろう、という直観があったが、どう考えても、この本にそんなことが書いてあるように見えなかったからだw
いや、それだけじゃない。私は、この本の帯に書いてあった、

を疑っていたからだw この賞の、1999年が、このブログでも、以前に徹底的に批判をさせてもらった、東浩紀先生の『存在論的、郵便的』 という本が受賞しているわけだけど、なんでこの本に対して、

について、あれだけ怒っていた人たちは、なにも言わないんだろうって、疑問に思っていたw あーあ、またやっているな、っていう印象しかないわけだw
これが

  • 文系

だ。文系学問は、こういった「ゴッドハンド」が、何度も何度も、はいあがってくる。そして、こういった「ゴミ屑」に、わけのわなんない連中が賞を与えやがる。つまり、読んでいる連中が、分かっていないくせに、賞とかあげちゃう。なんなの? ほんと、やめてほしいんだけど。
もはや、これ以降、サントリー学芸賞なる「ゴミ屑」を自慢する連中は、金輪際、絶滅してほしいものだ。

実はこの中空土偶の顔は完形(欠損のない状態)ではない。ぱっと見はわからないかもしれないが、大きく欠けている部分がある。その部分とはこの土偶の頭部に空いている二つの大きな穴のことだ(図2)。

この頭部の欠損部分、二つの穴、類例について『土偶を読む』ではほとんど触れられていない。章の終わりに小さく、写真も図もなく、かつ補足として、まるで「たいしたことではない」かのように矮小化して改札している(土偶を読む一〇五頁)。

あのさ。頭に二つの大きな穴があるんだよね。でも、その穴が写っている写真は、この本には載っていないw それで、これは「クリ」だという

  • 正体

を解明したんだってさ。完全に、詐欺師の手法じゃん。

ハート形土偶はオニグルミだ。こちらもセンセーショナルな対比で、見た人は「絶対そうだ!」と思ってしまうかもしれない。確かにこの二つは真正面の角度から見れば似ている(かもしれない)。しかし、土偶は立体物で、紙に書いたような次元の創作物ではない。文字通りこの二つをいろんな角度から見てみたらどうだろう。

これさ。完全に、詐欺師のテクニックだよね。『土偶を読む』」という本を書いた奴は、この本に載せる

  • 写真

を自分で選んでいるわけ。だから、自分の主張に都合がいいように見える写真「だけ」を選んで載せることができる。しかし、本物は立体だ。当り前だ。それを、いろんな角度から見れば、

  • こんなこと言えるわけがない

ことは、ひをみるより明らかなわけだw つまり、さ。これ。わざと、「分かっていて」、自分の主張に都合が悪そうな写真を、意図的に載せないように除いているわけ。それで、

  • ついに土偶の正体を解明しました

とかぬかしているわけ。これが、「ゴッドハンド」じゃなくて、なんなんだよ。
まあ、別ると思うけど、東浩紀先生の『存在論的、郵便的』も同じレベルなわけ。なのに、誰もそのことを言わない。これが、文系品質っていうのを、ほんと、多くの人に分かってほしいよ...。