高野陽太郎「「日本人は集団主義」という幻想」

私たちは、宮台真司のような社会学者によって、

  • 日本人=愚民

と罵倒されて、どうしようもない、下等な人種だと馬鹿にされている。その場合、彼の「元ネタ」は、ルース・ベネディクトの『菊と刀』といったような

  • 西洋人による「日本人論」

なわけだ。つまり、西洋人に「日本人は下等な人種だ」と言われて、へいこらと、おっしゃる通りですと、彼ら西洋人の「口パク」をして、日本人を「愚民」だと馬鹿にし続けてきたのが宮台真司だ。
ところが、である。
掲題の論文にもあるように、西洋人が口をすっぱく言ってきた「日本人は集団主義」は、そもそも、科学的なエビデンスがないw
つまり、絶対に宮台真司を信じてはいけないw
じゃあ、なぜそのように言われてきたのかについては、以下のような「特殊」な情況について言及している。

戦時中、日本はアメリカという強大な国家を敵として戦っていた。外敵の脅威に直面したとき、団結を固めて立ち向かおうという気運が高まるのは、古来、どの人間集団にも見られた普遍的な現象である。

つまり、「戦中の特殊な心理情況」を平時にまで敷衍したわけだ。
この問題は逆に、なぜルース・ベネディクトのような人間が日本人の「下等性」をやたら強調したのか、といった視点から考えることもできる。

その半世紀ほど前、哲学者のヘーゲルは、『歴史哲学講義』のなかで、「西のヨーロッパから東の中国へと向かうにつれて、個人の自由の意識が減少していく」と論じていた。

アメリカを「西の端」、日本を「東の端」と置くと、アメリカ人と日本人は対局的な存在ということになる。
そのアメリカ人は、「強い自我をもつ個人主義的な国民」ということになっている。とすれば、その対局にある日本人は、「はっきりした自我をもたない集団主義的な国民」であるにちがいない。
「日本人には個性がない」というローウェルの主張は、こうした「先入観」にもとづく演繹的な推論の産物だったのではないか。

以前、日本の江戸時代の朱子学について調べていたとき、当時の武士階級は、みんな朱子学を勉強したんだけど、朱子学って、かなり

なんだよね。つまり、陽明学が分かりやすいけど、自らの内面から湧き出る「なにか」を非常に重要視する。つまり、

  • 武士

階級は、徹底した個人主義だった。いや。だから、武士は誇り高い存在だった。ハラキリをするときも、「自分で選択する」ことが非常に意味のあることとして考えられた。
民主主義についても同じ。日本の村社会は基本的に「全会一致」だった。つまり、全員民主主義の、全員の意見が一致するまで、何時間でも議論が続いた。こういったように、そもそも日本人が「主張をしない」ということが、まったくの事実を知らないわけだ...。