カント認識論と「量子力学」

当り前だが、カントの時代はニュートン物理学の時代で、その当時はまだ量子力学が知られていない。つまり、カントは量子力学を「知らない」。そこから、現代の哲学者はカントを馬鹿にし続けてきた。カントは量子力学を知らない

  • 古くさい

ニュートン力学で考えている「から」、間違っているんだと、現代の分析哲学「研究者w」は、カントを「トンデモ」として馬鹿にして、罵詈雑言を浴びせ続けてきた。
しかし、である。
量子力学はよく、「認識論」と呼ばれる。ニュートン力学における、「素朴実在論」から

  • 認識論

に変わった、と呼ばれる。そして、この時にそう呼ばれる「認識論」とは、カントのそれであることは自明なわけだ。つまり、奇妙な形でではあるが、カントの「認識論」は、どこか、量子力学

  • 似ている

のだw
このことは、上記の現代の分析哲学「研究者w」には、なにを言っているのかさっぱり分からないのだろうがw、つまりは

  • どっちが「本質的」なのか?

が問われている、というわけである。カントを馬鹿にした現代の分析哲学「研究者w」たちは、それが何を意味しているのかについて考えたこともない。まあ、そのことを「考えずにすんできた」という意味では、そういう人たちは「幸せ」なんでしょうw 日々を悩むことなく生きてこれた、ということなのだからw しかし、カントはそうはできなかった。なぜなら、明らかな彼にとっての「難問」が目の前にあったからだ。凡庸な現代の分析哲学「研究者w」たちは、それに気付くことなく、カントへの罵詈雑言を書いていれば

  • 研究成果

として、大学の学長くらいまでは出世できたのでしょうw ほんとに、どうしようもなく、ゴミ屑だな。
例えばカントの認識論において、「物自体」を私たちは知ることはできない、と書かれている。しかし、そもそも、カントのフレームにおいて、

  • 「物自体」を知る(=認識する)

ということがなんなのかが定義されていない。そういう意味では、「物自体」は

  • カテゴリー・エラー

をおこしている。そして、カント以降の哲学者もこのカントの「ミスリーディング」を批判してきたわけだが、当り前だが、カントは「物自体についての形而上学」を語ったわけじゃない。自らの哲学を説明する前段として、そういった表現を、いろいろなアプローチの中の一つとして使ったにすぎず、それが彼の理論の本質ではないのだ。
では、他方において、量子力学はどうなのかだが、まず、量子力学における「力学の比喩」は、最初から「不可能性」をはらんでいる。量子力学の「対象」は、

  • 光子

である。つまり、「光(ひかり)」である。しかし、ニュートン力学における、「物理量」はそもそも、光を対象にぶつけることによって、「測定」されるわけだ。つまり、量子力学は、

  • 光子の物理量(位置、運動量など)を、それに「光子をぶつける」ことによって「測定」する

と、「力学の比喩」を延長するなら表現せざるをえない。しかし、ここで困ったことになる。つまり、光子を光子に「ぶつける」と言っているわけだが、そもそもニュートン力学における測定が、「光子をぶつける」ことによって行われたのは、

  • ニュートン力学的世界における)物質に対して「光子をぶつける」ことによる、その物質に与える影響は、(ニュートン力学的な精度の範囲において)無視できる

という前提があった。当り前だが、私たちが回りの人を「見た」からといって、相手の人が、まるで「手で殴られた」ような痛みを感じるわけじゃない。しかし、量子力学では、それが保証されない。なぜなら、両方とも「光子」なのだから、「等価」な物理スケールだからだ。
このことを典型的に表している物理法則が、不確定性原理だ。つまり、その「光子」の物理量を「一定程度」の精度で知るということが、別の物理量を「一定程度」の精度で知ることを

  • 原理的に

不可能にする、という関係である。つまり、両方の物理量を両方とも「一定の精度」で知ることができない。これは「原理的」にできないわけ。
分かるだろうか? 最初、量子力学は「ニュートン力学の比喩」で始まった。ところが、最初から、その

  • 不可能性

が、理論的に「決定」しているのだ! つまり、これを普通に考えると、

ということを意味しているわけである。つまり、ここにおいて「素朴実在論」が「成立していない」ということを言っている。
では、ここで量子力学が「数学」としてなにをやっているのかといった観点で考えてみよう。言うまでもなく、シュレーディンガー方程式で表される「観測前」の状態は、

で表されている。この、y=f(x)のグラフは、xもyも複素数なのだから、

  • 4次元空間

となり、私たちにはそのイメージをつかみとることが難しい。しかし、そこからもたらされる「観測」という行為は、確率論における、可測関数で表現されるのだから、その期待値は実数値となり、そのグラフは

  • 3次元空間

となり、私たちが直感的に理解できるものとなる。これが、二重スリット実験で壁に複数の横縞が描かれるその「濃淡」という形で「確率の値の大きさ」を意味している。
ここまでは、いいわけである。実際に測定値の「確率」は、この計算から外れないことが分かっているという意味で「正しい」とされているわけだから。問題は、

なわけだw その「描像」を、素朴実在論によって描けないことは分かっている。このことは、アインシュタインの「隠れた変数」が存在しないことを示した、ベルの不等式を観測が満たさないという形で証明されている。
ここで、少し、たちどまって考えてみたいわけである。
そもそも、光(ひかり)は「波(なみ)」の性質をもっている。ということは、波なのだから、個体じゃないのだ。つまり、

  • 固有名(こゆうめい)がない

のだ! それは、当り前だろ。だって、波は「重ね合わせの原理」によって、本質的に「区別できない」。波を「個体」として指示することはできない。波に対しては、

しか、ありえないのだ!
そうすると、この「測定」というか、なんらかの「(測定行為を含めた、その物理空間への)攪乱」によって、その波的な性質が(瞬時に)「縮約」される、というのをどう考えるのか、なわけだ。
ここで、少しおもしろい最先端の物理の話がある。上記で、量子力学の対象は「光子」と書いた。そして、それは間違ってはいない。しかし、光は以下の性質があることが分かっている。

  • 相対性理論的な意味での光の速度の「絶対」性
  • 光子には「質量がない」

ここで考えたいのは後者だ。光は本質的に電磁波と同じとされる。なら、そもそもの、電子などがもっている「質量」というのは、どこから発生しているのだろうか? 質量とはなにか。

南部は粒子が質量を手に入れた理由を次のように考えた。例えばこの真空中に光速で走る左巻きクォークがあるとする。このクォークはまっすぐに進んでいくが、すぐに真空中に凝縮している右巻きクォークにぶつかる。そしてすでに説明したように、スピンが逆向きの粒子と反粒子はぶつかるとたがいに消滅する。すると、もともとセットになって凝縮していた右巻きクォークは余ってしまい、飛び出していくことになる。しかし今度はこれが、左巻きの反クォークとぶつかって互いに消滅する。その結果、余った左巻きクォークがまた飛び出す。そしてまた右巻きの反クォークとぶつかって消滅し右巻きのクォークが飛び出す。というようい、これが繰り返されていくことになる。つまり、真空中ではこのクォークは、右巻きと左巻きを交互に変え、まるで何かにぶつかり続けながら動いていくように見えるんだ。
ほんとだ。おもしろい動きをしているね。
ここで大事なことは、このクォークの速度だ。
速度?
ああ、このクォーク自体は光速で進んでいくんだが、クォーククォークのセットにぶつかりながら、行ったり来たりと進んでいくせいで、その平均測度は光速より遅くなってしまう。
そうね、まっすぐ進まない分、遅くなるわね。
ああ、言い換えれば、それだけ動きにくいということだ。そしてノワール、さっき説明した慣性質量の定義を覚えているか。
慣性質量? たしか物体の動きにくさだったわよね。
そのとおり、つまり、このときこのクォークには動きにくさによって質量が生まれることになるんだ。
なるほどね。たしかに、質量がゼロの粒子は光速で動くはずだから。光速より遅いってことはその分の質量を持つってことになるのかしら。
そういうことだな。
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私たちがここでほしいのは、波としての状態である、重ね合わせ、量子もつれの状態と観測後の「粒子」としての描像との、その連関性と言っていいんだろうか。カント的な意味で、「素朴実在論」はもしもそれが成立しないのなら、たとえそうであっても、

  • 私たちに「素朴実在論」が成り立っているように思われる

その「認識論」的な「からくり」が、量子論的な上記までで説明した

  • 波と粒子の関係

から説明できるのか、が興味深く思えるわけである...。