田野大輔・小野寺拓也『<悪の凡庸さ>を問い直す』

「悪の凡庸さ」という言葉は、ハンナ・アーレントが『エルサレムアイヒマン』で使った言葉で、通俗的には、ナチスドイツのアウシュビッツ収容所での大虐殺を主導した官僚であるアイヒマン

  • 組織の「歯車」

だったとして、

  • しょうがなかった

と言う場合に使われる(これの傍証として、ミルグラムの心理学実験が援用される)。そして、映画「ハンナ・アーレント」で描かれていたように、『エルサレムアイヒマン』が出版された直後から

  • 炎上

して、ハンナ・アーレントは社会からのバッシングにあうことになるわけだが、彼女は終生を通して、そのジャーナリスティックな批判に対しては反論をしてきた。
対して、歴史学の文脈からいうと、『エルサレムアイヒマン』は、シュタングウネトの『エルサレム<以前>のアイヒマン』という、十分に前者の本を意識した題名となっている著書において、アイヒマン

であって、『エルサレムアイヒマン』が描いたような、官僚という役人で国家の命令に従順なだけの、ナチの反ユダヤ主義のような「思想」を内面化していたような存在ではないといった主張を、実証的に、

の、さまざまな彼自身の発言などから反証している。当時のアルゼンチンは、今のアメリカやカナダがウクライナ移民を多く含んでいるのに似ていて、当時の「ナチス」シンパが存在していた。そういった「ナチス」コミュニティの中で、アイヒマンはかなりの

の発言を行っている。
掲題の本はこの二つの

の側からの「通俗的な<悪の凡庸さ>」に対する「誤解」をとく目的で書かれているわけだが、奇妙なことに、思想史学者側からは、

が指摘される状態になったために、後半はお互いの学者による討論会が行われる事態となっている。
ただ、正直、私はハンナ・アーレントに、いい印象をもったことがないw それは、映画「ハンナ・アーレント」が描いたように、ナチスドイツにコミットメントした、ハイデッガーと彼女が「恋愛関係」だったがゆえに、彼女が自らの「私情」から、ハイデッガーを「免罪」するために、ナチスの「罪」を

  • 軽く見せよう

としたんじゃないかといったような疑いだけじゃなく、そもそも、アーレント自身の思想の中に深く入り込んでいる彼女自身の

  • エリート主義=それと一体の、大衆蔑視

を無視できないと考えているからだ。もちろん、彼女も一流の文筆家だから、そういった「欲望」を目立つようには書かないわけだが、そこかしこに、そういった彼女の「本性」がダダ漏れしていることは周知の事実だ。

では、なぜアイヒマンは、これほどまでに決まり文句に頼るのだろうか。アーレントはその病理を次のように説明していた。

アルゼンチンやエルサレムで回想録を記しているときでも、警察の取調官に、あるいはまた法廷でしゃべっているときでも、彼の述べることはつねに同じであり、しかもつねに同じ言葉で表現した。彼の語るのを聞いていればいるほど、この話す能力の不足が思考する能力−−−−つまり誰か他の人の立場に立って考える能力−−−−の不足と密接に結びついていることがますます明白になってくる。アイヒマンとはコミュニケーションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁[すなわち想像力の完全な欠如としう防壁]で取り囲まれていたからである。

三浦隆宏「怪物と幽霊の落差」)

アーレントは、自らが著書で使った「悪の凡庸さ」という表現は、「歯車論」で使ったんじゃない、と言う。自分は、アイヒマン

  • しょうがなかった

から責任をまぬがれるとは考えない。アイヒマンは死刑が相当だと主張すらしている。だとするなら、「悪の凡庸さ」がどういう意味なのかとなるが、本では、そもそも説明をしていない。最後で、この表現が一回だけ出てくる。じゃあ、『エルサレムアイヒマン』という本全体でなにを主張しているのかというのが、上記の引用だ。つまり、

と言っているわけである。つまり、ハンナ・アーレントプラトン主義者で、

なわけね。彼女は、政治は「哲学者」がやるべき、という考えなわけ。私のような優秀なエリートがやらなきゃ駄目で、アイヒマンには、その「適正」がなかった。彼は「欠陥を抱えた」人間だった。彼女が考えるような、「行政官に求められる<文学>的適正」をもっていなかったから、このような悲惨なことになってしまった、と主張しているわけ。
ようするに彼女は、

  • エリート主義者

なわけね。なんでも、「エリート」がやらなきゃ駄目、っていうのが彼女の持論。自分のような、大学で(ハイデッガーのような)優秀な哲学者の下で研究をやってきたような人間が、政治を運営しなければならない、という嫌味なエリート主義者なわけw

三浦 その問いに答える前に、先ほどのシュタングネトとアーレントの対比で言うと、時間(あるいは年代)の差が大事だと思います。シュタングネトが前半であとづけたアイヒマンはバリバリ活躍していた頃のアイヒマンですが、アーレントが実際に自分の目で見たのは−−−−私たちもそれと同じ目線で映像を見ているわけですが----それから二〇年以上経ち、すでに初老で、被告人として立っているアイヒマンなわけです。私はそのズレを重視していて、一人の人間が華々しく活躍しているときと、晩年を迎えたときの人物像のギャップという観点で捉えています。アーレントも書いていますが、自分がいざ絞首刑になるというその直前に、弔辞で用いられる決まり文句がとっさに口から出てしまうというばかばかしさ、というのはたしかにおもしろいと思うんですが、私自身はアイヒマンをあまり買いかぶっていないというか、そこまでの興味はない、という立場です。
(「<悪の凡庸さ>という難問に向き合う」)

うーん。そもそも、ハンナ・アーレントの『エルサレムアイヒマン』って、歴史的読解に耐えられるような内容なのかな。そもそも、彼女がこの文章を書く前に、大量の

の研究結果や、研究資料を見ているんだよね。つまり、歴史学者の研究結果を彼女は「使っている」わけね。ほとんどすべて「口パク」なの。その上で、『エルサレムアイヒマン』の「悪の凡庸さ」って、上記にあるように、アイヒマン

  • 決まり文句

ばっかり言う人間で、自分の言葉で語れないから(だから、きっと他者への共感能力という「文系」的能力が劣っているんだろう、という形で)、

  • 人格的に欠陥がある

って内容なわけ。つまり、「エリートじゃない=能力が劣っている」と。もっと言えば、

から、こんなことになったっていう

なわけw しかし、さ。上記の引用の方も言っているけど、彼女がアイヒマンを「見た」って、もう、晩年の老いぼれだよねw じゃあ、若い頃の彼はどうだったの? なんか、こんなところにも、現象学の限界を感じるよね。ハイデッガーの弟子のハンナ・アーレントにとって、「目の前=現前性」が

  • 全て

という現象学の範囲で、彼女にとって「都合のいい」現実を切り取ってでっちあげた、ということなわけでしょう。そりゃあ、国家の重要ポストを担っていた官僚が、若い頃には「生き生き」していたわけでしょう。こんなところからも、『エルサレムアイヒマン』が読むに値するのかが疑わしいよね。

小野寺 補足しますと、これは西洋史学のシンポジウムでコメントしたことなんですが、イデオロギーというのは使えるときは使って使わないときは使わないという、そういうものではないだろうと私は考えています。ユダヤ人問題があるんだといったん認めてしまうと、それ自体が認識枠組みをつくるわけですよね。ユダヤ人問題は解決されなければならない問題だから、こうしなければならないということで、人びとが行動する条件を縛っていく、つまり選択肢を狭めて急進化していく方向に作用する。イデオロギーは洋服とは違って着脱可能なアイテムではなくて、人間の行動を深いところで特定の方向に誘導していくし、そう簡単に「やめた」と言ってやめられないから、ホロコーストは途中で止まらずに、どんどん急進化していったわけです。
(「<悪の凡庸さ>という難問に向き合う」)

イデオロギーは「コミットメント」なわけね。ナチスの一員になると自らの「コミットメント」を認めた時点で、官僚のトップになることはできても、そのナチスイデオロギーの「内面化」をやらないという選択肢はないわけ。つまり、反ユダヤ主義も、それぞれの場面での選択肢を迫られてみれば、このナチスイデオロギー通りに行動しないなんてことはできない。だって、そう行動した時点で、反逆としてパージされるのだから。
そういう意味で、アイヒマンには反ユダヤ主義は「薄い(官僚でしかなく、イデオロギーと距離をおいていた)」みたいなハンナ・アーレント的な分析は、ほんとに、実際の現場の情況を分かっていない、浅はかな、幼稚な分析なわけね...。