現代哲学というか、分析哲学において、リチャード・ローティは
- アイドル
だ。そして、これに並ぶアイドルが、デイビッドソンだろう。ようするに、彼らがやったこととは、
- カントとは「ゴミ屑」だと「証明」した(つもりになった)
という一点に尽きている。カントに勝ったと勝利宣言したのだから世の中のカント嫌いから喝采を浴びたってわけだw 特に、リチャード・ローティが書きなぐった「通俗本」の内容は全部、
- 理論の「基礎付け」
の不可能性についてしか言っていないw つまり、リチャード・ローティは本気で、この「基礎付け」を
- やっつける
ことが、学問の「革命」だと思っていたわけである。しかし、そう思っていたのは、彼だけだった。
例えば、私がたまたま本屋に行って、哲学書のコーナーに行ったら、日本の大学の日本人の若手の研究者が「現代形而上学入門」なる本を書いていた。なるほどと最初の何ページかを読んでみると、そこには、
と書いてある。そして、ここでの「存在」というのが、完全に、
と変わらない主張であることが分かる。そこで私は思うわけである。現代物理学の最先端である、場の量子論であり、超ひも理論において、物質とは、
- 波(なみ)
と書いてある。よく、文系の電波有識者が「三角関数なんて、社会に出て一度も使わない」という、あの、三角関数であるw この世界は「全て」
- 波(なみ)
だというなら、この波についての考察から始まらない「現代形而上学」って、なんの冗談なんだろう、と思ったわけであるw
ことほどさように、文系とは「ゴミ屑」なんだなと思うのは勝手だ。それは当り前で、そもそもその本を書いた日本の研究者はたんなる「哲学研究者」にすぎない。また、海外で評価されるような論文を1つとして書いたという話も聞かない。たんに日本国内だけで「いばっている」奴を誰も相手にしないのは当り前なんだ。
この世界は
- 波(なみ)
でできているというとき、それは同時に「固有名」が否定されていることを意味する。波にはそもそも、「固有名」がない。なぜなら、重ね合わせの原理とはこれがないことと同値だからだ。じゃあ、私たちが日常生活で「ある(存在する)」と考えている、「固有名=物質」とはなんなのか? そこに、カントの観念論の「正当性=正統性」の可能性が考えられる。
カントの問題を考えるとき、以前もこのブログで取り上げた、以下の論文集は今読んでも興味深い内容になっている。というのは、ここで、リチャード・ローティの「カント批判」を彼がどう整理しているのかが、かなり分かりやすい形で紹介された論文が収録されているからだ。そして、その論文は、ある人の「カント論」を批判する形で書かれている。
ここで、超越論的論証にとっての自己関係性の意義が明らかとなる。われわれの認識形式の正当化は、より高度でより確実な洞察がもたらす形而上学的独断原理からは導出できない。というのも、そのような原理を手にするためには、客観的実在に関わる感性的に制約された経験的認識----論証されなければならないのはこの認識の妥当性である----以外の、あるタイプの認識をもたなければならないからである。われわれが現にもっている認識は、認識の事実性以外のレベルでは正統化できない。そのような認識を絶対的原理の助けを借りずにもっている認識は、その認識以外に選ぶべきものがないことを論証するという仕方でのみ可能である。論証できるのは、<認識が可能なのは、このような仕方においてであって、他の仕方においてではない>ということだけであり、また、これが論証されるのは、それに代わる認識形式が却下される場合だけである。これこそが、カントに許された正統化の方法なのである。
正統化の試みは、正統化されるべきものすなわち経験的認識から始まる。その試みは、<別の認識が一切手に入らないにもかかわらず、所与の認識が見たところ不十分であって正統化を必要とする>という情況に自らが置かれているのを察知する。したがって、考えられるどの正統化も、正統化が要求されている当の認識形式を用いなけばならない。そうだとすれば、そのような要求にはそもそも意味があるのであろうか。認識は、このような状況のもとでもなお正統化できるであろうか。これに対する可能な答えは、ただ一つしかないように思われる。それは、現にわれわれがもっている認識とは独立の諸前提に基づくことのない、しかしその認識に対する同語反復的ではない洞察を与えるような、答えである。このことは、現実の認識が、それ自身の領域を放棄することなくそれ自身の一般的構造に関する情報を獲得することを、意味する。認識の一般的構造に関するそうした情報は、われわれの認識の固有の領域を放棄すると考えられる別の認識形式が維持できないとわかったとき、少なくとも消極的に入手可能となる。われわれの認識形式とは構造的に異なる別の認識形式が不可能であるということから、われわれが現にもっている認識の一般的構造が明らかになるのである。
しかし、別の認識構造の論理的可能性を、絶対的な説得力をもつ根拠に基づいて排除することはできないということ、このことをわれわれは認めなければならない。なぜなら、われわれの認識形式は、そのような根拠を許さないからである。
(リューディガー・ブープナー「カント・超越論的論証・演繹の問題」)
本物の代案が構成できないということは確かに論証できるが、その論証は常に事実的なものにとどまる。代案は存在せずまた存在しえないということを確実な事実として、論理的に、事実性のレベルを越えて引き出せるような独立した原理を、その論証は指摘することができない。ところで、超越論的なタイプの論証は、単なる事実的論証を決定的に乗り超えて行く。この前進は、自己関係性という論理的契機に依存する。現実の認識形式のある要素を用いるのでなければ、その認識形式について推論したり、その認識形式の先行条件を解明したりすることすらできない。このことが明らかになれば、論証されるのは単なる事実的事態だけではない。むしろ、ある論理的構造が、問題となっている認識形式の妥当性を示すのである。単に、たまたま代案がないというだけではなく、代案なるものを考えることが原理的にできないのである。それについてメタレベルで考える際のわれわれの思考法が、認識の一般的構造を確証する。なぜなら、それは、その同じ構造を用いざるをえないからである。
(リューディガー・ブープナー「カント・超越論的論証・演繹の問題」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
カントの『純粋理性批判』は昔から、これは
ではないのか、という疑いをもたれてきた。その中でも、評判が悪いのが、上記の論文でも主題となっている「超越論的論証」である。ここは、はっきり言ってしまえば、その論証の筋道を辿ることすら難しい、分かりにくい主張になっている。というか、もともとカントが、そういうふうに書いている、と言うこともできるくらいにそうなのだ。
しかしこの論文では、前半でウィトゲンシュタインやクワインやストローソンの議論を参照する形で、カントが超越論的論証において使っている、
- 自己参照的
な議論の展開「そのもの」を、その意味であり意義を、クローズアップして主題として取り上げている。
カントは、アプリオリと超越論的を区別している。後者は前者に含まれるが、前者と同じではない。そこに、
- 自己参照的=自己言及的
な関係を「あえて」、カントは断りを入れている。しかし、多くの人はこの差異に注目しない。
考えてみよう。ウィトゲンシュタインは確かに、多くのことを語った。その彼の語りは、この「自己言及性」なしに、そもそも可能だっただろうか?
そう考えたとき、明らかにカントは非常に本質的なアプローチをしている。
そもそも考えてほしい。私たちが日々行っている「科学」の発見の営みは、そもそもその行為を行っている人間そのものの「解明」なしに進んでいる。なぜ人間が「それ」をできるのかを、
- 科学的
に証明される前に、「それ」は行われている。こうしたときに、まさかその「人間が行っている行為の能力」に言及しないなんて、ありえないだろう。しかしそれに言及した途端にその言説は、科学的には
- トンデモ
にならざるをえない。これは非常に「自己言及的」な事態だ。私たちは、今自分がどうあるのかを<前提>に、あらゆる
- 言語活動
をしている。つまり、言語には最初から、この私たち自身が、なんらかの「確信」している直観がビルトインされているし、それなしには会話すらできない。
ところで、リチャード・ローティの哲学批判(=不可知論)は幼稚だ。まず彼はそれを「鏡」の比喩として語る。言語は世界を「写せない」。つまり、それは「同じじゃない」。ニセモノなんだから嘘だ、と。
こう語る場合、まず、形式論理学の数学的な正統化は、あくまでもその「パズルゲーム」の物理的なレベルでの無矛盾性(=自然法則に矛盾しない)に尽きているわけで、低レベルな自明性だ。
しかし、そのことと個々の「命題」の吟味は別なのだ。命題は、その「文脈」に依存する。それを読む人の文脈で、それで必要十分に説明されていると受け取られれば
- 反論されない
というレベルのものでしかない。各命題は、言わば、
- 会話相手
との「合意」をとる形で進む。しかしその会話が進む中で、相手と話している内容が合っていないと思われればそこで会話は終わるのだ。
そう考えると、会話は最初からクリエイティブな活動であることが分かる。ある命題が、相手と受け取っているメッセージが違うと分かったとき、その
- 差異
は、言わば、クリエイティブに「乗り越える」活動を会話の二人は始める。つまり、今までの会話から自らが受け取っている「意味=メッセージ」の内容の再構成を強いられる。そういった地道な努力を重ねることで、なんとか会話を最後まで進める。
そういった意味で、言語とは最初から、実践的なものでしかないし、それで十分だと考えられてきた。
私の見るところでは、適用すべき何らかの「形而上学的独断原理」をもっている場合にのみ、われわれあは、自分の自己関係的論証が事実ではなくむしろある論理的構造をあらわしたと論じることができるであろう。というのも、そのような原理だけが、
- (A)感覚与件経験はありえない
という結論から
- (B)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものでなければならない
ということ、あるいは
- (B’)すべての経験は空間中の持続する対象に関するものであるかのような経験でなければならない
ということさえ引き出させることができるであろうから。感覚与件経験の存在を不可能にするのは(B)ないし(B’)が真であるという事実である−−−−これがわかれば、準備はすべて整ったことになるであろう。しかし、カントが行なったのは、(A)を示し、独断的に(B’)へ移り、それから<別の可能性が想像できないような仮象は「経験的実在」と見なされる>という超越論的観念論の一般的原理を用いて(B)へ移ることでしかない。しかし、「演繹」や「論駁」は、(B)の「例外を考えることは原理的に不可能である」ということを示すような論証を、何一つ与えてくれはしない。ブープナーには悪いが、<われわれは原理的に何を考えうるか>ということに制限を課することができるものはない。天にも地にも存在しない。せいぜいわれわれになしうるのは、誰も実際に例外を考えていないということを、示すことだけである。それゆえ、自己関係性を導入しても、「単なる事実的論証」は進展しえないのである。
(リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
「正統化」に関する−−−−権利問題の特性に関する−−−−カントの考えを維持したい欲求にかられて、ブープナーやローゼンバーグは、超越論的論証を「理論的」なものとしてではなくむしろ「実践的」なものとして解釈する。私の理解が正しければ、二人とも、正統性についての問いに事態の記述で答えることを、避けようと努力している。なぜなら、そのような答えはみな、権利問題と事実問題とをまたしても癒合させてしまうことになるからである。文化批判−−−−哲学以外の学問分野からなされる真理、合理性、客観性の主張を正統化するもの----としての超越論的哲学という考えを意味あるものにしようとすれば、この戦略をとるしかないように思われる。しかし、この戦略が成功するとは思えない。
(リチャード・ローティ「超越論的論証・自己関係・プラグマティズム」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
ところで、こういったリチャード・ローティによるブープナー批判に対して、ブープナー自身は反論を行っていて、その論文がこの論文集には一緒に収められている。
超越論的論証の成果はただたんに次の点に存するものではない。つまり、その時々の場合によって提出される選択肢が、われわれの現にある知と共通な構造をもちすぎているために、独自の選択肢としては妥当しえないとして、それらの選択肢を次々に事実的に棄却することができるということにのみ存するのではない。超越論的論証の「自己関係性」がかかわる範囲はもっと広い。それは選択肢についての考察の可能性そのものにかかわる。与えられている知の形式や、この形式に対する別の選択肢として可能なものを立案、検証、棄却することそれ事態に対しては、[それに対抗するような]いかなる選択肢も提示されない。そして権限への反省、あるいはカントの定式化によれば「権利問題」(quid juris)への反省は、その反省自身のよって立つ場(Ort)についての申告を拒んではならないのである。
(リューディガー・ブープナー「超越論的論証の構造としての自己関係性」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
まあ、古典的な懐疑論への論駁だよね。お前は、カントが駄目でプラグマティズムという「不可知論=白痴化」を選択しようと言うけど、そもそもそのお前の
- 今言った主張
は、カント的な論証を「借りて」やってるのに、なんで、その論証を「正統化」できるの?
他人の「正統化」を馬鹿にしているくせに、その他人は馬鹿だという自分の論証がなんで
- 自分だけは特別
だと「正統化」できると思えるの? ようするに、さ。こういう「メタ」な議論を止めよう、って話だったわけじゃないw
ようするに、リチャード・ローティにしても、デイビッドソンにしてもどっちでもいいけど、彼らの「不可知論=白痴論」からの、
- 全部、物語でいいじゃん
- 全部、ポエムでいいじゃん
- 全部、歴史の教科書でも見ておけばいいじゃん
- だれもが、「適当なことを言って」いるだけで、その意味なんてあるわけないじゃん
- 国家が行ったあらゆる「悪」は、だから、いっくらだって適当なレトリックで「正当化」できるにきまっているじゃん
といったような、いわば
- 知的退行
が起きているし、この二人は「それでいい」に開き直っているだけなんだよねw そして、一番嗤ったのが稲葉振一郎で、彼はデービッドソン主義者として、そのデービッドソンの「反知性主義」の立場から、
- 一切の「適当」
を正当化するw もはや、「なんでもあり」だし、学問なんて、適当に都合のいいことを言っとけばいいんだ、に開き直って、もはや知的な吟味を放棄している。「あー、なんでもいいんじゃない。そんな難しい話」ってw
(...)そこで、わたしには次のように思える。すなわち、以上のおうに[いくつかの命題へと]分節化された没主観的世界確信を唱えても、それはプラグマティズムを解釈学や歴史[主義]の方向へと転換すうる主張を裏付けることにはほとんどならないということである。この転換こそ、ローティが行いたいことなのだが。
プラグマティズムは、[超越論的]反省をこれ以上続けても無益であるという診断を冷静に下し、そこに一種の高次の思想をみている。その思想とは、<それ以上遡って考えることのできないような「歴史」という名のもとに、現にある知を超越論的に基礎づける試みは、われわれに与えられた有限性を克服しようとする誤った試みであるとして、これを退ける>というものだる。ローティが彼の論文の終わりで、「プラグマティズムとは、哲学を終わらせるための一手段というよりも、むしろ哲学の基礎たりうるのか」という問いを立てているのはまったく正当である。そして彼はためらいがちに、次のように答えている。「おそらく、哲学の『正当化』をめぐる問題に決着をつけなければならないという責任に頭を悩ませることが少なければ少ないほど、われわれは自分の文化に対して、より賢明で、より成果の上がる貢献ができることだろう。」(ローティ、注(13)の一〇一頁)
(リューディガー・ブープナー「超越論的論証の構造としての自己関係性」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
デイビッドソン流のプラグマティズム的解決は、超越論的問いに対する答えとはならず、そこ(超越論的論証)には、もはやひとつの問題もないと想定するように奨励しているにすぎない。そのような安直な解決は、だれにもわかりやすいために、問題の除去というこの格率はあいかわらず歓迎されている。しかし、ウィーン学団の実証主義以来、この格率にしたがって行われてきた諸々の経験が、その間十分にはっきりと示してくれていることがある。それは、不要と宣告された諸問題が他の場面とか、あるいは新たな変化記号を付されて[いわば、「移調されただけで」]、再登場してくるということである。
(リューディガー・ブープナー「超越論的論証の構造としての自己関係性」)
超越論哲学と分析哲学―ドイツ哲学と英米哲学の対決と対話
結局、上で引用したリチャード・ローティの論文の個所からも分かるように、ローティ自身が気付いているわけである。つまり、ブープナーが
- 最初から
実践的なレベルで語っていることを。そして、そもそもカントの「法廷の比喩=権利問題」が、古典的な経験論と合理論の対立における、かなり、合理論側を
- 救済
する議論の中で行われていることを。しかし、ローティは論文の「最後」でそう言いながら、前半の論調はまるでそれを知らなかったかのように、無邪気に「ブープナーはナイーブなことを言っている」といったような
- 藁人形論法
を繰り返している。まあ、これが彼の(自分の哲学の商品価値を上げるための)いつものやり方なんだけどね...。