今回のビッグバンで、蓮ノ空の認知が広がったみたいでなによりだが、spotifyのバイラルチャートを見ると、軒並みビッグバンの曲がランクインしているので(リエラも含めて)、その中でも蓮ノ空が上位を占めているということで、よかったな、といったところだろうか。
さて。そういうことで、蓮ノ空と他のラブライブシリーズとの違いはなんなのか、といった視点でここでは考えてみたい。
もちろん、いろいろあるんだろうが、おそらく多くの人が最初に気付くのが、蓮ノ空内のグループ編成が、それぞれ、二年生と一年生の二人単位の編成になっていることだろう。ストーリーはこの一年生が入学したところから始まるのだが、ということは、二年生は
- 去年
スクールアイドルをやっていたということを意味して、かつ、ラブライブを目指していた、ということを意味して、それが一つの「謎」として、ストーリーは展開する。もちろん、このスクールアイドル部は「伝統」があり、過去の輝かしいラブライブでの栄光が語られる場面もある。
こういった説明は、当然だが、ラブライブシリーズの過去の蓄積があって、もはや、サブライブに参加した「卒業生」を話題にすることが可能になっている、といった状況の変化でもある。
そして、多くの人が思うポイントは「なぜ、一年生と二年生の二人単位」なのか、だろう。
こういった状況について、哲学では、
- 二人称問題
として語られてきた経緯がある。哲学は科学がそうであるように、最初、「三人称」で記述されるのが当り前だった。それに対して、それでは人間の本当の心の中を解明することはできないとして、より、文学的というか、一人称での記述が増えていく。デカルトのコギトエルゴスムがそうであるように、まず、自分の「自我」に目を向けるようとなって、それが、実存哲学などになっていく。
しかし、である。
そうやって考えていったとき、じゃあ、二人称ってなんなんだ、ということになる。日常の会話の「ほとんどすべて」は二人称である。私たちは「あなた」としか語りかけないし、それで必要十分ですらある。だとするなら、この「二人称」というスタイルはなんらかの本質的な意味があるんじゃないか、と思われてくるわけである。
古典的な名著としては、マルティン・ブーバーの『我と汝』があるが、この問題は柄谷行人が「他者」論として、初期の頃からずっと考察し続けてきた問題だと言ってもいいだろう。
ところで、この問題は近年のカント再評価の流れで注目された議論でもある。まず、カントの実践理性に対応して、コースガードというカント研究者がそれを「アイデンティティ」の問題として、カントの実践理性が
- 倫理の問題を超えて
私たちの日常的なあらゆる「実践」的な活動に応用できることを発見する。
これを受けて、スティーブン・ダーウォルというカント研究者は、コースガードのこの整理の重要な意味を理解しながら、他方において、これは変だ、と考えた。- カントの実践理性が、アイデンティティという「一人称」の観点からのアプローチによって、倫理以外に応用できるということは、だとするなら、カントの実践理性が「倫理学」として考察されている理由は別のところから探されるしかない。
と考えて、それを、
- 二人称
によって整理する着想を抱くようになる。
言うまでもなく、二人称とは一人称をどこか「含んで」いる概念である。つまり、二人称は一人称の「延長」に現れる概念だと言うこともできる。ここで視点を変えて、去年の日本のアニメを考えてみたい。去年の日本のアニメは主に以下の二つが席巻したと言える。
- リコリス・リコイル
- ぼっち・ざ・ろっく
この二つを比べたとき、明らかに前者は「二人称」であり、
- バディもの
だ。それに比べて、後者を「二人称」ものだと言う人はいないだろう。ただ、ぼっちちゃんという主人公の「一人称」が一方にありながら、各話は、そのぼっちちゃんと別のキャラの誰か一人が、その回の「主要」な対話相手として登場する。そしてその関係はある意味で、二人称と言うこともできる。
ところで、リコリコはもしかしたら、蓮ノ空にも大きな影響を与えているのかもしれない。リコリコのテレビシリーズのエンディング曲である、さユりの「花の塔」の歌詞は、どこか、「holiday∞holiday」の歌詞に似ている。その場合、
- 日ノ下花帆(ひのしたかほ)=錦木千束(にしきぎちさと)
- 乙宗梢(おとむねこずえ)=井ノ上たきな(いのうえたきな)
と対応している。まあ前者は病気の件から考えて、自明だろう。
この二つを比べたとき、リコリコのストーリーは大変に印象深い作りになっている。ストーリーの第1話で、たきなは千束と出会い、互いにバディとして行動するようになる。しかし、たきなは彼女の今の状況に不満だった。つまり、元いたチームに戻ることをリーダーにお願いしていた。
しかし、第3話で、彼女は自分がチームから「捨てられた」ことを知る。孤児として、チームの中でしか生きる術を知らなかった彼女は、千束に励まされる。きっと、彼女を元のチームに戻してあげる。
そうして、少しずつお互いを知るようになり、バディとしてチームワークも生まれてきた二人だが、第9話で、たきなは千束が
- 数ヶ月の命
であることを知る。千束は不治の病のため、残りの命が限られていた。このことが、たきなに根源的なショックを与える。
なぜ、千束はああなのか? それは彼女が「自らの死」を受け入れた存在だったからだ。彼女は、たきなや回りの人と「同じ」ものを見ていながら、考えていることはまったく違った。彼女は、常に自分が死んだ後、なにを回りに残すのかしか考えていなかった。
たきなは確かに千束に救われた。しかしその千束のたきなへの
- 無限の贈与
は、たきなを常に戸惑わせてきた。
なぜ千束は、あのように常に明るく、元気なのか? それは、彼女が近いうちに自分が「死ぬ」ことを分かり受け入れていたからだった。彼女は残りの人生を精一杯生きようとした。そして、回りの人に無限の贈与を与えることをためらわなかった。
彼女はこの世界について、悟っていた。
そして、他方において、たきなが悩んでいることを理解し、彼女の悩みを「大切なこと」として大事にしようとした。
他方、たきなにとって、千束のそれは彼女を根源から変えるなにかだった。彼女は、これからの人生を、第一に、千束を救うチャンスが少しでもあるものに賭けて選んで生きることを誓った。彼女は自分が、それまでに千束からもらった「優しさ」に、同等のお返しをすることなく、悔いの残る生き方を選べなかった。
まあ、最終的にこのストーリーがどのように終わるのかは今さら語る必要はないだろう。
大事なポイントは、この、たきなと千束の
- 視差
の差異なのだ。
さユりの「花の塔」の歌詞には次のようなフレーズがある。
君の手を握ってしまったら
孤独を知らないこの街には
もう二度と帰ってくることはできないでしょう
君が手を差し伸べた 光で影が生まれる
歌って聞かせて この話の続き
連れて行って見たことない星まで
(さユり「花の塔」)
対して、スリーズブーケの「holiday∞holiday」は以下となる。
月・火・水・木・金・土・日
毎日が holiday
Don't stopで私の常識吹き飛ばして
君の世界へ連れていって
風よりもっと早く走れる場所へ
Ah 心のもっと深く叫ぶ場所へ
(スリーズブーケ「holiday∞holiday」)
たきなが千束の中にどんどん入っていくことは、彼女が未知の場所に行くことを意味する。そして、そこからはもう、元の場所に戻ることはできないのだ! 二人が「バディ」になるとき、たきなは千束の「世界」を知り、千束と同じ世界を見ることを意味する。そしてそれは、日ノ下花帆と乙宗梢の二人にとっても同じなのだ...。