世界は「波=関係=二人称」でできている

前回は、蓮ノ空のスリーズブーケの「二人称」について考察してみた。
しかし、この話題は実は私のこのブログでは鉄板ネタだったりする。
そういえば、前回、「現代形而上学入門」なる本について書いた。そして、その最初は存在論で、かつ、素朴実在論だ、といったことを書いた。そのことが示すように、実は、

  • 文系

というのはこの「素朴実在論」が大好きだったりする。その延長で、分析哲学功利主義を「自称」する文系の学者というのはたくさんいる。この世界は「モノ」からできている。あとは、そのモノを

  • 分類

すればいいんだ。分類ということは「文系」の仕事だ、と。
しかし、そうなのだろうか? つまり、そういったこの世界の「分類」は本質的なのだろうか?
この話題を数学基礎論からアプローチしてみると、

の差異、と言うことができる。公理的集合論において、集合は分かりやすい「モノ」だ。まさに、素朴実在論が言う「存在」だ。これほど分かりやすい分類はないだろう。よって、あとは公理的集合論で全てを記述すればいいよね、と<考えてきた>。
考えてきた?
そう。これに対して、ある疑問が提示されたのだ。それが、圏論だった。圏論は以下の「形式」となっている:

  • f:A→B

これはまさに、集合論における「関数=写像」だ。しかし、集合論においては、関数とは「グラフ」のことだ。つまり、関数は

  • 集合

によって「定義」される。つまり、集合論においては、関数より集合が「本質的」だとして扱われていて、「すべてが集合」の世界となっている。
対して圏論においては、「すべてが関数」ということになる。しかしそう言うと、人によっては違和感をもつだろう。まず、関数の表現には「f、A、B」の三つの存在が表現されている。なぜ、三つのものから構成されるものが、より根源的な表現だと考えられるのか? 次に、関数の表現に現れる「A、B」は、当然、圏論においては無定義用語ということになるが、これは見た形から少なくとも、表面上は関数じゃない。関数でないものを使って関数を定義している時点で、それを本質と言うのはもはや、誤謬なのではないか?
この懐疑というか批判は本質的である。というのはまさに、この疑問こそ、一人称に対する「二人称」の先行性を説明するものになっているからだ。
例えば、サッカーというスポーツを考えてみよう。このスポーツは手を使わないで、足でボールを扱って、最終的に相手のゴールに多くボールを入れた方が勝利する。その場合、次のような関係が繰り返し現れていることに気付くだろう。

  • ボールW:選手A→選手B

まさに、圏論における関数の形式となっている。ボールをもっているある選手Aが次の選手BにボールWをパスするときを考えてみよう。その場面を想像したとき、当り前だが、その選手Aの頭の中の情報処理は短時間で行わなければならない。そうした場合に、

  • ボールWとは何か? ... ボール「集合」にWは属しているか?
  • 選手Bとは何か? ... 選手「集合」にBは属しているか?

なんていう形式操作をやっている場合じゃない。そんなことよりなにより、短時間で、

  • どっちからどっち

にボールを渡すか、を瞬時に判断して見極めなければならない。そして、この「連鎖」、つまり、

  • 結合関数

をイメージし、実際の行動に移すことがなにもよりも重要だ。つまり、

  • ボールW:選手A→選手B→選手C→ ... →ゴールX

だ。つまり、最初から、あらゆる対象が、

  • ボールW:選手A→選手B

「だけ」になっていた方が、情報処理としては「高速」なのだ。そして、この場合に、対象を

  • ボールW(という関数・方向・矢印)

によって整理する場合もあるし、対象を

  • 選手A、(かつ、向き先が)選手B

という形で整理する場合があり、後者を一般に「二人称」と言うわけだが、この三つの表現は同値であり、同じことを言おうとしている。
例えば、一人称から二人称へ拡張する観点からこれをとらえるとすると、選手Aにとってはこれは、

  • (選手Bのいる)方向

に向かってアプローチをするということを意味するわけで、

  • どっち向きか(0〜365度)

の方向という「一次元」で表現できるわけで、こう考えるなら、この表現はこの意味においては最もシンプルな表現だ、と理解することもできるのだ。
こういった事情はもはや数学だけではない。最先端の物理学である、場の量子論においても同様の状況が言われている。
「場の量子論」において、物質・素粒子というのは、そもそも「粒子じゃない」。これは、

  • 波(なみ)

なのだ。つまり、「場の量子論」は粒子というのは厳密には存在しない、と考える。私たちが一般に粒子と呼んでいるものは、ある「波(なみ)」を便宜上そう呼んでいるにすぎない、と考える。
では、私たちが日常的に「粒子」と呼んでいるものの最小単位である「素粒子」はどういったものと考えられているか。それをイメージするのに、ある井戸を考えてみるといい。その井戸は上は開いているが、その下は筒状になっている。その円筒状の中に入ってきた波(なみ)は、そもそも、この形状から、

  • とりうる周波数が限られる

わけである。つまり、ここではさまざまな周波数が共存できない。よって、それは

  • 定常波

となる。その定常波が一つの輪のようになって、ぐるぐる回って、もはや波が止まっているかのように、「定常」な形として、おちついてくる。そしてその一個が、あたかも「粒子」のような動作をする。これが、場の量子論での素粒子のイメージだ。
このイメージに対応して、二重スリット実験を考えてみよう。発射口から発射した光の粒子は、そこから飛びだすやいなや、どうなるか? 上記にあるように、飛びだした場所においては、そこは井戸ではないわけで、つまり、

  • 開放

された空間なわけで、そこにおいては上記にあるような「定常波」の形状を維持できない。そこでどうなるかというと、

  • 普通の波(なみ)

となる。そこにおいては、「さまざまな周波数」が統計学的にさまざまに干渉しあう。場の量子論において、それぞれの量子は(電磁気学における電磁場に対応する)「量子場」という、その周辺の空間に広がる場が存在すると考える。つまり、それぞれの場が「重なりあって」いくんだけど、その前に、量子力学の公理の問題がある。
つまり、スリットを通った波が、最終的に壁にぶつかるんだけど、そのどこに点が記されるのか、だ。これは、量子力学の公理から、確率によって決まることが知られている。スリットを通った波はまだ、広がった空間を伝わる。そこは、統計学的な重ねあわせになるわけだが、最終的に壁にぶつかる。すると、壁に近づけば近づくほど、その波は先程の話と同じように、より

  • 定常波=粒子

に近づいていくわけである。ただし、最終的に壁にぶつかるというとき、その「軌跡」は最後にならないと決まらない。さまざまな波の「可能性」として描かれるだけで、あくまでも、その最後の壁に印をつける場所が量子力学の公理として決められている

  • 確率的な位置

になっている、ということしか言えない。つまり、量子力学の公理が示しているように、スリットを通ってから壁にあたるまでの軌跡は、あくまでも

という形で記述できるだけで、それを先天的に「どれ」といったように、逆算で予測するというよううな行為を許さないわけである。あくまでも、確率論の範囲で、壁にプロットされる点が分布する、ということだけが予測できるだけ。
こういった事情は「量子もつれ」についてもそうで、量子もつれとなる対象は、まさに

で記述された方程式を満たした形で、あると言うことしかできず、その「もつれ」状態が終わったときの描像が、公理で記述された「確率」の範囲で現れるとしか言えない。つまりは、公理の

  • (確率を含んだ)数式

そのもの、だと言ってもいいわけだ。
こういった、この世界の「世界観」を考えるとき、これを「関係」という言葉で説明してもいい。あるなんらかの中心的なコアがあって、それを中心に世界が構成されているといったような一人称のアプローチに対して、この世界を常に(ある方向に向かった)「働き」が集まっている世界なんだ、と解釈する。そうすると、その「働き」が

  • どこからどこへ向かっているのか?

というように整理されていく。つまり、「方向」がある。言うまでもないが、波(なみ)とは、

  • 進む方向をもったもの

であるし、アニメ「リコリコ」における、千束からたきなへの

  • 無限の贈与

にも「方向」がある。では、一人称的な「自我=個」とはなにか? これを、柄谷行人なら、

  • 自己言及性

と言うかもしれない。つまり、この「働き」が自らから自らに「向かって」いるという、

  • 二人称の「特殊なパターン」

だとして、一人称的な「自我」を、二人称の中の「一つの特殊なパターン」として整理する方法だ(この形式がすっきりするのは、まさに、圏論において、「集合」を定義するときのやり方が、まったくこれと同じ方法を使っている、というところにもあらわれているだろう)。
カントの批判哲学、つまり、超越論的論証が「トンデモ」だと言われるとき、他方においてそれは、

  • 自己関係性=自己言及性

を含んだ論理構造となっていると言われるわけだが、おそらくそれは、単純な分析哲学的な「自分たちの手法で説明できないものは、黒魔術的なトンデモとして<排除>」していく

  • 禁欲主義

に対する、つまり、経験論に対する合理論の擁護の文脈を意図されたものなのだろうと解釈できるわけだが、もっと言えばそれは、そもそも理論が最初から

  • 実践

を意図されたものだ、ということを隠れた意図としてもっていたことを意味しているとも言えるだろう。自己言及的な文章は、経験論的な意味での、経験の分析には向かないが、私たちが

  • なにかに向かって行こう

とする、その意図や動機を記述するときによく使われる。つまりそれは、今、「説明」されるべきものではないとしても、いずれその意味が分かってくるはずだという確信によって、

  • 人をつき動かす

強さをもっている。言うまでもないが、実践とは「方向」をもち「前に進む」なにかを意味しているわけで、スティーブン・ダーウォルを借りるまでもなく、「二人称」的な実践倫理をはらんでいる...。