鈴木荘一『それでも東條英機は太平洋戦争を選んだ』

以前から、私が分からなかったことがある。
なぜ、日本はWW2で、アメリカとの和平を結べなかったのか、だ。それに対してよく、

  • 国体

ということが言われる。つまり、「天皇制の護持」のことだが、しかしその「放棄」をアメリカに要求された(つまり、無条件降伏)は、敗戦時にアメリカに要求されたことだった。
これが私には分からなかった。
いや。敗戦よるはるか以前に、なぜ、日本はアメリカと「和平」を結ぶという選択ができなかったのか?
なんか、おかしくない?
日本はアメリカとの戦争に負けて、無条件降伏、つまり、

  • 国体をあきらめる=天皇制の護持をあきらめる

という選択を迫られたわけだけど、そんな「究極の選択」を迫られる前に、アメリカと「和平」を結ぶ機会は、いくらでもあったよね。
なんで、それを選択しなかったの? 結果として、無条件降伏をやっておいて、なんでそれ以前に、それよりも「条件のいい」内容で、アメリカと和平を結ばなかったの?
この疑問に、この本ほどよく答えてくれるものはないw

しかし東條は、二・二六事件後の粛軍に際し、皇道派をお嫌いなされた天皇の意を汲んで憲兵を督励し、全満州における皇道派的色彩の者を片っ端から検挙。その数二千数百人に及び、東條はこの皇道派粛清の功により、同年十二月に中将へ昇進して昭和十二年三月に関東軍参謀長に就任した。

かかるなか盧溝橋事件が発生すると関東軍(司令官植田謙吉大将・参謀長東條英機中将)は異常な熱意で察哈爾省への出兵を意見具申し、参謀本部はそのつど却下していたが、八月八日に作戦を認可した。すると本来はスタッフである筈の関東軍参謀長東條英機が兵団長となった察哈爾派遣兵団三個旅団(俗に「東條兵団」といわれる)は、八月九日から目覚ましい進撃を果たして察哈爾省・綏遠省を制圧し、十月十七日に綏遠省の包頭(モンゴル語で「鹿の居る場所」)を占領して作戦を終了した。これを察哈爾作戦という。そして東條兵団に随行した徳王が、十月二十七日、綏遠省の厚和(現在のフフホト)にモンゴル人の自治政府を樹立した。

しかし陸軍次官東條英機が「蒋介石下野が絶対必要」と強調し、宇垣和平工作を潰した。

陸軍次官東條英機中将が、参謀次官多田駿中将(陸士第十五期)の、
蒋介石を対手とする和平で良い。いかなる条件でも良いから一日も早く支那との和平を実現したい。何としても支那事変の早期和平を実現しなければ日本はソ連英米と戦争になって破滅する」
との主張に敵意を示したのは、日支和平の実現で、東條自身が失脚することを恐れたからである。

この流れ、分かりますかね? 日本の陸軍は、皇道派と統制派に分かれていた。前にも書いたけど、皇道派というのは、保守本流で伝統的な日本陸軍の人たちのことを意味していた。彼らは日露戦争の生き残りで、当時の陸軍は現場の叩き上げが上官になるような組織だったため、上官が下の人間の気持ちが分かる人が多かった。彼らは基本的に

  • 非戦

を主張した。つまり、完全に「戦後憲法」の精神を実現していた。彼らの基本的な世界観は、

  • 警戒すべきはロシアで、そのロシアの南下に対抗するために、日本は「中国・アメリカ・イギリス」と仲良くして、いざとなったら、彼らと一緒に協力して、ロシアの南下を追い返す

という考えだった。これによって、日本は極端に軍事力を増大させて、国内経済を衰退させて、日本を貧乏にすることを回避できる、と考えていた。
対して、統制派は新しく作られた、上級国民のご子息を受け入れるために作られた、エリート士官養成学校の卒業生によって結成された、好戦的なボンボンで形成されていた。統制派のリーダー的存在が永田鉄山だが、彼は

  • ドイツと同盟を結ぶべき。それによって、中国を占領して、アメリカ・イギリスに戦争を仕掛けるべき。

という主張だった。二・二六事件の直前に永田鉄山は暗殺されたわけだが、決定的な事件が、二・二六事件だった。
この事件で、完全に昭和天皇が、

にGOサインを出した。そしてこれ以降、皇道派復権はありえなくなった。上記にあるように、東條は次々と皇道派を粛清して、その功績によって、出世した。
出世するやいなや、東條は盧溝橋事件の直後に、察哈爾作戦を実行した。
しかし、である。
当時の日本の課題は、「どうやってアメリカと仲良くするか」だった。なぜなら、これができなければ、日本は石油を手に入れられなかったからだ。そして、この目的を実現するための当時、一番簡単な方法は、

  • 中国と和平を結ぶ

ことだった。しかし、これに東條は大反対をする。中国に侵略して、中国の日本の所有物にするまで、絶対に手放してはならない、と主張した。
しかし、これは変じゃないか? なぜなら、中国の和平をできなかったら、アメリカが日本に経済制裁をしてくることが分かっていたからだ。つまり、日本はアメリカと戦争をすることになって、圧倒的な軍事力の差によって戦争に負けることが事前に分かっていたからだ。
なぜこうなることが分かっていながら、東條は強硬に、中国占領にこだわったのか? それは、そもそもの最初は、東條は「統制派」なのだから、中国侵略を「目指していた」からだw だから、盧溝橋事件の後、すぐに察哈爾作戦を決行した。
そもそも日本政府は、何度も何度も蒋介石と和平交渉をやっていた。しかし、蒋介石は日本側の和平の提案に徹底的に断り続けていた。なぜ断ったのか? それは、蒋介石が、

  • 東條が「蒋介石下野が絶対必要」と言っていた

ことを知っていたからだ。これが撤回されていない限り、蒋介石は日本の和平の提案を絶対に受け入れないと考えていた。
じゃあなぜ、東條はそれにこだわったのか? それは、東條自身が日本が蒋介石と和平をしてもらうと困る理由があったからだ! つまり、日本が蒋介石と和平を結ばれると、

  • 東條自身が中国で行った「悪事」

がばれて、自分の身分があやしくなる、と考えていたからだw
当時であれば、アメリカと和平を結ぶことは簡単だった。つまり、中国と和平を結べばよかった。そしてその最も簡単な方法は、日本が中国から撤退をすればよかった。こう言うと、日本が中国にもっていた権益が失われるんだから、そんなに簡単にやれることじゃない、と思うかもしれない。しかしそれによって、

  • アメリカと戦争をすることになる

と考え、さらにそれによって、日本が「無条件降伏」を受け入れなくてはならなくなったことを考えれば、それと比べれば、中国からの撤退なんて、たいしたことじゃなかった。
考えてみてほしい。いったん、中国から撤退さえできれば、アメリカと和平を結べて、いっくらでも、アメリカから石油を輸入することができた。
じゃあ、そうして、石油を大量に輸入して、それから改めて、アメリカとの関係を再考すればいいよねw 日本は石油がなければ戦争できないと分かっていて、アメリカが石油を売ってくれているのを分かっていて、そんな「損得勘定」のはっきりした事実があることが分かっていながら、東條があそこまで、中国強硬論にこだわった「理由」って、もう

  • 自己保身

以外にありえないってことぐらい、馬鹿でも分かるでしょ?
あのさ。そもそもなんで、東條は察哈爾作戦を行ったの? それは彼が統制派で永田鉄山の戦争史観を信仰していたからでしょ。だから、真っ先に中国への「先制攻撃」をやった。
やっちゃったから、それ以降に日本が「なんとしてでも中国と和平を結びたい」となっていくのに、いちいち邪魔しないわけにいかなくなってしまった。
そしてそれ以降、日本の敗戦まで、東條は最後まで、中国からの撤退を一回も提案していない。もう、意味なんてないわけである。なんとしてでも、中国から撤退しない。
でもさ。おかしくない?
東條は戦争末期になると、内閣総理大臣になる。これは、昭和天皇の承認がなければなれない。すると、天皇は「アメリカとの和平の道を探れ」という命令を東條に下す。すると、東條はなんと言うかというと、

と言ったわけ。つまり、天皇の意志に絶対に逆らわない、と言っているわけ。つまり、東條はそれ以降、アメリカとの和平交渉を始めるわけだけど、日本がアメリカに提案する和平案は、アメリカによって

  • ことごとく却下された

わけ。しかし、ね。東條は結局最後まで、「中国からの日本の撤退」をアメリカに提案しなかったんだよね。それをやらないで、

  • もはやアメリカにここまで無理難題を突き付けられたら、アメリカと戦争をせずにはいられない

と言って、昭和天皇に開戦の詔を受諾させたの。
この構造って、一見すると、東條が天皇の「忠臣」として、絶対服従として振る舞ったからと言いたくなるかもしれないけど、そもそも、お前は、察哈爾作戦を勝手にやっているわけでしょ。じゃあ、なんで、察哈爾作戦を勝手にやったの? そういう「思想」をもっていて、そうすることが「善」だと主張していたわけでしょ。
この思想はどうしちゃったの? つまり、この思想があるから、アメリカとの和平の可能性があったのに、それを実行できなかったわけでしょ。
それって、天皇を「アメリカと和平を実現しろ」という命令に逆らっているよね?
いや。東條自身がたとえやれなかったとしても、だったら、東條が内閣総理大臣を辞めて、後進に道を譲ればよかったわけでしょ。
なんでそれができないの?
東條さ。お前、本当に天皇の命令は絶対だと考えていたの? ようするに、さ。嘘くさいわけ、ね。

昭和二十年八月に終戦となり、昭和二十一年五月に始まった東京裁判はいよいよ核心に近づき、昭和二十二年十二月三十一日、被告木戸幸一内大臣の無罪を狙ったローガン弁護士が東條に、
「木戸内大臣が、天皇の平和への希望に反する行動を、とったことがあるか?」
と質問した。これに対して東條は、
「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、かれこれするということは有り得ぬことであります。いわんや日本の高官においてをや」
と胸を張って答えた。するとこの発言は世界に「東條が天皇の責任を認めた」と報道された。東條証言によって天皇の責任が追及されることを懸念した木戸幸一や田中隆吉(元陸軍省兵務局長・陸軍少将)が東條に答弁撤回を説得した結果、東條は前言を撤回し、キーナン検事の尋問に対して、
「(米英蘭に対する)戦争は私の内閣において決意しました。天皇のご意思と反したかもしれませんが、私の進言、統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが事実です」
と証言したので、ソ連などから出されていた天皇訴追の動きは消滅した。

なにこの茶番劇って思いません? 前言撤回って何w 撤回したって、言ったことが変わるわけないでしょ。言ったことはそのまま残る。ただただ、当り前の事実。
ようするに、さ。大事なのは、ここにある「ポイント」だと思うんだよね。
東條は、自分の「責任」を天皇に押し付けるつもりでいたわけ。彼はずっと、そう考えていたの。そもそも彼は、一度たりとも、天皇に反することを自分がやったと思ったことがないのね。
そして、そう考えてみると、

  • 2・26事件

って決定的に重要だったんだよね。あれによって、日本陸軍から、皇道派がパージされて統制派によって乗っ取られたわけ。そして、東條は、皇道派のリーダークラスを次々と牢屋にぶちこんだだけじゃなくて、戦争の最前線に一兵卒として行かせて、戦死させることによって

  • 恨み

を晴らしたわけ。そうしたら、さ。なんと天皇は、その

  • 功績

を認めて、東條を殿上人に昇格させたんでしょ。東條が、「皇道派をパージした」ら、天皇がその「功績」を認めて、勲章を与えて、どんどん昇格させて、陸軍大将どころか内閣総理大臣にまで昇りつめさせた。いや、そこまでやったら、天皇は「東條が思っていると、やっていることの<全て>を褒めていてくれた」と思うに決まってるだろ、と東條は言いたいわけね。俺は天皇のために最後まで、がんばったんだ、って。つまり、

から、

  • 東條が日本をぶっこわした

までを、「ワンセット」にして、この塊(かたまり)が一体なんなのか、を考えなきゃいけない、ってことなんだよね...。